第23話 見つめる少女と挨拶廻り


 朝の光が、空に浮かぶ小島『観察区』をやわらかく包んでいた。


 島の中に建つ一軒の小屋。そこへ柔らかな光が窓を照らし、風がカーテンをゆらりと揺らしていた。


 ミコトは机に向かい、左手の小指の指輪をそっと両手で包み込む。それは、同時に遠距離通信機能をを付与された特別な装置でもあった。


 淡い光が指先に灯り、遠く離れた相手の声がふっと鼓膜をくすぐった。


『て、転送1,000回!?』

 指輪から発せられた声の主は、アンジュの明るい声だった。


『あのお師匠さん、思ってた通り厳しいな〜』

「でも凄くやりがいがあるよ」

『そんなものなの?』

「うん!」


 ミコトの表情が自然とほころぶ。

 離れていても、まるですぐ隣で話しているようなあたたかさがあった。

 久しぶりの通話なのに、昨日も同じ部屋で笑い合っていたような距離感。


 会話は、互いの日々を交換するように軽やかに続いていく。


『あと、ニア!』

「ミィー!」

 名前を呼ばれた瞬間、ニアが元気よく跳ねて机へ駆け寄り、指輪に顔を寄せる。

 その無邪気さに、ミコトは思わず小さく笑った。


『森の中で迷子になったんだって!?』

「ミ、ミィ~………」

『ナイス!どんな冒険だった!?』


「ミィ!!」

「アンジュちゃん!!」

『す、すみません』

「ミィイイイ〜〜〜」


「ちゃんと反省してるの?ニア」

「ミ、ミィ……」

『まぁ……ホント、ミコトを困らせるなよ?』

「ミィ!」

「もう………」


 アンジュの優しい叱りを、ニアはな“褒め言葉”と受け取り、元気いっぱいに返事する。ミコトは呆れ半分、愛しさ半分でぽそりと息をこぼした。


 その後も、二人と一匹の会話は止まることを知らない。

 アンジュは旅で見た景色や珍事件を、ミコトは牧場での奮闘を

 ニアが張り切って鳴き、ミコトが慌ててフォローし、アンジュが愉快そうに笑う。


 まるで観察区の小屋が、そのまま三人の集まるリビングに変わったような―――。


 そんな束の間の穏やかな時間が、指輪越しにあたたかく流れていった。



          * * *


 ───訓練区。

 朝露がまだ地面に残る小さな広場で、ミコトの声だけが響いた。


「398、399、400ぅ~~!」


 分解と再構築の魔術式が規則正しく展開され、光がふっと生まれては消える。


 彼女の前に鎮座するのは訓練用の“バリスティックスライム”。


 弾力のある体に触れた瞬間、分解式が淡い光を帯び、緻密に構築された魔術陣が展開しては消える。


 転送魔術の基礎動作、“分解”と“再構築”。


 それを“1,000回成功させるまで次の段階には行かせない”。

 グレンが課した、容赦のない課題だった。


「400回目までは安定してきましたね」

 背後からかかった声は、相変わらず淡々としているのに、

 そこにしっかりと師としての評価が乗っている。



「はぁはぁはぁ…………ふーーーーーっ!!」


 ミコトは膝に手をつき、必死に呼吸を整えた。

 魔力の微調整は集中力を容赦なく削る。

 ほんの少しでも気を抜けば式が乱れるため、

 彼女は吐く息ひとつにも気を張っていた。

 その健気な姿を見つめながら、グレンは静かに口を開く。


「今日の修業はここまでにしましょう」

「まだできます!やらせてください」

 息を荒げたまま、ミコトが顔を上げる。

 その目は必死で、気持ちが前に出すぎて空回りしそうなほどだ。


「気概は評価しますが、疲れが残ると明日の業務にも支障がでます」

