第4話 最初の出会い

翔は「東の部屋」に続いて発見した「西の部屋」の扉の前に立っていた。祖父の遺した暗号めいたヒントを解読し、数日前にようやくこの部屋の鍵を開けることに成功したのだ。しかし、ダンジョンの探索で疲労していた彼は、扉を開けるだけに留め、その先を確認するのは今日まで先延ばしにしていた。

「さて、今度は何が待ってるんだ…」

深呼吸して、翔はゆっくりと重い木製の扉を押し開けた。

最初に彼の感覚を襲ったのは、空気の変化だった。部屋に入った瞬間、湿度と温度が急激に変わり、風に乗って甘い花の香りと土の匂いが鼻腔をくすぐった。それは明らかに屋敷の中とは思えない感覚だった。

「なんだこれ…」

目の前に広がっていたのは、部屋ではなく、見渡す限りの緑の草原だった。頭上には青空が広がり、遠くには森と思われる緑の帯、さらにその向こうには雪を頂いた山脈が連なっていた。翔の後ろには、どこからともなく現れた石造りのアーチがあるだけで、屋敷との接点はそこにしかなかった。

「まさか…異世界?」

彼は左右を見回し、足元の草を触ってみた。感触は確かに本物だった。遠くでは鳥らしき生き物が鳴き、風は本物の草原を吹き抜けるように彼の髪を揺らした。

「これも祖父の仕掛けか…でもどうやって?」

翔は慎重に数歩前に進み、振り返った。石のアーチはまるで異物のように草原に佇んでいた。扉の向こうには確かに屋敷の廊下が見えている。彼は試しに手を伸ばし、アーチをくぐって屋敷に戻り、再び異世界へと足を踏み入れた。

「往復できるなら、探索してみるか」

翔はスマートフォンを取り出し、撮影モードに切り替えた。カメラは問題なく動作し、目の前の景色を映し出した。念のためGPSアプリも開いてみると、「位置情報を取得できません」というエラーメッセージが表示された。

「やっぱり...別世界か」

彼はポケットから小さなメモ帳と鉛筆を取り出した。ダンジョン探索から学んだ教訓として、常にこれらを持ち歩くようになっていた。

「方角を記録しておかないと」

東の方角にはなだらかな丘が続き、南に森、西に山脈、北には細い川が見えた。翔はそれらをメモに書き留めた後、一番近そうな丘の方角へ歩き始めた。

草原は思ったより歩きにくかった。不揃いな地面、時折現れる小さな穴や石、膝丈の草が進行を妨げた。いつも舗装された道しか歩かない都会育ちの彼にとって、これは予想外の障害だった。

「体力は確かにダンジョンのおかげで上がったけど…こんな場所、慣れないな」

20分ほど歩いたころ、丘の上に到達した翔は、遠くに煙が上がっているのを発見した。望遠レンズに切り替えてスマホで撮影すると、それが小さな村からの煙だと分かった。

「人が住んでる…なら言葉は通じるのか?」

村への道のりは想像以上に遠く、1時間近く歩いてようやく木造の建物が集まる小さな集落が見えてきた。村の入口には木の柵があり、二人の男性が立っていた。彼らは中世風の質素な衣服を身につけ、棒状の武器らしきものを持っていた。

翔は咄嗟に立ち止まった。自分のTシャツとジーンズ姿は明らかに浮いている。接触すべきか迷ったが、情報がなければ先に進めないと判断し、ゆっくりと近づいていった。

「あの、すみません…」

男たちは翔に気づくと、驚いた表情を浮かべた。一人が何か言葉を発したが、それは翔には全く理解できない言語だった。

「やっぱり言葉が通じないか…」

翔はシンプルなジェスチャーを試みた。自分を指し、「翔」と言い、それから村を指差して首を傾げた。

男たちは互いに顔を見合わせ、少し話し合った後、一人が村の中へ走って行った。残された男は警戒しながらも、翔に攻撃的な態度はとらなかった。

数分後、最初の男が戻ってきた。彼の後ろには、高齢の女性がついてきていた。彼女は翔をじっと見つめ、何か言葉を発した。

「すみません、わかりません」翔は肩をすくめた。

女性は目を細め、ゆっくりと翔に近づくと、彼の額に触れようとした。翔は一瞬身構えたが、女性の穏やかな表情に安心し、そのまま立っていた。

老女の指が翔の額に触れた瞬間、不思議な感覚が彼の頭を駆け巡った。それはまるで何かが脳の中で展開するような、痛くも痒くもない違和感だった。

「若き旅人よ、今私があなたの言葉を理解できるのか?」

突然、女性の言葉が理解できるようになった。翔は驚いて目を見開いた。

「は、はい!どうして…?」

「古の言霊の魔法じゃよ。遠い地から来たようじゃな」老女は微笑んだ。「わしはマチルダ、この村の長老じゃ。あんたは?」

「佐藤 翔です。あの…ここはどこなんでしょうか?」

「ここはアルバニア王国の辺境、ローズヒル村じゃよ」

村人たちの警戒が解けたことを確認し、マチルダは翔を村の中へ招き入れた。村は30軒ほどの家で構成され、中央に井戸と小さな広場があった。人々は翔の姿を不思議そうに眺めていたが、敵意はなかった。

