第35話 テラスで朝食を


 香ばしい焼き立てのパンと、美味しい料理の香りにつられて微睡んでいた意識が浮上する。窓から射し込む陽射しは弱いながらも朝の清々しさを寝室に満たしていた。


「おはよ」


 弾むような声で挨拶されリディアはそっと注意して身を起こす。

 急に身体を動かすと不都合があることは昨日一日で学んだ。これ以上セレスティア家の侍女に迷惑をかけるのは申し訳ないし、とても恥ずかしい。


「食べられそう?」


 銀色の盆を手に近づいてくるセシルがにこりと破顔する。

 昨日一日吐き気と怠さで食欲が起きず、結局なにも食べられなかった。今は空っぽの胃が運ばれてきた料理に反応して活動を開始し騒ぎ立てている。


「うん。もう、ぺこぺこ」

「そりゃよかった。セレスティア家の料理はおいしいから、食べなきゃ損だ」

「そうなの?楽しみ」

「起きれそうなら外で食べようよ」


 一旦ベッドに盆を乗せて外へと繋がる窓を開ける。

 爽やかな風が入って来て、閉め切られていた部屋の籠った臭いを浄化してくれた。

 自分の身体から立ち昇ってくる臭いに気付き顔を顰めて後で湯を借りようと決めたが、まずは空腹を静めることが先決だ。


 慎重に身体を移動させて床に足を下して立ち上がる。


 強烈な違和感と怠さが下腹部辺りに集中しているのを考えないようにして外へ出た。テラスには手摺とその傍に腰かけるベンチが置かれ、手摺の向こうには砂利で作られた小道に囲まれた花壇がある。


 その傍らに小さな花をつける樹が植えられていた。


 美しく伸ばした横枝から出た小枝の先に房状に白い花を下に向け沢山咲いている。とろけるような香りが風に運ばれてきて思わず微笑んだ。花びらは五つに分かれているがまるで蕾のような形状で咲いている姿が可憐だった。


「スティラックスって樹だよ」


 部屋に戻り盆を抱えてきたセシルがその樹の名前を教えてくれる。

 ついでに香水の原料として使われることも。

 元々色んなことを知っていたのだろうが、ドライノスの元で学んでいるから植物についてリディアにも教えてくれることが多くなった。


 あんなに嫌がっていたのに。


「なに?」


 くすりと笑ったのをセシルは見咎め、片目を細めて首を傾げる。


「なんでもない。ご飯食べよう」


 ベンチの真ん中に盆を置きそれを挟んで左右に座った。

 たっぷりの野菜と牛肉の煮込み、じゃが芋のサラダにふわふわのオムレツ、焼き立てのパンとバターに苺のジャム。

 チーズとハムと果物。

 そして生クリームたっぷりのケーキ。


「うわぁ。朝からすごい、重い」


 初めてのセレスティア家の食事に閉口する。

 どう考えても栄養過多だ。

 どれも美味しそうだが調子に乗って食べるとあとが恐い。


「これ、ヘレーネもライカもペロリと食べたうえに、おかわりするんだから見てる方が気分悪くなる」

「ヘレーネも?」

「そうだよ。しかもこれ、一人分だから」


 セシルが持ってきてくれた盆の上を見てぎょっとする。

 二人分を一緒に盛ってくれているのだと思っていたが違うらしい。


 流石にひとりでこの量は無理である。


「あたしの分はヘレーネとライカが食べてくれるだろうから置いてきた。リディと一緒に食べて丁度いいくらいだからさ」

「ちょっと有り得ないね」


 パンを千切って口へと運ぶと小麦の香りが広がった。

 一日目に泊まったゴーグで見た麦畑が目に浮かび、もしかしたらあそこで採れた小麦かもしれないと思うとちょっぴり特別な感じがした。


「ノアールが、リディの体調が良くなってたら後で顔出すっていってたよ」

「そうだ。わたしノアールのお父さんにも御挨拶してない」


 着いたと同時に部屋で寝込んでしまったので世話になるのに――いや、世話になっているのに顔も出さずに挨拶も無しではいくらなんでも常識が無さ過ぎる。


「伯爵にはあたしもまだ会ってないから。なんか忙しいってさ」

「でも」

「大丈夫だって。ヘレーネが代わりに挨拶してくれたみたいだから気にしない」


 確かに入れ代わり立ち代わりで挨拶に来られても、忙しいのなら迷惑なだけかもしれない。

 機会があれば改めて挨拶すればいいのだ。


「なんか昨日、家族会議で後継者は自分達で決めなさいっていわれたらしくてさ。ノアールちょっと困ってたよ」


 パンの間にオムレツとハムとチーズを挟んで頬張りながらセシルが現状を教えてくれた。

 リディアは牛肉をほぐしてから野菜と一緒にスプーンに乗せて口へと運ぶ。長時間煮込まれワインで臭みを消された牛肉はホロホロと柔らかく、小さく刻まれた人参やキャベツ、玉葱やセロリなどのそれぞれ食感が違っていて楽しい。


「自分達で決めるって難しくない?きっとノアールは決められないと思う」

「だろうね」


 弱りきった顔のノアールがあれこれ悩んで苦しんでいるのが目に浮かぶようだ。

 リディアがノアールのためにできるがことあるだろうか?