 その気遣いは優しさではなく、師と同時に上司としての判断だった。


「それに、あなたには本来の業務が有るはずです」

「………え?」

 ミコトの肩が小さく跳ねる。


「レガシー・ギフトの調査はどうなってますか?最近報告がないようですが?」

「………あ!」


 忘れていたというより、意識から完全に飛んでいた。

 焦ったミコトの背筋がピンと伸びる。

 グレンは眼鏡を軽く押し上げながら、静かに言い放つ。


「仲良く同棲させるためにあの地区を設立しわけではないのですよ?」

「………はい」

「また“絵日記”みたいな観察記録を提出したら、修行内容を振り出しに戻しますので、そのつもりで」

「はい………スイマセン」

 凍てつく様に忠告を畳み掛けるグレンの言葉。

 ミコトに言い返す言葉など当然なく、小動物の様に小さく頭を下げたのだった。




          * * *



「うーーーーーーん」

 観察区の小屋に戻ったミコトは、机に突っ伏しながら重いため息を漏らしていた。


「ミィ~ミィィィ♪」

 その横では、ニアがごはんマシンの前に陣取り、

 ちびちびと“晩酌”のように回廊帯を吸っている。


 以前のように無限に吸い続けることはなく、量を控えめにしたところ。

 どうやら“適量”はこのくらいだったらしい。


(……今まで甘やかしすぎてたみたい)

 自分の過保護ぶりに胸を押さえつつも、ミコトは再び机に向き直り、まとめかけの資料を開いた。


【レガシー・ギフト観察記録】


①人語を理解している。


②口に相当する器官は見当たらないが、粒子状エネルギーを吸収して栄養に変換している。


③摂取したエネルギーに応じて空中浮遊が可能。


④好奇心は極めて旺盛だが、危機的状況では急激に萎縮する。


「まぁまぁ……それらしく書けてはいる……ケド」

 つぶやいた声はどんどん小さくなっていく。


 どれも、普段ニアと接していれば“誰でも気づく”ような内容。

 客観性が乏しく、学術資料というよりペットの飼育ノートに近い。


「これじゃあ、ただの引き継ぎメモだよね……」


 多種との協調性も、危険度の評価も、

 結局は“ミコトとニアの関係性”でしか判断できていない。


「こういうのじゃなくてもっと専門的なレポートをまとめないと」

ミコトは「う〜〜〜」っと唸りながら両手で頭を抱えた。


「ミィ……?」

 晩餐を終えたニアが心配そうに覗き込む。

 ミコトは突っ伏したまま、そっとその頭を撫でた。


「ありがとう……でもね……」


 ――ミコトとニアにとって、この小屋は居心地が良すぎる。

 だけどそのせいで前に進む材料が、驚くほど足りていない。


「誰に対しても見せる習性や情報が欲しいよね………」

 その時。

「───“誰に対しても”?」

 自分の言葉に、ミコトの目がぱちんと開いた。

 そして勢いよく顔を上げる。


「ねぇねぇニア!」

「ミィ?」


「あいさつ回りしよっか!」


 唐突すぎる宣言に、ニアは尻尾をぴたりと止めて首をかしげた。



          * * *



 ───翌日。スカイ・ファーム中央棟・育成班の事務室。


 ミコトは朝一番に中央棟へ向かい、グレンの前で姿勢を正した。


「多種との交流?」

「はい!」

 グレンの返答にミコトは胸に手を添え、深く息を吸い込んで続ける。


「ニアは、私との交流しかありません。もしまた唐突にほかの種に触れたときに、あの吸収を咄嗟にしてしまうかもしれません。なにが危険で何が安全かを教えるためにもいろんな生き物を見せてあげたいんです」


