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  •  自業自得と思いますが、事情があると言われたら考える余地も生まれます。
     ですが、制度の穴をつく連中も出てくるわけで……
     難しい話ですね。
     

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!

    おっしゃる通り、自業自得と割り切れる一方で、背景にある事情を知ると一概には責められないケースもありますよね。
    制度が人を救う一方で、それを逆手に取る人もいる……本当に難しい問題だと改めて感じます。

  • 始めまして、企画から来ました。とても読みやすくて、それでいてちょっと考えさせられるお話ばかりで、面白いです。哲学的な命題も、個人の感情が入って来ると、また違った面が見えて来て、そこがとても興味深く感じました。

    作者からの返信

    はじめまして、企画参加ありがとうございます!
    「読みやすくて、ちょっと考えさせられる」と感じていただけたこと、本当に嬉しいです。
    哲学的なテーマは、感情が絡むことで一気に現実味を帯びるというか、抽象だったものが急に身近になる瞬間があるなと思っていて、そこを大切に書いていたので、そんなふうに受け取っていただけて感激です。

    丁寧なご感想、本当にありがとうございました!

  • お久しぶりです。また気になったので、コメントさせていただきます。

    どこに僕のコピーができて、それがどんなに僕と同じだったとしても、それってぜんぜん僕と関係ないって思ってしまうので、今回の問題がどういう問題なのか、なんだかよく分からないんです。

    僕といくらそっくり同じものがあっても、それって僕とそっくり同じものがもう一つあるというだけのことで、それは僕でもなんでもないというように僕には思えるんですが、みんなそうではないんですか?

    僕が僕であるのは、視覚に限って言えばココから世界が見えているからココのコレが僕だっていうことだったり、聴覚に限って言えばココで音が聞こえるからココのコレが僕なんだし、触覚に限って言えばコノ身体で何かを触ってコノ脳でその感覚を感じているからコノコレが僕なんだし……。

    というようなことで、ココにあるコレだけが僕で、ココじゃないところにいくら僕とそっくり同じものがあっても、ソコがココじゃない限り、それってぜんぜん僕と関係ないと思ってしまうんですが……。

    僕が言っていることって、通じますか?

    僕はそういう感覚なので、今回の一番最初の設定、テレポート装置に入って、自分の身体や精神がそっくりコピーされて、別の場所で僕とまったく同じものが再構築されても、もうその時点でぜんぜんそれが僕だと思えないので、とにかく「元の僕の身体、壊さないで!」って思います!

    倫理問題を題材にした「小説」なのに、いつも小説についてのコメントをしないで倫理問題にベタに反応してしまってすみません。

    作者からの返信

    ご指摘の通り、「どれだけ自分と同じでも、それが“ココ”の“コレ”ではないなら、それは“僕”じゃない」と感じる感覚は、まさにこの思考実験の核心を突いていると言えます。実際、この「テレポーテーション・パラドックス(Teletransportation Paradox)」は、「自己同一性」や「連続性」とは何かを問う、とても繊細で深い問題です。

    以下、少し学術的に整理しながらご返信いたします。



    🍓 問題の構造:なぜこれがパラドックスなのか

    この思考実験は、主にデレク・パーフィット(Derek Parfit)によって哲学的に掘り下げられました。問題の焦点はこうです:

    > テレポート装置に入ると、自分の記憶・性格・人格・身体的特徴すべてを正確にスキャンし、別の場所に“同じもの”を再構成します。そして元の身体は破棄されます。再構成された存在は、あなたとまったく同じように話し、動き、考えます。それは“あなた”なのか?