マチルダの家は村の中で少し大きめの建物で、中に入ると薬草の香りが立ち込めていた。彼女は翔に座るよう勧め、木製のカップに温かい飲み物を注いでくれた。

「遠い地から来たというが、どこの国の者かな?」

翔は言うべきか迷ったが、真実を隠しても何も始まらないと判断した。

「実は…異なる世界から来たんです」

マチルダは驚いたようすもなく頷いた。「なるほど、『向こう側』の者か。」

「知ってるんですか?」翔は驚いて尋ねた。

「伝説にはある。二つの世界を渡る者たちがいると。昔はもっと頻繁にいたらしいが、最近は見かけなくなったのう」

翔はカップを両手で包み込みながら、そっと尋ねた。「じゃあ、私以外にも…?」

「うむ。昔は『向こう側』から来る旅人がおった。特別な力を持つ者たちじゃった」マチルダは遠い目をして言った。「最後に見たのは、わしが若かった頃…70年ほど前じゃろうか」

「70年前…」翔は思わず祖父の年齢を計算した。「マチルダさん、その人は年配の男性ではありませんでしたか?」

「いや、若い男じゃった。だが、確かにその者は何度も訪れておった。名を…」マチルダは眉をひそめて思い出そうとした。「サ…サトウとか言っておったかもしれんな」

翔は息を呑んだ。「佐藤…ですか?」

「そうそう、それじゃ!」マチルダは顔を輝かせた。「同じ名前じゃな。親類かな?」

「祖父だと思います」翔は静かに答えた。心の中で多くの疑問が渦巻いた。祖父はこの世界を知っていた。それどころか、訪れていたのだ。

「面白い縁じゃ」マチルダは言った。「で、何をしに来た?修行か?冒険か?」

翔は正直に答えた。「まだ分かりません。偶然扉を開けて、どんな場所か確かめに来ただけです」

「そうか…」マチルダは納得したように頷いた。「では、まずはこの世界のことを知るべきじゃろう」

その後の数時間、マチルダは翔にこの世界について語った。ここはアルビオン大陸の一角、アルバニア王国の領土だという。魔力と呼ばれるエネルギーが存在し、それを操る術を身につけた者が魔術師と呼ばれていた。人間以外にもエルフやドワーフなどの種族が存在するが、このあたりはほぼ人間だけの地域だという。

また、危険な魔物も存在するらしく、村から離れた場所には行かないよう忠告された。特に夜は危険だという。

「あんたのステータスはどうなんじゃ?」とマチルダが尋ねた。

「ステータス?」

「うむ。こちらの世界では、人には数値化された能力がある。冒険者なら普通、自分のステータスを確認できるはずじゃが…」

翔は首を傾げた。「どうやって確認するんですか?」

マチルダは小さな石版を取り出し、翔に手を置くよう指示した。翔が従うと、石版が淡く光り、文字が浮かび上がった。

「ほう…」マチルダは興味深そうに見つめた。「基本能力は平均以下じゃな。まあ、向こうの世界の人間なら当然か」

翔も石板を覗き込んだ。そこには確かに「力:5」「敏捷:7」「体力:6」「知力:8」「精神:6」などと表示されていた。

「これが低いんですか?」翔は少し傷ついた表情を見せた。

「普通の村人でも10前後、冒険者なら20は超えておるよ」マチルダは笑った。「心配するな。鍛えれば上がる」

「鍛え方は?」

「冒険したり、修行したり、この世界でさまざまな経験を積むことじゃ」マチルダは答えた。「あと、特別なポイントで直接上げる方法もあるが…」

「ポイント?」翔は思わず食いついた。「それはどうやって?」

「『精霊の結晶』という希少な鉱物を集めれば、ステータスに変換できる。だが、それは危険な場所にしかない」

翔はダンジョンでのポイントシステムを思い出した。どうやらこちらの世界にも同様のシステムがあるらしい。「クエストとかはありますか?」

「クエスト?ああ、依頼のことか。冒険者ギルドに行けば、様々な依頼が掲示されておる。報酬も出る」

「冒険者ギルド…」翔は興味津々で繰り返した。まるでRPGゲームのような仕組みだった。

マチルダは窓の外を見て、「日が暮れるぞ。今日は泊まっていくか?」と尋ねた。

翔は現実世界での時間経過を心配し、「ありがとうございますが、今日は戻ります。また来てもいいですか?」と答えた。

「もちろん。いつでも歓迎じゃ」マチルダは微笑んだ。「次回は服装を用意しておこう。その格好では目立ちすぎる」

別れ際、マチルダは翔に小さな包みを渡した。「これは言霊の石。これを持っていれば、誰とでも言葉が通じるようになる」

「ありがとうございます」翔は感謝しながら受け取った。

村を後にした翔は、来た道を慎重に辿って石のアーチに戻った。この世界での滞在時間は約5時間。現実世界ではどれくらい経っているのだろうと思いながら、彼はアーチをくぐった。

屋敷の廊下に戻ると、窓の外はまだ明るかった。腕時計を確認すると、西の部屋に入ってからわずか50分ほどしか経っていなかった。

「時間の流れが違う…約6倍か」翔は計算した。「これは使える」

翔は自分の部屋に戻り、今日の発見をノートに記録し始めた。異世界の情報、ステータスシステム、時間の流れの違い…そして祖父との関連性。

「ステータスが低いか…」翔は唇を噛んだ。「ダンジョンで稼いだポイントをこっちの能力に振り分けられるかな?」

彼はスマホの画面に映った異世界の写真を見つめながら考えた。ダンジョンは危険だが効率よくポイントを稼げる。異世界はまだ分からないことだらけだが、大きな可能性を秘めている。両方をうまく活用すれば…