 ミコトは取り乱すまいと常に深呼吸を意識しながら、昨晩、必死で練習した台詞を思い出す。


「なるほど」

 グレンは彼女を試す様に、静かに頷いた。


「ニアは現在、言うなれば“人の赤子”に近い存在。このまま育てるより───」

「許可しましょう」

「許可されました!それで………え?」

 ミコトの言葉を途中で切り、グレンは机を軽く指先で叩く。


「善を急ぎ、明日決行しましょう」

「ええええ?いいでんすか!?」

 ミコトの声が裏返る。

 グレンは苦笑すら浮かべず、淡々と続けた。


「ただし条件があります」


「じょ、条件ですか?」


「もしレガシー・ギフトが貴方の信頼を超えた動きをしたとき。それに対処ができる護衛を付けることです」


「…………わかりました」


 緊張が走るミコトに、グレンは椅子を回して正面から視線を合わせる。


「構えなくてもいい、あくまでも保険です。担当者はこちらで選別し当日合流させます」

「ありがとうございます!」

 堪えようとしたが、ミコトの口角はどうしても上がってしまう。

 胸の内側が熱気でいっぱいになり、思わず足が弾む。


「………浮かれてますね?」

「そんなことありません!」


「言っておきますが、これは遠足ではない。しっかりとレガシー・ギフトの反応を観察するように」

「わかりました、では失礼します!」」


 ミコトは深々と頭を下げ、早足で部屋を出ようとする。

 その背中を見た瞬間、グレンはふっと目を細めた。


「スキップしましたね?」

「し、してません!失礼します!」


 ミコトは耳まで真っ赤にして、逃げるように廊下へ消えた。

 扉が閉まるのを見届け、グレンはゆっくりと息を吐く。


「……まったく。仕方のない子ですね」


 誰にも見せない、父親のような微笑みをそっと浮かべた。


          * * *


 翌日、スカイ・ファーム中央棟の広場。


 ミコトは両腕で大切そうに“リゼ特製ケース”を抱えていた。

 その中では、透明な膜越しにニアがそわそわと揺れている。


「付き添いしてくれる人って誰かな?」

「ミィ」

 小さな尾をぴこぴこ動かして、ニアは完全に“お出かけ状態”。

 よく見ると、ミコトの肩にはお昼ご飯の弁当袋も下がっていた。


(……遠足じゃないって言われたばっかりなのに)


