第四話【詩無】


舟は、宿屋の近くの船着場にそっと横付けされていた。


中では、青年がぐったりと身を横たえている。


禁足地の岸辺を出発した時には、かすかに意識を保っていたが、舟を漕ぎ出して間もなく、完全に気を失ってしまった。


「……待ってて」


パティはそっと青年の体を支え、桟橋に降り立つと、迷わず走り出した。


宿屋の灯りはすぐそこにあった。


胸の奥がざわつく。


「早く休ませなきゃ」

青年の正体はとりあえず後回し。

とにかく休ませなきゃ、とパティは急いだ。


「リオ先生!」


宿屋の扉を開けると、冷たい空気がふわりと押し返してきた。


パティはそのまま飛び込むように中へ駆け込み、一直線に廊下の奥――リオのいる部屋の扉を叩いた。


「リオ先生! 起きて!」


――パティの帰ってきた音に反応して素早くばたばた、と階段の上から駆け下りてくる足音。


「パティ……? どうしたんじゃ……」


現れたのは、寝間着の上に羽織をかけたミュンド長老だった。

髪はまだ寝癖のままだが、その目は冴えていた。


「何があった?」


「とにかくリオ先生を――!」


言いかけた瞬間、緊迫感とはおよそ縁のない動きでキィ……とゆっくりと扉が開いた。


「……んぁ〜……はいはい、おはようございます。リオ先生ですよ〜……」


ぽんぽんのついた三角帽子、ネコと星柄の混ざったパジャマ、

手にはなぜか開かれた本――寝ぼけた顔で眼鏡をかけながら、リオが登場した。


「……って、え? なになに? “深夜のドッキリショー”……?」


「リオ先生、ふざけてる場合じゃないの!――舟に人が! 気を失ってるの!」


パティが叫ぶ。


その声を受けて、リオの表情が一変する。


「……わかりました。舟着場ですか?」


「うん、急いで」


一瞬で帽子を脱ぎ、パジャマの上にローブを羽織る。

本を棚に置き、足元に落ちたスリッパをつま先で引き寄せ、そのまま足を滑り込ませた。


ミュンド長老も、真剣な目で頷いた。


「寝床を用意しておく。状況によっては薬も用意するからの」


「ありがとう、お爺ちゃん!」


リオとパティは、すぐに外へと駆け出していった。

静まり返った夜の村に、足音がふたつ、ぱたぱたと消えていく。




* * *




洞窟の亀裂から差し込む陽の光が、カーテンの隙間からやわらかく届いていた。


静かな部屋。寝台の脇に置かれた小さな机。その上に突っ伏すようにして、パティは眠っていた。


パティの指が、ぴくりと動く。


「あふ……」


薄く目を開けたパティは、机に押しつけていた頬の下に、ぬるりとした感触を覚えた。


(……よだれ。)


慌てて顔を上げ、手の甲で口元をごしごしと拭う。


「寝ちゃった……」


と、ぼそりと呟いたその瞬間――


目が合った。


窓の前に立つ青年が、こちらを静かに見ていた。


「――――っっ!」


パティの顔が一気に赤くなる。


「わ、忘れて! いまのは記憶から消して! お願い!」


ばたばたと手を振ってから、机の上の髪を慌てて直し、咳払いひとつ。


「……お、おはよう。寝ぐせ……ついてないよね?」

照れ隠しのように、笑顔を無理やり引っ張り出す。


青年は、静かに瞬きをひとつ。目の奥には、どこかまだ“遠さ”があった。


窓の外、朝靄に包まれた洞窟の風景が、静かに広がっている。


その手前に立つ彼は、どこか“場に馴染んでいない”ように見えた。空間に溶け込まず、わずかに浮いているような、そんな不思議な存在感があった。


「ごめんね、あたし、気づいたら寝ちゃってて……その、具合は……?」


青年はゆっくりと、ひとつだけ頷いた。


それで、なんとなく安心できた。


「よかった……ほんとに、すっごい熱だったから。びっくりしたよ」


そう言いながら、パティはうーっと小さく伸びをして、椅子を押して立ち上がる。


「……あ、あたし、パティ・ミュンドっていいます。パティでいいよ。」


青年は、わずかに表情を変えるとまた、頷いた。


どこか遠くを見ているような瞳。その奥に、何か言葉にならないものが潜んでいる気がした。


(……まだ、喋れないのかな)