「よし、計画的にいこう」翔は決意した。「まずはダンジョンでポイントを稼ぎ、異世界でのステータスを上げる。それから本格的な冒険を始める」

彼はカレンダーを見て、週末の予定を確認した。「明日は学校か…両立できるかな?」

現実世界での平凡な高校生活と、二つの異世界での冒険。その間でうまくバランスを取りながら、効率的に力をつけていくこと。それが翔の新たな目標となった。

翔は祖父の写真を見つめた。「なぜこんな力を残したんだ?何を期待していたんだろう…」

答えはまだ見つからなかった。だが、一つだけ確かなことがあった。この特別な力を手に入れた今、翔の人生は大きく変わり始めていた。

彼はベッドに寝転がり、天井を見つめた。「明日からが楽しみだな…」

そう呟いて目を閉じた時、彼の脳裏には緑豊かな異世界の風景と、マチルダの穏やかな笑顔が浮かんでいた。そして、まだ見ぬ冒険の予感が、彼の胸を高鳴らせていた。

次の日、学校に向かう道すがら、翔は頭の中で計画を練っていた。放課後はダンジョンで経験値とポイントを稼ぐ。週末は異世界で情報収集と基本的な冒険スキルの習得。そして平日の夜は現実世界での勉強。

「あー、疲れそうだな…」と思いながらも、彼の目は期待に輝いていた。

「佐藤くん、おはよう!」

声に振り向くと、クラスメイトの山本さくらが小走りで近づいてきた。

「ああ、おはよう」翔は平静を装って応えた。

「なんか、最近元気そうだね」さくらは翔の顔をじっと見た。「引っ越してきたばかりなのに、すっかり環境に慣れた感じ?」

「まあな」翔は曖昧に答えた。「いろいろ忙しいけど、充実してる」

「へー、何かあったの?」

「別に」翔は話題を変えようと急いだ。「宿題やった?数学難しかったよな」

「あ!そうだ、数学!」さくらは話題の変化に気づかず、宿題の話で盛り上がり始めた。

翔は安堵のため息をついた。平凡な高校生を装いながら、二つの異世界を往来する二重生活。これからこんな会話を何度繰り返すことになるのだろう。

「秘密にしておかないと」翔は心の中で誓った。「少なくとも、力をつけるまでは」

教室に入ると、クラスメイトたちがいつもの調子で騒いでいた。翔はいつもの席に座り、窓の外を見つめた。

青い空の下に広がる日常の風景。それは数時間前に見た異世界の景色とはあまりにも違っていた。しかし、今の翔には両方の世界が等しく「現実」だった。

「どちらの世界も、ちゃんとマスターしてみせる」

そう心に決めて、翔は教科書を開いた。今は高校生として、数学の授業に集中すべき時間だった。異世界での冒険は、放課後まで待たなければならない。

教室に響く先生の声と、頭の中で鳴り続ける異世界の声。その両方を聞きながら、翔の新しい生活が始まろうとしていた。再試行YS第4章の内容をできるだけ多くの文字数で書籍化できる内容で書いてください編集第4章:最初の出会い

放課後の薄暗い校舎の階段を駆け下りながら、翔は心の中で今日の計画を反芻していた。学校で無事に一日を過ごし、今からは異世界での探索に時間を使うつもりだった。ダンジョンでの戦闘訓練は昨日十分行ったので、今日は西の部屋から異世界へと足を踏み入れる予定だった。

「今日こそ、あの村の外も探索してみよう」

自転車を全力でこぎながら、翔は既にマチルダから得た情報を整理していた。アルバニア王国、魔物の存在、冒険者ギルド、そして祖父との繋がり。答えよりも疑問が増えていく状況に、彼は焦りと期待を同時に感じていた。

屋敷に到着した翔は、急いで制服から普段着に着替えた。しかし、マチルダのアドバイスを思い出し、衣装替えのためにいくつかの衣服を小さなバックパックに詰め込んだ。そして水筒、カロリーバー、小型の懐中電灯、そしてメモ帳とペンも忘れなかった。

「準備完了」

西の部屋の扉を開け、翔は深呼吸して石のアーチをくぐった。

瞬時に景色が変わり、広大な草原が視界に広がった。前回訪れたときと同じ爽やかな風が彼の髪を揺らし、遠くでは鳥のさえずりが聞こえた。しかし今回、翔は景色に見とれる余裕はなかった。すぐにバックパックから取り出した衣服に着替え始めた。シンプルな茶色のシャツとズボン、そして丈夫そうな靴。これなら少なくとも異物感は薄れるだろう。

「さて、村に行こう」

前回と同じ道筋を辿り、翔はローズヒル村に向かった。今回は慣れた道のりだったため、歩みはより確かなものになっていた。約40分後、木造の家々が視界に入ってきた。

村の入口で見張りをしていた男性は、翔を見るなりにこやかな表情になった。「また来たな、異界の若者よ」

翔はマチルダから貰った言霊の石を握りしめていたおかげで、完璧に言葉が理解できた。「こんにちは。マチルダさんはいらっしゃいますか?」

「長老の家におるよ。行きなさい」

感謝の言葉を述べ、翔は村の中へと入っていった。前回よりも村人たちの視線は和らいでいたが、それでも好奇心に満ちた目で彼を追ってくる。子供たちは特に興味津々で、少し離れた場所から彼を観察していた。