 そんな自分に小さく苦笑した瞬間―――。


「オレだ!!!」


 背後から低く通る声が響いた。


「えっ……バジル班長!?」

 振り向くと、そこに立っていたのはスカイ・ファーム最強の男。

 訓練班班長。黑鬼のバジル。


「まさか、付き添い人って………」

「回答ならさっきしたぜ?」

 ニヤリと白い牙をのぞかせ、バジルはケースに顔を近づける。


「ようニア。この前ははしゃいでくれたな」

 コツン、と指先で軽くケースをつつく。


「ミ、ミィ~~~」

 優しいつもりの動作でも、その圧倒的な存在感を前にニアは思わず縮こまった。

 その様子にミコトは慌ててケースを抱え直すが、バジルはゆっくりと顎をあげ、頼もしげに言った。



「心配しなくてもお前ら二人を他の脅威から守る為だ。それに………ニアはミコトの言うことならよくきくだろう?」


 不敵な笑み。だがその奥に確かな信頼があった。

 その一言で、ミコトの肩の力がふっと抜ける。


「……ありがとうございます。よろしくお願いします!」

「オウ!さ~て!とりあえず平原区から行ってみるか!!」


 豪快に腕を回しながら歩き出す黑鬼。

 ミコトもニアも、小走りでその後ろに続いた。


 すると背中に――――。


「ち、ちくしょうミコトの護衛なんて」

「バジル班長ずるいぜ、羨ましすぎる……」

「私もミコトちゃんを守りた〜い!!」


 職員たちの、羨望と嫉妬に満ちたざわめきが突き刺さる。

 嬉し恥ずかしいミコトは聞こえないふりで歩調を合わせたが、バジルだけは肩を揺らしながら楽しそうに笑っていた。



          * * *


 スカイ・ファーム平原区―――。


 広々とした草原がどこまでも続き、遠くの丘では朝陽を浴びた群れが波のように揺れていた。

 ミコトとニア、そして後ろを悠然と歩くバジルの三人は、その中をゆっくりと進んでいた。


 スカイ・ファームで最も広大であり、平穏な区域である平原区。

 その中で多種多様の生物達が悠々自適に暮らしていた。

 ミコトは歩きながら、一つひとつ丁寧に説明していく。


「この子は『ステゴロウルス』っていって……大きいけど草食で大人しい子だから。ほら、優しく触ってみてもいいよ?」

「ミ……ミィ……」

「餌をあげるから見ててね」

 ミコトが大型草食獣のステゴロウルスに餌を与えている様子を、ニアは遠くからそっと見ていた。


 大きな影がミコトの前に立つたび、ニアの尾がぴくりと縮こまる。

 気にはなるのに、近づく勇気はまだ出ない。


「ニアにとっちゃ、みんな巨大すぎんだよな」

 バジルが腕を組みながらぼそっと言う。


 続いて丘の上から、平原区名物の大移動が見えた。

 数十頭の草食獣が一斉に駆け、風が草原を撫でていく。


「ニア、あれ見て……!」

「ミィィ……!」


 ニアはその壮観に目を丸くし、体を乗り出すようにケース越しに見入った。


 この平原区では草食獣も肉食獣も“食性の垣根”を越えて、ゆったりと共存している。それはスカイ・ファームならではの光景だが―――。


 ニアは、その暖かい世界をどこか寂しそうに見つめていた。


(……友達が欲しいよね)


 ミコトの胸の奥に、小さく痛む感情が浮かぶ。


 ニアにはアンジュも、ミコトも、スカイ・ファームも、“味方”はたくさんいる

だが、“同族”と呼べる存在は一体もいない。

 ニアの瞳が群れを追うように揺れるのを見て、ミコトはそっと声をかけた。


「ね、ニア。……私の友達、紹介してもいい?」


「ミ?」


 ニアは首をかしげ、尾をちょこんと立てた。

 その反応が可愛すぎて、ミコトは胸の内でそっと固く決意する。


(あの子なら………!)