    ここで問われているのは、「何が“自己”を成立させるのか?」という点です。



    🍓「場所」と「視点」へのこだわり:イチゴさんの感覚はとても本質的

    コメントでおっしゃっていた「ココで世界を見ているコレが僕」という感覚。これは、現象学的な立場(たとえばメルロ=ポンティなど)から見ても非常に重要で、「身体的自己」や「知覚主体としての自己」の議論に深く関係しています。

    つまり、「私が私である」という経験は、単なる記憶や情報の連続ではなく、“今ここで感じている”という生々しい一人称的な体験に基づいている、という見方です。

    この考え方に立てば、いかに正確に自分をコピーしても、その“コピー”がこの視点、この感覚、この連続性を持たないなら、それは自分ではない、という主張は極めて正当です。



    🍓パーフィットの挑戦的主張:それでも「連続性」だけが大事?

    パーフィットは一方で、「自己とは“連続した心理的関係性”(記憶・意図・性格など)にすぎない」と主張します。つまり、コピーでも“連続性”が保たれていれば“自分”と呼べるのでは?という立場です。

    ですが、あなたの感覚が示すように、そこに“感じている主体=一人称の体験”がないと納得できないという意見もまた、極めて重要です。これは、哲学的に言えば「クオリア(質的な意識の内容)」や「第一人称性」の問題に繋がります。



    🍓 元の身体を壊さないで!

    そして、「だから元の身体を壊さないで!」という叫び──これは、「自己は複製できない」という直感的確信の現れであり、まさにこのパラドックスが提起する道徳的な緊張感の核心です。

    > コピーが本当に「自分」なら、破壊されても問題はない?
    > でも「自分ではない」なら、それは自分の死でしかない──

    この問いは、「自己保存」と「他者化」の狭間で揺れる、とても人間的で哲学的な葛藤です。



    🍓 最後に

    小説であるにも関わらず、倫理的テーマに直接コメントをくださるのは、とても光栄ですし、この作品の醍醐味はまさにそこにあると思っています。

    わかりやすい回答になったかは微妙ですが、質問には真摯に答えたいです。

    本当にありがとうございました。

  • 先日はトロッコ問題のコメントの返信ありがとうございました。コメントすると返信を要求してしまうので、けっこうためらうんですが、どうしても気になることがあるので、質問させていただいていいでしょうか?

    囚人のジレンマというのは、倫理の問題なんですか? 前提にすごく違和感があるんです。

    倫理的に考えたら、罪を犯してしまったんだったら、刑が軽くなるんでも重くなるんでも、とにかくちゃんと自白するのが、一番「いい行い」のように思えるんですが、これはなにか間違ってるんでしょうか?

    共犯者が二人とも黙っていたら(二人の合計の)懲役が短くなるっていうのは、倫理以外のなにかの観点に立ったら一番いい選択なのかもしれないですが、少なくとも倫理的にいい選択だとは、どうしても思えないんですが。この点は、学問的にはどんなことが言われているんでしょうか?

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!
    是非是非何でもコメントしてください!

    🍓「囚人のジレンマ」は倫理の問題か?

    まず結論から、囚人のジレンマは「倫理そのもの」の問題ではなく、「倫理的ジレンマをモデル化するゲーム理論上の道具」として多く用いられています。つまり、囚人のジレンマは倫理の現場で起こる「協力と裏切り」「自己利益と公共善の葛藤」といった状況を、形式化して分析するための枠組みにしたというものです。


    🍓前提にある違和感はもっともです

    西添イチゴさんが抱いた「倫理的に考えるなら、正直に罪を認めるのが正しいのでは?」という感覚は、極めて自然でまっとうなものです。実際、囚人のジレンマは「功利主義的な合理性」と「道徳的な善さ」が食い違う」例としてよく紹介されます。

    ゲーム理論においては「自分の刑期を最小化する=合理的選択」とされる。
    しかし倫理的に考えると、「正直であろうとする」「相手を裏切らない」といった行為はしばしば道徳的に望ましいとされます。

    このズレが「ジレンマ」と呼ばれるゆえんです。


    🍓なぜ「協力した方が全体にとって良い」のに、裏切りが「合理的」になるのか?