マチルダの家に到着すると、ドアをノックする前に中から声がかかった。

「入りなさい、翔。待っておったよ」

扉を開けると、暖かな炉の火と、煮込み料理の香りが翔を迎えた。マチルダは木製の椅子に座り、何かを編みながら微笑んでいた。

「よく来たね。今日は何をしたい?」

「冒険者ギルドについてもっと知りたいです」翔は率直に言った。「それに、この世界での戦い方も学びたい」

マチルダは編み物を脇に置き、立ち上がった。「そうか。では、ミリアの町に連れていくとしよう。そこならギルドがある」

「本当ですか?ありがとうございます!」

「だが、山道を通るので危険も伴う。護衛として、村の若者を一人連れていこう」マチルダは窓辺に歩み寄り、外を見た。「ちょうどいい。エリスが戻ってきたようだ」

「エリス?」

「うむ。この村一番の剣の使い手じゃ。若いが腕は確か」

マチルダの家を出ると、村の広場で一人の少女が子供たちに剣術の型を教えている姿が見えた。長い赤髪を後ろで束ね、軽装の革鎧を身に着けていた。その動きは流れるように滑らかで、翔でさえその美しさに見とれてしまった。

「エリス!」マチルダが呼びかけると、少女は素早く振り向いた。

「マチルダ長老」彼女は短く頭を下げた。鋭い緑色の瞳が翔を一瞬で捉え、評価するように上から下まで見た。「この者は?」

「向こう側から来た旅人じゃ。ミリアまで連れていってやってくれんか?」

エリスは眉をひそめた。「危険な時期です。魔物の活動が活発になっています」

「だからこそ、腕の立つ者の同行が必要なのじゃ」

エリスはためらいながらも、最終的に頷いた。「分かりました。ただし、私の指示に従うことを約束してください」彼女は翔に鋭い視線を向けた。

「も、もちろん」翔は緊張して答えた。

「では準備を」エリスは簡潔に言い、広場を後にした。

準備の間、マチルダは翔に地図を見せながら、ミリアについて説明してくれた。ローズヒル村から南東に半日の道のりにある小さな町で、交易の中継地点として栄えているという。冒険者ギルドの支部があり、初心者向けの依頼も多い。

「ところで、あちらの世界との行き来はどうなっているのかね?」マチルダが尋ねた。

「時間の流れが違うみたいです。こちらの6時間が向こうの1時間くらい」

「なるほど」マチルダは考え込むように頷いた。「それなら長期滞在も可能か」

30分ほどして、エリスが戻ってきた。彼女は軽装の旅支度をし、腰には実用的な長剣を下げていた。

「行きましょう」彼女は簡潔に言った。

マチルダは二人に食料と水の入った袋を渡した。「気をつけて行くのじゃ。翔、今日は一度ミリアを見るだけにして、夕方までには村に戻っておいで。初めての旅だから無理はしないようにな」

翔はマチルダに感謝の言葉を述べ、エリスと共に村を出た。

村を出て間もなく、二人は森の中の細い山道に入った。日差しは木々の間から斑に差し込み、鳥や小動物の気配が感じられた。

「あなたが噂の『向こう側』の者ね」しばらく沈黙が続いた後、エリスが口を開いた。

「うん…そうみたい」翔は少し緊張気味に答えた。

「何をしにここへ?」

「まだはっきりとは分からない」翔は正直に答えた。「でも、この世界のことをもっと知りたい。それと…」

「それと?」

「力が欲しい」翔は率直に言った。「自分を変えるための力が」

エリスは横目で翔を見た。「力か。何のために?」

翔は少し考えてから、「まずは自分のため」と答えた。「それから…まだ分からないけど、きっと守るべきものが見つかると思う」

エリスは何も言わなかったが、わずかに表情が和らいだように見えた。

二人が森の中を1時間ほど歩いたとき、突然エリスが立ち止まり、翔の前に腕を広げた。「静かに」彼女は囁いた。

翔も足を止め、緊張して周囲を見回した。しかし、何も異常は感じられなかった。

「何が…」

エリスは素早く翔の口を手で塞いだ。その瞬間、低いうなり声が木々の間から聞こえてきた。

ゆっくりと手を口から離し、エリスは剣に手をかけた。「森狼。三匹…いや、四匹」彼女は冷静に状況を分析していた。

「ど、どうすれば…」翔は震える声で尋ねた。

「私の後ろに」エリスは剣を抜き、構えた。「動かないで」

木々の間から、灰色の毛並みを持つ大型の狼が姿を現した。普通の狼より一回り大きく、その目は不自然な赤い光を放っていた。

「悪魔の血を引く森狼」エリスは静かに説明した。「通常の狼より知能が高く、危険だ」

森狼たちは円を描くように二人の周りをゆっくりと回り始めた。彼らは互いに目配せし、明らかに組織的な行動を取っていた。

「今だ!」

突然、一匹の狼が翔めがけて飛びかかってきた。しかし、その動きを予測していたかのように、エリスの剣が閃光のように動き、狼の動きを止めた。流れるような動作で彼女は剣を引き抜き、次の狼に向かって踏み込んだ。

翔は茫然と立ちすくむしかなかった。エリスの動きはあまりにも素早く、正確だった。彼女は単に力任せに斬りつけるのではなく、狼の動きを読み、最小限の動作で致命的な一撃を繰り出していた。