 ミコトが連れてきたのは、平原区にぽつんと立つ大きな宿木。

 そこは――。

 ワーピクシーたちの“巣”だった。


「お〜い!みんなぁ〜!」

 呼びかけた瞬間。

『ミコト!?』

『ミコトダ!皆ノモノ!出アエ!出アエ〜〜〜!』


 葉の影からワーピクシーたちがわらわらと湧き出し、数匹どころか数十匹の羽音が一斉にミコトへ向かう。

 だが――今日のワーピクシーたちの視線はミコトではなかった。


『ナンダァ~!キサマァ~!?』

『ピク達ノミコトヲ独占シヤガッテェ~』

『ドケ!ソコハピク達ノ場所ダゾ!』

 総攻撃の視線、完全に“嫉妬の群れ”である。


「……………」


 黙りこくるニア。

 その様子にワーピクシーたちも自覚したのか、そろって動きを止めた。


『アレ?言イ過ギタ』

『ゴ、ゴメンネ?』

 すると、謝られたニアは―――。


「ミッ~~!!」

 ミコトの腕の中で勝ち誇ったように尻尾を立て、得意げに笑ってみせた。


『ムッキイイイイイイイ!!!』

 ピクシーたちが怒り狂い、祈祷魔力が一気にぶわっと溢れ出す。


「やめとけ」

 バジルが指でちょんとワーピクシー達を軽くはじいた。


『グワアアア!』

『迫害ダアアア!』

『精霊種ヘノ攻撃ハ霊長ヘノ戦線布告ダァアアア』


 毎度のことながら大げさな悲鳴が響き渡る。


「ミィーーー!!」

 つられてニアもケースから飛び出し、ピクシーたちの輪に加わる。


「ニア!? 危ないから戻――」

「大丈夫です、バジル班長。見ててください」


 ミコトがそっと裾を引く。

 静止されたバジルの視線の先では―――。


『ナンダテメー』

『ヤンノカー』

『キャッキャッキャッキャ!』

「ミィ~~~~~!」


 言い合っているのか、遊んでいるのか。

 だがその光景は――どう見ても“原っぱで遊ぶ子供たち”だった。

 バジルは鼻で笑って腕を組む。


「やるな、ミコト!」

「えへへへ」


 ニアは自分と同じサイズの仲間ができたのが嬉しいのか、

 羽音の渦の中でぴょんぴょん跳ね回っていた。


 その後―――。

 ミコトたちは海洋区で巨大な、けむくじゃらの鯨を見上げ、

 寒冷区では凍てつく氷の猿獣たちに息を呑んだ。


 各地区で新しい出会いを重ねるたび、ニアの瞳は少しずつ輝きを増していく。


 そして迎えた最後の区域――樹海区。


 濃い魔素と湿気が渦巻き、昼なお暗い深森。

 この場所には、ニアと同じく“訳あり”のモンスターが多く棲む。


 荒々しい気性、強すぎる野性、孤独、傷、過去。

 どれか一つ、あるいはいくつもを抱えた生き物たち。


 本来なら地上へ降り立つことすら危険だが、

 先日の事件もあり、今日は飛空艇からの遊覧観察にとどめることとなった。


「ミィ~……」


 ニアの体がわずかに震える。

 あの日、アックスボアに追われた記憶がまだ残っているのだろう。

 ミコトはそっとケースに手を添え、優しく声をかけた。


「確かに……この下にいる生き物たちはちょっと怒りっぽいけどね」


 ミコトはゆっくりと言葉を選びながら続ける。


「でも、みんな“ルール”を守って暮らしているの。そのルールを破らなければ、むやみやたらに襲ってきたりはしないのよ」


 “むやみやたら”の言葉に、ニアはドキリと身を縮めた。

 まるで自分にも当てはまるように感じてしまったのだろう。


「人の世界も同じだな」


 隣で腕を組んだバジルが低く言った。

 まるで補足するかのようにミコトに同調する。


「コイツらにはそれぞれ領域がある。ナワバリ、誇示、序列……なんでもだ。その領域を踏み越える奴には容赦しない」


 バジルは下の森を見やりながら続ける。


「だが、それが強者に生まれてしまった、コイツらなりの矜持ってやつよ」


 その言葉は、まるでニアへ向けた敬意のようだった。

 ニア本人はそのことに気づかない。

 だがピクリと耳を立て、静かに聞き入っている。


「それでもコイツら召喚獣………やるときはやる」

 バジルが指を鳴らした。


 パチィイイン!!