    囚人のジレンマの前提では、次のように設定されます:

    ・二人とも黙れば、それぞれ懲役2年(合計4年)←協力
    ・一方が裏切って、もう一方が黙れば、裏切った側は0年、黙った側は10年
    ・両方が裏切れば、双方5年(合計10年)

    この構造だと、相手が何を選ぶか分からないなら、裏切った方が自分にとって損しにくいという計算になります。つまり、「他人を信頼できない前提」での最適行動として裏切りが「合理的」とされるのです。

    しかしこれはあくまで合理性=損得勘定の枠組みであり、倫理的な「善悪」や「誠実さ」とは別次元のものです。


    🍓倫理学的な見方

    倫理学では、このズレをどう扱っているかというと:

    1. カント倫理学(義務論)
     → 結果がどうであれ、「嘘をつくな」「誠実であれ」という義務が強調されます。
     → よって、たとえ損しても義務論を徹底することが正しいとされます。(黙秘しても自供してもいい)

    2. 功利主義(帰結主義)
     → みんなが協力すれば(黙れば)、合計刑期は最短=最大多数の最大幸福。
     → でも現実には「裏切った方が得」になるので、実践が困難な倫理とされがち。

    3. 徳倫理学
     →「誠実さ」「信頼」など、人としての在り方を重視する。
     → 囚人のジレンマは「徳が試される場面」として読まれることがあります。


    🍓結論

    西添イチゴさんが抱いた「正直に話すのが一番いい行いでは?」という直感は、倫理的な観点から見てまったく正当なものです。そして、まさにその直感と「合理性(損得)の論理」がぶつかるからこそ、「囚人のジレンマ」は多くの倫理学者が議論するテーマになっているのです。

    ですので、ご自身の感覚は間違いではなく、むしろ倫理的な直観として非常に健全なものです。その違和感こそが、倫理の議論を前に進める原動力だと思います。

  •  コメントするのははじめましてです。「倫理学のお勉強」とか、ずっと読ませていただいてました。
     トロッコ問題について考えるときに、自分がトロッコの進路を切り替えられる立場に立つとどうしたらいいか分からないんですけども。唯一、ある立場の時には「こうできたらいいな!」と思う立場があるんです。それは、トロッコの進路が切り替えられなかった場合には助かる、一人の方の立場に自分が立っているとしたらです。
     つまりそのときには、「ぼくは死んでもいいから、五人を助けてあげて!」って言いたいな! って思います。ほんとにそう思うんですけど、いざとなった時に本当にそうできるかどうかは、分かりません!

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!
    「倫理学のお勉強」をずっと読んでくださって、本当に嬉しいです。励みになります…!

    トロッコ問題についての考え、すごく胸に響きました。
    自分が一人の側に立っていたら、「ぼくは死んでもいいから、助けてあげて」と言いたい、でも実際にそのときに本当にそうできるかは分からない
    その葛藤こそが、人間らしさであり、倫理の難しさでもあるなあと感じます。

    頭で考える正しさと、心で感じる願いと、現実の行動。そのズレをまっすぐ言葉にしてくれて、とても大切なことを教えてもらった気がします。
    素敵なコメント、本当にありがとうございました!

  • こんにちは。
    読み返しに来ました。

    倫理学のテーマを紹介している作品ですね。
    ちょっと堅苦しい感じのある倫理学のテーマを、学生たちの問題に落とし込むことで分かりやすく説明できている所がとても良かったです。

    お互いに執筆頑張りましょう。

    作者からの返信

    こんにちは。
    読みに来てくださってありがとうございます!

    「堅苦しい倫理学」をどうにか身近に感じてもらえるように工夫した部分だったので、そこに注目していただけて本当に嬉しいです。学生たちの視点を通して考えることで、自分自身もテーマへの理解が深まった気がしています。

    コメント、とても励みになりました。
    こちらこそ、お互いに執筆がんばりましょう!