三匹目の狼がエリスの死角から攻撃しようとしたとき、翔は思わず叫んだ。「後ろ!」

エリスは振り向く間もなく、低く身を屈めて剣を弧を描くように振るった。狼は鋭い刃に胸を裂かれ、悲鳴を上げて地面に倒れた。

最後の一匹は仲間の敗北を見て、素早く森の中へと逃げ去った。

戦いは一分と持たなかった。エリスは冷静に剣の血を払い、鞘に収めた。

「あ、ありがとう」翔は震える声で言った。「すごい腕前だ…」

「特別なことはしていない」エリスは淡々と答えた。「これが生きるための基本だ」

翔は地面に横たわる森狼の亡骸を見つめた。「でも、どうしてこんなに素早く…」

「訓練だ」エリスは簡潔に答えた。「それと…」彼女は一瞬言葉を詰まらせた。「何かを守りたいという気持ち」

「何かを…守る?」

エリスは翔の問いには答えず、道を指さした。「行くぞ。ここで長居は無用だ」

二人は再び歩き始めた。翔はエリスの背中を見つめながら、彼女の言葉を反芻していた。何かを守るための力。それは単に強くなるだけとは違う、もっと深い意味を持つものなのかもしれない。

道中、エリスは時折立ち止まり、草木の様子や地面の痕跡を確認していた。彼女は森を読むのに長けているようだった。

「何を見ているの?」翔は好奇心から尋ねた。

「痕跡だ」エリスは足元の草の倒れ方を指さした。「この辺りを何が通ったか、どれくらい前か、どの方向に向かったかが分かる」

「すごい…」翔は心から感心した。「教えてもらえる?」

エリスは少し驚いた表情を見せたが、すぐに普段の冷静さを取り戻した。「見る目があれば、基本は簡単だ」

彼女は翔を足元の痕跡に近づけ、説明を始めた。草の倒れ方、土の湿り具合、折れた小枝の状態。それらすべてが何かを語っているのだと。

翔は真剣に耳を傾け、時折メモを取った。エリスはその様子を見て、わずかに表情を和らげた。

「頭は良さそうだな」彼女は口の端を少しだけ上げて言った。これが彼女なりの微笑みなのだろうと翔は思った。

午後になり、二人は森を抜け、丘の上に立った。そこからは小さな町が見渡せた。石造りの建物が整然と並び、中央には大きな広場があった。町の周りには畑が広がり、人々が働く姿が小さく見えた。

「あれがミリアだ」エリスは指をさした。「アルバニア王国の北部地域では最大の町だ」

「へえ…」翔は感嘆の声を上げた。異世界の町並みは、中世ヨーロッパの絵本から抜け出てきたような趣があった。

丘を下りて町に近づくにつれ、人の往来が増えてきた。農民らしき人々が荷車を引き、商人たちが荷物を運んでいた。そして翔が驚いたのは、人間だけでなく、耳の尖った優雅な姿のエルフや、がっしりとした体格のドワーフも見かけたことだった。

「色んな種族がいるんだ…」翔は興奮気味に言った。

「ミリアは交易の中心地だからな」エリスは答えた。「様々な種族が行き交う」

町の入口には二人の衛兵が立っていたが、エリスに顔見知りらしく、特に問題なく通過できた。

ミリアの中は活気に満ちていた。通りには様々な店が軒を連ね、行商人たちは大声で商品をアピールしていた。空気中には様々な香辛料や焼き菓子の香りが漂い、翔の胃が鳴った。

「冒険者ギルドはどこ?」翔は周囲を見回しながら尋ねた。

「中央広場の近くだ」エリスは先導した。

人々の流れに逆らいながら進むと、やがて大きな石造りの建物が見えてきた。入口には剣と盾のシンボルが掲げられ、「冒険者ギルド ミリア支部」と書かれていた。

「ここだ」エリスは扉を開けた。

中に入ると、広い空間が広がっていた。壁には大きな掲示板があり、多くの紙が貼られていた。部屋の中央には長いテーブルがいくつも並び、様々な格好をした人々が飲み食いしたり、話し込んだりしていた。奥には受付カウンターがあり、数人の係員が忙しそうに働いていた。