 次の瞬間、樹海のあちこちで影が動く。

 巨大な獣たちが一斉に背筋を伸ばし、バジルの方角へと顔を向けた。


 その統率はまさに戦場の兵士のようだった。


「さすが、バジルさん、すごく丁寧に躾けていますね」

「───だろ?」

 バジルは自慢げに鼻を鳴らす。


「普段の尊厳は尊重しつつ、必要最低限の介入だけで野生を維持するバジルさんの方針、すごく素敵です」

 ミコトは下を眺めながら、ふと呟く。


「ニアも……いつか召喚獣になるんでしょうか?」

「無理だろうな」


 バジルは即答した。だが声は冷たくない。


「レガシー・ギフトはまだ未知の部分が多い、解明できねぇ可能性もある。ここで保護してやるのが一番よい…………ん?」


 唐突にバジルが眉をひそめる。


「数が足りないな?」


「え?ここからわかるんですか!?」


がいねぇ、昼寝でもしているのか?」


「ミィーーーーーーー!!」

 ニアが突如、ケースの中で暴れ出した。


「どうしたのニア!?」

「ミィ!ミィ!ミィ!ミィ!ミィ!」

 明らかに―― 必死に何かを伝えようとしている叫び。

 小さな尾を突き出し、まるで何かを指し示すように。


「ニア……何を見ているの……?」

 ミコトの問いに答えるように、ニアの視線は一点を射抜いていた。


「───ッ!?まずいな」

 バジルがニアが発見した異変に気が付く。

 次の瞬間、彼の体が飛空艇の縁へ影のように走る。


「先に帰ってろ」

「え?───あっ!キャアアア!」


 言い終わる前に、バジルの巨体が飛空艇から落ちるように───。

 いや、弾丸のように樹海へ跳躍していった。


 飛空艇が大きく揺れ、ミコトは必死で操縦桿を握りしめる。


「あ、危なかった………」

 ぐらついた機体が安定するが、心だけは、落ち着くどころではない。


「どうしたのかしら……何があったったっていうの……?」


 木々の影が色濃く視界に入る。その隙間の奥で起きていることが理解できず、胸の鼓動が強くなりミコトの不安を煽る。


「ここからじゃよく見えないし、戻ったほうがいいよね?」


「ミィーーーーーーー!!」


 ニアはケースの中で体をのけ反らせ、

 なおも樹海の一点を指し示すように尾を突き出す。


「どうしたの!?何を見つけたの?」


「ミィ!」


「でもそれはバジル班長も気づいてたみたいだし、任せたほうが……」


「ミィ!」


 鋭い否定の声。

 ニアの瞳は揺らがず、強い光を宿していた。

 ミコトは息を呑む。


「もしかして、降りたいの?」

「ミィ!!」

 縦にブオンブオンと振られる頭。

 ケース越しでも分かる必死さ。


「………でも」

 ミコトの胸がぎゅっと痛む。


 飛空艇の上空。

 吹き抜ける風だけが答えを急かす。


「…………わかった!」

 ミコトは強く操縦桿を握り、静かにレバーを倒す。

 飛空艇が軋み、樹海区へ向けて、ゆっくりと降下を始める。


 やがて、樹海の薄暗い地面へと着陸すると、

 そこにはすでにバジルが膝をついていた。


「バジル班長……!」


 駆け寄ったミコトが目にしたのは―――。

 横倒しになり、荒い呼吸を繰り返す巨体。


「この子は、あの時の────」

 先日 ニアを追いかけ回し、暴走していた“あの”アックス・ボアだった。


「それ以上近づくな」

 バジルが低い声で制止する。

 温厚な彼には珍しい、鋭い声音だった。


「まったく、やめろと言うことを平気でやるのは、師匠グレン譲りだな」

 冗談のように聞こえるが、その目は真剣だった。


「こいつは即時に発症するウイルス。感染力が弱いが致死率が高い」

「───ッ!?ウイルス」

 ミコトは息を呑み、慌てて距離を取る。

 バジルは周囲を見回しながら、低く呟いた。


「徹底していた筈なのに………まさか?」

 最悪の想定が、バジルの脳裏をよぎる。


「ボァ……ア……」

 アックス・ボアが力なく鳴く。

「───ッ!?まずい!!」

 バジルが巨体を抱え上げ、無線を怒号のように叩きつける。


「医療班!聞こえるか!?樹海区のアックス・ボアが致死性ウイルスに感染してる!!すぐに向かう、治療準備を急げ!!エーコはいるか!?あいつじゃなきゃ無理だ!!すぐにだ!!」