でも、大丈夫そう。無理はしてなさそうだし……


「うん、じゃあさ、まずはごはん! 体、ちゃんとあったかいもの食べなきゃ元気出ないから!」


パティはにっこりと笑い、指を立ててみせた。


「ちょっとだけ待っててね。すぐ用意するから!」


そう言って、パティは部屋の扉をそっと開けた。




* * *




鍋の中で、とろりと煮込まれたパンがゆが、ふつふつと小さく泡を立てていた。


干し野菜と刻んだ香草が浮かんだそれは、ほのかに金色がかった色合い。ほんのり甘く、でも奥にピリリと薬草の香りが効いていて、胃にも魔力にも優しい。


「よし、できたっ」


パティが小さく頷いたそのとき、扉が開いた。


「おや、いい匂いがすると思ったら……」


ミュンド長老が、ゆっくりと台所に現れる。寝間着の上に羽織をかけ、白髪の寝癖を撫でながら椅子へと腰を下ろす。


「おはよう、おじいちゃん。魔力回復のやつ、朝から作ってみたよ」


「うむうむ、気が利くのう。あやつにも、ちょうど良かろう」


廊下からドタドタと足音がして、ひょこっと顔を出したのはリオだった。


「おはようございますー……っとっと、スリッパ脱げた……」


パジャマは、昨日とまったく同じ――ねこ柄と星柄が組み合わさった、なんとも奇抜な一着。


「……昨日も思ったんだけどさ。先生のパジャマ……どうして毎回、柄がケンカしてるの?」


「え? してないしてない。共存してるよ? ネコと星。宇宙の平和だよ?」


「いや、星がネコに襲われてるようにしか見えないけど……」


呆れたように笑いつつ、パティは器を取り出し、パンがゆをよそい始める。


「多めに作ったから、ふたりともこのまま食べてってね。あたし、彼にも持っていくから」


「うむ。それがいい。それで少しでも回復すればの」


「そういえば、今日は禁足地の調査だったっけ?」

パティは夜中のうちにこっそり返しておいた鍵のことを思いながら、リオに尋ねた。


「うん。魔力ゴミの回収と観測、いつもの定期作業。いればスライム掃除」


リオは気楽そうに肩を回しながら答える。


パティは、昨日の“ざらつき”を思い出していた。


「……あの場所――油断しないでね、先生」


「ん?」


きょとんとした表情を向けたあと、リオはすぐにイタズラそうに笑みを返した。


「――深くは聞かないけど、昨日禁足地に行ったことは内緒にしておいたほうがいいよ……どうやら“当たり”だったみたいだけどね――」


「うぐ――ば、バレてる」


「パ、パティ……またお前は無茶を――」

ミュンドが頭を抱えて言った。


「あ、あたし行かなきゃ! 2人ともまた後でねー」


器を抱えて、ふんわりと立ちのぼる湯気を見ながら、パティは慌てて台所を後にした。


そのまま、寝室のある奥の廊下へと歩いていく。




* * *




扉をそっと開けると、部屋の中はまだ静かだった。


青年――彼は寝台に腰掛け、窓の外をぼんやりと眺めていた。

壁に反射した薄紫の光が、輪郭を淡く縁取っている。


「……おはよう。持ってきたよ、あったかいやつ」


湯気の立つ器を両手に抱え、パティはゆっくりと部屋に入る。


「胃にも優しいし、魔力の自然治癒も促してくれるってお爺ちゃんお墨付き」


青年は、ゆっくりとこちらを振り返った。

目にはまだ霧がかかっているようだったが、昨夜よりも確かに“生きて”いた。


「……食べられそう?」


無言で、こくりと頷く。


パティは器を椅子の脇に置き、木のスプーンを添えた。


青年はそれを手に取る。ひと匙、すくって、ふう、と息を吹きかけ、口へ――


――その瞬間。


「……!」


眉がひくりと動く。


もうひと口。さらにもうひと口。


「……うおおっ……?」


そして、さらにもう一口。咀嚼。ひと呼吸。


「……ありがとう世界――!!」


叫んだ。


部屋中に響く声に、パティが目を丸くする。

青年は無表情で、少しだけ申し訳なさそうに体を丸めた。


「す、すまん美味すぎて……つい、声が……」


「あはは……反応よすぎてびっくりした」


パティが笑うと、青年は少しだけ目を細めた。


けれど、その目には、確かに何かが戻ってきていた。


「……食べた瞬間、頭がスッキリした。まるでどこかにいってた脳みそが戻ってきたみたいだ」


「……わかりづらいなぁそれ――美味しかったってことでいい?」


「……ああ。めちゃくちゃほめてるぞ」


「そっか、ならよかった……!」


パティはよいしょと腰を折り、彼のそばに座った。


青年はもうひと口、ふた口とパンがゆをすくってゆっくりと食べ進めていく。


「ふわふわして、あたたかくて消える。でも……心に残るような」

ふと、青年はスプーンを止めて、ぽつりとつぶやいた。


「……俺、記憶がないみたいだ」


「……記憶が?」


「自分の名前も、どこから来たのかも、思い出せない」


その言葉に、パティはしばらく黙っていたが、やがて、ふっと息を吐いて笑った。


「ねえ、名前……仮でいいから、呼び名つけていい?」


「……名前?」


「うん。呼ぶにも困るし……あと、名前って自分の居場所にもなるんだよ。居場所、大事」


そう言うとパティは少しだけ思案するように目を瞑って上を向いた。


「うーん――そうだなぁ……昨日、スライムを倒したときのあれ、魔法だったんでしょ? すごく静かで、詠唱も聞こえなくて――まるで詠唱無しで魔法を使ったみたいだった」


うん、決めたと呟くと、パティは指先で空をなぞるように言葉を紡ぐ。


「“詩”の“し”と、“無”の“のん”。あわせて“シノン”。どうかな?」


青年は、ゆっくりとその音を反芻する。


「……シノン……」


そして、笑った。


「気に入った。ありがとう」


「じゃあ――よろしくね、シノン!」


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