「すごい…」翔は圧倒された様子で言った。「本当にRPGゲームみたいだ」

「何?」エリスは首を傾げた。

「あ、いや、なんでもない」翔は急いで言った。「どうすれば冒険者になれるの?」

「まずは登録だ」エリスは受付カウンターを指さした。「だが、あなたのステータスでは…」

「知ってる」翔は頷いた。「今は情報収集だけ」

二人はカウンターに向かい、老練そうな女性係員に話しかけた。

「初めての方ですか?」彼女は翔を見て尋ねた。

「はい。冒険者になるにはどうすればいいのか知りたくて」

「まずはギルドカードの発行ですね。そのためには登録料10シルバーと、簡単な適性テストがあります」

「適性テスト?」

「はい。基本的な体力、反射神経、そして魔力の有無を確認します」

翔は財布を確認したが、もちろんこの世界の通貨は持っていなかった。

「お金は…」

「私が出す」エリスが意外にも申し出た。「お礼にマチルダにいい薬草を集めてくるんだな」

「あ、ありがとう」

登録手続きを始めようとしたとき、突然、ギルドの扉が勢いよく開いた。数人の男たちが、誰かを支えるようにして入ってきた。その人物は血まみれで、意識がないようだった。

「医療係!緊急だ!」一人の男が叫んだ。

周囲が騒然となる中、翔とエリスも近づいていった。倒れているのは若い女性で、金色の長い髪が血で汚れていた。

「何があった?」ギルドマスターらしき中年の男性が尋ねた。

「北の森で魔物の群れに襲われました。他のメンバーは…」男は言葉を詰まらせた。

医療係が駆けつけ、治療を始めたが、表情は厳しいものだった。「深手です。通常の治癒魔法では間に合わないかもしれません」

翔は倒れた女性を見つめた。彼女は清楚な顔立ちで、普段は優しい表情をしているのだろうと想像できた。今はその顔が痛みで歪んでいる。

「何か…できることはないの?」翔は思わず尋ねた。

医療係は首を振った。「高位の癒し手が必要です。だが、この町にはいません」

その時、エリスが前に出た。「セリアなら…」

「村の癒し手の娘か?」ギルドマスターが食いついた。「だが、彼女はまだ修行中だろう?」

「それでも、彼女の力は特別だ」エリスは確信を持って言った。

ギルドマスターは一瞬考え込み、決断した。「では急いで連れてきてくれ。報酬は弾む」

エリスは翔に向き直った。「私は村に戻る。あなたはどうする?」

翔は倒れた女性を見つめ、決意した。「一緒に行く。何か手伝えるかもしれない」

二人は急いでギルドを後にした。町を出る前に、エリスは小さな瓶を購入し、翔に渡した。

「体力回復薬だ。もしものときに」

「ありがとう」翔はポケットにしまった。

二人は来た道を急ぎ足で戻り始めた。通常なら3時間ほどかかる道のりを、エリスは2時間で戻るつもりらしかった。

「あの子は誰?」翔は息を切らしながら尋ねた。

「セリア。村の癒し手、マリアの娘だ」エリスは足を止めずに答えた。「生まれつき特別な癒しの才能を持っている」

「そんな力があるんだ…」

「ああ。だが、まだ若い。大きな負担になるだろう」エリスの声には心配が滲んでいた。

森の中を進む二人の前に、突然、道を塞ぐように大きな木が倒れていた。

「これは…」エリスは眉をひそめた。「自然に倒れたものではない」

その時、木々の間から低いうなり声が聞こえてきた。今度は森狼ではなく、より大きな影が彼らを取り囲んでいた。

「森の熊だ」エリスは剣を抜いた。「普通の熊より二回りは大きい。そして知能も高い」

翔の背筋に冷たい汗が流れた。確かに現れた生物は熊に似ていたが、通常の熊より遥かに大きく、牙は異様に発達し、目は赤く光っていた。

「どうすれば…」

「逃げるな」エリスは冷静に言った。「背中合わせで立て。私が合図したら、できるだけ大声で叫ぶんだ」

翔は言われた通りにエリスと背中合わせになった。熊は二頭、彼らの周りをゆっくりと回っていた。

「なぜ襲ってくるんだ?」翔は小声で尋ねた。

「最近、魔物たちが異常に攻撃的になっている」エリスは答えた。「何かがおかしい」

突然、一頭の熊が大きな声で吠え、二人に突進してきた。

「今だ!叫べ!」エリスが命じた。

翔は思いっきり大声で叫んだ。それと同時にエリスが素早く動き、熊の前足を狙って剣を振るった。熊は痛みに吠えたが、その大きな体はびくともしなかった。

「もう一度!」

翔は再び叫び、今度はさらに大きな声を出した。エリスは熊の目を狙い、鋭い一撃を放った。熊は目に傷を負い、混乱して後退した。

もう一頭の熊が後ろから攻撃してきた。翔は間一髪でよけたが、熊の鋭い爪が彼の腕をかすめた。鋭い痛みが走り、血が滲んだ。

「翔!」エリスが振り向いた瞬間、最初の熊が再び襲いかかった。

「エリス、後ろ!」翔は警告を叫んだ。

エリスは素早く身をひねり、剣を熊の喉元に突き立てた。熊は大きな声で唸り、その場に崩れ落ちた。

しかし、二頭目の熊はまだ健在だった。翔を狙って前足を振り上げる熊に、エリスが飛びかかった。彼女の動きは風のように素早かったが、熊の力はそれを上回った。一撃で彼女は地面に叩きつけられ、剣が手から離れた。

「エリス!」

熊は倒れたエリスに迫った。翔は咄嗟にポケットから体力回復薬を取り出し、一気に飲み干した。突然、体に力がみなぎるのを感じた。

思考するより先に体が動いた。翔はエリスの落とした剣を拾い上げ、熊に向かって突進した。剣の扱いなど知らない彼だったが、ただひたすらにエリスを守りたいという思いだけで動いていた。

熊は威嚇するように前足を上げ、翔を迎え撃とうとした。しかし、翔の動きは熊の予想を上回る速さだった。彼は熊の前足の下にくぐり込み、渾身の力で剣を熊の腹部に突き刺した。