 普段温厚なバジルからは想像できないほどの必死の声だった。

 ───その時。


「ミィ~…………」


 ニアがケースの中から、じっとアックス・ボアを見つめていた。


 “見ている”のではない。

 “探している”。


 そんな眼差しだった。


「……………ミィ!」

 次の瞬間、ニアはケースの蓋をこじ開けるようにして飛び出した。


「あ、ニア!!ダメッ!」

「オイ!!」


 ミコトとバジルの声を無視し、ニアはアックス・ボアの腹部へと一直線に向かう。

 まるで、その内部にある“何か”を確かめるように。


「ミィ……ミィィ〜〜……」


 小さな顔をを腹部に添えた瞬間、ニアの体がふっと輝いた。

 あの光――“生気吸収”の兆候。


「ニア!!やめて!!」

「おい!何してんだ!!」


 ────だが。


「ボアッ……!?ボァアアアアア!!」


 アックス・ボアが突然、跳ね起きた。


「えっ!?ちょっ、おいおいおい!!おおおお!?」


 アックス・ボアを抱えていたバジルが、慌てて巨体を押さえつける。

 さっきまで死にかけていた獣が、嘘のように力を取り戻したのだ。


「ミィ~~~~」

 ニアは満足そうに、その場で小さく尾を揺らしていた。

 ミコトは震える声で呟く。


「まさか……ニアが吸い取ったのって……病原菌だけ……?」

 ミコトの震える声が、森の静寂に吸い込まれる。

「そんな芸当……できんのか……?」

 バジルの瞳が大きく見開かれた。


「だがサカキの旦那達との戦闘時は、なりふり構わず生気を吸い取っていた。それがこんなにもピンポイントで?」


 バジルは遺跡でレガシー・ギフトと対峙したモンスター・パニック・サービスの映像記録を掘り返すように思い出し、眉を寄せる。


 あの時のニアの戦闘映像が脳裏によみがえる。

 制御も何もない、ただ本能むき出しの生気吸収。


 だが今のニアは違う。


「自我の影響か?」

 ぽつりと漏れたその言葉は、バジル自身への問いでもあった。


「ボァアアア~」


 弱々しかったアックス・ボアが、立ち上がる。

 まだ足取りは重いが――明らかに“生”が戻っている。


 そして彼は、ニアの方へゆっくり歩み寄った。

 鋭い牙が当たらないよう、そっと角度を変えながら。


 まるで“お礼”のように。


「ミィ~♪」


 ニアも怯えることなく、かつて挑発したことを詫びるかのように、

 アックス・ボアの鼻先にふわりと体を寄せた。


 優しく触れ合う小さな龍と、森の猛獣。


 意図して行った多種交流。そこで意図していない、“思いがけない成果”がそこにあった。


 ミコトは息を呑むしかなかった。

 バジルもまた、驚きを隠せない。


「オイ、ミコト」

 バジルが静かに声をかけた。


「レガシー・ギフトは───ニアは導き方を間違えなければ………この世界のとてつもない“希望”になるんじゃないか?」


 その言葉を真正面から受けたミコトの胸に、熱いものが広がる。


 同時に、足元がすこし震えるほどの“重み”が肩に乗った。




          * * *




 ──そして夕暮れ。

 ミコトとニアは観察区の小屋へ帰宅していた。


「今日は……ほんとうに大変だったね」


 ミコトはそっとニアを抱き寄せ、胸元で撫でて労う。


「でも……すごいよ、ニア。

 誰もできないことを、あなたはやってみせたんだよ」


「ミ、ミィ〜〜」

 褒められた瞬間、ニアは体をふにゃりと震わせ、照れるように尾を揺らした。


 “奪うしかなかった能力”を、初めて誰かに肯定された。

 その暖かさが、幼い心にじわりと染み込んでいく。


「そうだ……アンジュちゃんにこのこと伝えてあげようよ!きっと喜ぶよ!」

「ミィ!!」


 ミコトは左手の小指の指輪をそっと撫で、アンジュの指輪への通信を開始する。

 光が灯り、アンジュへ呼び出しの波長が送られる。

 

 だが───。


「……あれ?繋がらない」


 指輪は沈黙したまま。

 夕刻にアンジュが応答しないのは初めてだった。


「忙しいのかな……?」

 ミコトが不思議そうに首をかしげた、その時だった。


「ミ?……ミミ……」


 ニアが何かに気づいたように頭を上げる。

 その瞳が、かすかに震え──次の瞬間。


「ミ”ィイイイイイイ!!!」

 小屋中の空気が揺れた。


「ニア!?どうしたの!?」

 ニアが狂ったように暴れ出し、家具をなぎ倒しながら飛び回る。


 その叫びは、痛みでも恐怖でもない。


 焦り、切迫。そして、強烈な“予感”。


「ミ”ィイーーー!! ミ”ィイアアアアアア!!!」


「ニア!落ち着いて!ねえ!痛いの?苦しいの?」


「ミギャアアアアアアア!」


 ミコトが抱きとめようとしても、ニアは跳ね返すように暴れ続ける。

 その体は震え、絶望的なまでの焦りに満ちていた。


「まさか………アンジュちゃん?」


 ミコトはもう一度指輪に触れ、名前を呼ぶ。


 だが───。

 応答はなかった。


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