熊は痛みに吠え、暴れ始めた。翔は剣から手を離し、エリスの元へと走った。

「大丈夫?」

エリスは痛みに顔をしかめながら、ゆっくりと起き上がった。「まさか、あなたが…」

熊はまだ生きていたが、傷が深く、徐々に動きが弱まっていた。エリスは翔の助けを借りて立ち上がり、小さなナイフを取り出した。

「最後を終わらせる」彼女は静かに言い、傷ついた熊に近づいた。一つの素早い動きで、彼女は熊の苦しみを終わらせた。

「行こう」エリスは翔の腕の傷を見て言った。「それも早く治療が必要だ」

「君の方が…」

「私は大丈夫だ」エリスは首を振った。「レグナー家の血筋は簡単に倒れん」

二人は急いで道を進んだ。翔の腕の傷は痛んだが、エリスが応急処置をしてくれたおかげで出血は止まっていた。

「さっきのこと…」森を抜けた頃、エリスが言った。「なぜ戻ってきた?危険を承知で」

翔は少し考えてから、正直に答えた。「分からない。体が勝手に動いた。ただ、あなたを助けなければと思って…」

エリスはしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。「…ありがとう」

その一言は、これまでの彼女の冷たい態度からは想像できないほど温かいものだった。

ローズヒル村に到着すると、二人は急いでマチルダの家へと向かった。そこにはセリアという名の少女がいた。金色の髪をした清楚な少女で、慈愛に満ちた瞳が印象的だった。

「セリア、力を貸してほしい」エリスは状況を手短に説明した。

セリアは真剣な表情で聞き終えると、すぐに準備を始めた。「分かりました。すぐに行きましょう」

彼女は小さな布袋に様々な薬草や小瓶を詰め込み、最後に大事そうに青い宝石を首から下げた。

「これは?」翔は気になって尋ねた。

「癒しの石です」セリアは優しく微笑んだ。「家系代々伝わるもので、私の力を増幅してくれます」

準備が整い、三人はミリアへ向かう準備をした。セリアはエリスと翔の傷を簡単に治療してくれた。その力は驚異的で、触れるだけで痛みが消え、傷が塞がっていくのを翔は目の当たりにした。

「すごい…」翔は感嘆の声を上げた。


「ありがとう、セリア」エリスは感謝を述べた。「でも、今私たちが来たのは自分たちの傷のためではない。ミリアのギルドに重傷者がいて、あなたの力が必要なの」

セリアは驚いた様子で二人を見つめ、マチルダも心配そうに眉をひそめた。

「どんな傷なのですか?」

「詳しくは分からないが、全身に重傷を負っている。町の医術師たちは全員、北の村に出払っているそうだ」

セリアは迷うことなく頷いた。

「行きましょう。命が危険なら、一刻も早く」

マチルダは心配そうにセリアの肩に手を置いた。

「無理はしないでね。あなたの力にも限界があるのだから」

セリアは優しく微笑んだ。「大丈夫です。これも私の使命ですから」

三人は簡単な旅支度を整え、再びミリアへ向けて出発した。夜道を急ぐのは危険だが、命に関わる事態に迷いはなかった。翔は道中、セリアの様子を観察した。彼女は小柄で華奢な印象だが、目は強い決意に満ちていた。

「セリア、あなたはずっとこの村に?」

翔の問いかけに、セリアは穏やかに答えた。

「はい。私は生まれてからずっとローズヒル村で暮らしています。マチルダさんに育てられたんです」

「癒しの力はいつから?」

「幼い頃からありました。最初は小さな怪我を治せるだけでしたが、祈りと修行で力を高めてきました」

その言葉には謙虚さが感じられた。彼女は自分の能力を誇らしげに語ることなく、ただ使命として受け入れているようだった。

夜を徹して歩き、翌日の午後、三人はミリアにたどり着いた。疲労が顔に表れていたが、立ち止まる時間はなかった。彼らは直接ギルドへと向かった。

ギルドの中は前日よりも緊迫した雰囲気に包まれていた。重傷者はギルドの奥の部屋に運ばれ、看護師が交代で付き添っていた。三人が到着すると、ギルドマスターらしき男性が駆け寄ってきた。

「セリア様!来てくださったんですね」

彼はセリアに深々と頭を下げた。その様子から、セリアがこの地域では広く知られ、尊敬されている人物だと翔は理解した。

「重傷者はどちらに?」

セリアの問いに、ギルドマスターは奥の部屋へと案内した。部屋に入ると、そこには蒼白な顔をした若い女性が横たわっていた。彼の胸と腹部には深い傷があり、包帯は血で染まっていた。呼吸は弱々しく、生命の灯が消えかかっているのが分かった。

「魔獣の襲撃を受けたんです。仲間たちは彼を守るために…」

ギルドマスターの言葉は途切れた。他の冒険者たちは命を落としたのだろう。セリアは悲しみに沈んだ表情を一瞬見せたが、すぐに気持ちを切り替え、傷ついた女性の側に膝をついた。

「すぐに祈りを始めます。部屋を静かにして、誰も入らないようにしてください」

セリアの指示に、ギルドマスターは頷き、部屋から退出した。エリスも翔の腕を引いて、部屋を出ようとした。

「私も残ってもいいですか?」翔は尋ねた。「何か助けになることがあれば」

セリアは少し驚いたように翔を見つめ、そして優しく微笑んだ。

「ありがとうございます。でも大丈夫です。この治療は私一人でないと」

翔とエリスは部屋を出て、ギルドの共有スペースで待つことにした。時間が経つにつれ、翔の胸に不安が広がっていた。セリアの癒しの力は確かに素晴らしかったが、あれほどの重傷を治せるのだろうか。そして、彼女自身に負担はないのだろうか。

「彼女は大丈夫なの?」

エリスは静かに答えた。「セリアの力は特別だ。しかし、それには代償もある。彼女は他者の痛みを自分の体で一時的に受け止めるんだ」

翔は驚きの声を上げた。「そんな…では彼女は今、あの重傷者の痛みを?」

エリスは静かに頷いた。「だから彼女は一人で行う。誰にも見せたくないんだ、その苦しみを」

二時間が過ぎたころ、セリアの部屋から物音が聞こえた。翔とエリスは立ち上がり、ドアに駆け寄った。そこには疲労で蒼白になったセリアが立っていた。彼女はふらつきながらも、微笑んでいた。

「大丈夫…彼女は…助かります」

そう言うと同時に、セリアはその場に崩れ落ちた。翔が急いで彼女を支える。セリアの体は氷のように冷たく、額には冷や汗が浮かんでいた。

「セリア!」

エリスが叫ぶと、ギルドの人々が慌てて集まってきた。彼らはセリアを別の部屋に運び、休息のためのベッドを用意した。

「彼女は力を使い果たしたんだ」ギルドマスターが説明した。「回復には時間がかかるだろう」

翔はセリアのベッドの側に立ち、彼女の安らかな寝顔を見つめた。彼女は自分の身を顧みず、見ず知らずの人のために全力を尽くした。その無私の精神に、翔は深い感銘を受けた。

「すごい人だ…」

「ええ」エリスも同意した。「彼女はいつもそう。自分より他人を優先する」

翔は自分の心に問いかけた。自分はこれまで、何のために力を求めてきたのか。異世界での冒険もダンジョン攻略も、結局は自分の欲望のためだったのではないか。「モテたい」という単純な願望のために。

セリアのような生き方を見て、翔は自分の目標を見つめ直す必要があると感じた。力は自分のためだけでなく、誰かを助けるためにこそ使われるべきではないか。

夜が更けていく中、翔はセリアの側で見守り続けた。彼女の呼吸が徐々に安定していくのを見て、少し安心する。エリスは部屋の隅で仮眠を取っていた。

翌朝、セリアはゆっくりと目を開けた。

「おはよう」翔が優しく声をかけた。

セリアは弱々しく微笑んだ。「翔さん…ずっと側にいてくれたんですね」

「心配だったから」

「患者さんは?」

「一命を取り留めて、今は安定しているよ。君のおかげだ」

セリアは安堵の表情を見せた。「よかった…」

その時、エリスが目を覚まし、セリアの様子を見に来た。

「セリア、無理はしないでね。まだ体を休めるべきだわ」

三人が話している間に、ギルドマスターが部屋に入ってきた。彼は深々と頭を下げ、感謝の言葉を述べた。

「セリア様、本当にありがとうございました。そして翔殿、エリス殿、遠いローズヒル村からセリア様を連れてきてくれて感謝します」

彼は続けて、三人にギルドからの謝礼を申し出た。セリアは遠慮したが、翔とエリスは受け取ることにした。特に翔には、この世界での最初の収入となる。

「あなたたち二人もギルドに登録されては?」ギルドマスターが提案した。「あなたたちの勇気と決断力は、冒険者として価値あるものです」

エリスは即座に同意した。彼女の当初の目的通りだ。翔も少し考えた後、頷いた。ギルドに所属すれば、この世界での足場が固まるだけでなく、様々な経験を積むことができる。そして、ダンジョン攻略にも役立つだろう。

ギルド登録の手続きを済ませた後、三人はギルドの食堂で食事をとった。セリアの体力も少しずつ回復していた。

「これからどうするつもりですか?」セリアが二人に尋ねた。

エリスは自分の計画を話した。「私はしばらくミリアに滞在して、ギルドの仕事をこなすつもり。」彼女は言葉を濁した。

「翔さんは?」

翔は正直に答えた。「僕もギルドで経験を積みたいと思っている。それに…」彼は少し躊躇った後、続けた。「セリアのような生き方に、心を動かされたんだ。力を得るなら、誰かのために使いたい」

セリアは嬉しそうに微笑んだ。「それなら…私も一緒に行動してもいいですか?」

その提案は意外だった。エリスも驚いた表情を見せた。

「でも、村での役割は?」

「マチルダさんには伝えてあります。私も外の世界で経験を積むべき時が来たと」セリアは決意を込めて言った。「そして…正直に言うと、二人と一緒にいると、何か大切なことに関わっていると感じるんです」

翔とエリスは顔を見合わせた。三人で行動するという案は、不思議と自然に思えた。それぞれに異なる背景と能力を持つ彼らが協力すれば、より多くの可能性が開けるだろう。

「歓迎するよ」翔は笑顔で答えた。

エリスも同意し、こう付け加えた。「私たちは最強のパーティになれるわ」

セリアは嬉しそうに頷いた。「ありがとうございます。精一杯、力になります」

こうして翔は異世界で初めての仲間を得た。剣の達人であるエリスと、癒しの力を持つセリア。彼らとの出会いは、翔の異世界での足場を固めるだけでなく、彼自身の目標をも変えていった。

「モテたい」という単純な願望は、徐々に「仲間と共に成長し、誰かの役に立ちたい」という思いへと昇華していく。それは翔にとって、予想外の展開だった。

三人はギルドの宿泊施設で一泊し、翔は夜になって一度だけ現実世界に戻った。屋敷の「西の部屋」から出ると、現実世界の時間はほとんど経過していなかった。異世界での数日間が、現実世界ではわずか数時間にすぎないことに翔は驚いた。

この時間の流れの違いは、両世界を行き来する上で大きな利点になるだろう。翔は簡単な準備を整え、学校の宿題も済ませた後、再び「西の部屋」へと戻った。

異世界での新たな冒険が、今始まろうとしていた。

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