 無力で無知な自分にやれることなど少ないことも分かっている。

 嫌というほど自覚させられたから。


 それでも。


「わたし、ノアールと会う前にお兄さんと会ってみたい」

「会ってみたいって、フィリエスに?」

「うん。会ってみて、そのフィリエスさんがノアールのことどう思ってるのか知りたい」

「なるほど」


 ぺろりとパンを食べ終えた指を舐めてセシルは眉を寄せう~んと唸る。思案気なその顔に少しだけ心配してくれている表情が見えてリディアは心を弾ませた。

 駄目だと即答されなかったのが嬉しい。


「相手は結構手強いけど平気?」

「そんなに怖そうな人じゃなかったと思うけど」


 綺麗で謎めいた雰囲気をしていたが、弟の友人を冷たくあしらうような失礼な人では無いように見えた。遠目でちょっと見ただけの感想だから胸を張って大丈夫だと言えないのが情けないが。


「いやぁ、あれは結構危ない感じだけど。ま。リディがどうしてもっていうのなら止めない。でもあたしはフィリエスに目をつけられてるから一緒について行けないけど?」


 どうするのだと目で問われ、流石にこの前のことで単独行動するのは懲りている。

 頼めそうなのはヘレーネかライカしかいないので、どちらかに一緒に来てもらうと答えると「妥当かもね」と頷いてくれた。


「それより目をつけられてるって一体なにしたの?」

「まだなにもしてないよ。人聞き悪いこといわないで」

「ほんとに?」

「ほんとほんと。それよりルーサラとリディが連れてけって言ったあの白騎士。とんだお荷物で、しかも覗――」

「いうなっ!バカ!」


 最後までいう前に突然砂利の小道を猛然と走ってくるケインによって阻まれた。

 セシルは呆れた顔で騎士を迎え、突然の出来事にリディアは呆気に囚われるしかない。一体どこに潜んでいたのか知らないが、ケインが走って来た場所からここまで結構な距離がある。


「耳がいいんだね」


 素直な感想を漏らすとセシルがぷっと吹き出して身体をくの字にして笑い転げる。

 憮然と手摺の向こうに佇むケインは怒りより戸惑い、自分の感情を持て余しているかのように見えた。


 その視線はセシルを見つめ、そこになんらかの思いが込められているようで。


「おはようございます。ケインさん」


 にこりと笑ってまずは朝の挨拶をする。

 はっと騎士は背筋を伸ばして身体を向けるとリディアに会釈して「おはようございます」と丁寧な挨拶を返す。


 そういう態度を見ると初めて会った時の爽やかで生真面目な騎士に見える。

 でもきっとこれは表向きの顔で、セシルに対して見せたあの姿が本当のケインなのだろう。


「っはあ!ほんとにリディはおかしい。面白い。最高」

「誉めてないでしょ?どこがおかしくて、面白くて、最高なのか分かんない」

「うん、まあね。誉めては無いけど。最高なのは確か」


 一生懸命笑いを噛み殺している失礼な友人は放っておいて、リディアは同情の瞳を騎士へと向けた。


「ごめんなさい。ケインさん。セシルの相手大変だったでしょ?」

「え?いえ、あの」

「はっきりいったらいいよ。大変だったって」


 労いの言葉にケインは返答を濁し、窺うようにセシルを見た。

 視線を送られた当の本人は笑いを納めて朝食を再開しながら肩を竦める。騎士はなぜか頑なな表情で「大変といえば大変だったが、今思えば楽しかった」とはっきりと答えた。


 面食らったのはセシルの方で、サラダを乗せたスプーンが傾いてテラスの白い石の上にじゃが芋の塊がころりと落ちた。


「……あんた、自虐趣味まで持ってんの?相当な変態騎士だね」

「おい!こらっ!んなわけないだろ!変態とかっ。取り消せ!」


 手摺の向こうから身を乗り出してセシルに詰め寄ろうとするが、セシルの座っている手摺の下には植込みがあるので、手前に座っているリディアの傍へ必然的に身体を寄せるようになる。


「や、あの。ちょっと」


 近くで大声で捲し立てられた上に、近くに体温を感じて驚いて身を引くとベンチから落ちそうになりセシルが舌打ちして支えてくれた。


「いい加減にしろ!変態お荷物騎士!」

「だから!それ!止めろ」

「止めるのはあんたの方だ。それともまたあたしが女だってこと忘れてるの?」

「そんなわけっ」

「女の部屋にテラスとはいえ断りも無く入ってくるような騎士には近づかないで欲しいね。リディアが今どんな格好してるかあんた解ってんの?」

「っ!?」


 いわれてリディアも自分が寝間着のままなのだということを思い出す。

 恥ずかしくて俯くとセシルが手を伸ばして腕の中に抱き入れてくれた。


「消えろ。今すぐ」


 低い冷たい声はセシルの物とは思えずリディアはビクッと肩を震わせて視線を上げた。でもいくら見上げても顎の線と柔らかな緑の髪しか見えない。


「失礼しました。騎士としてあるまじき行為です。どうかお許しを」


 声が遠ざかり、目の端に手摺の下に跪くケインの姿が映る。


「リディは優しいから許すだろうね。でもあんたの仕事はあたしに付き纏うことじゃないはず。騎士としての誇りも名誉も無いようなやつには、あたしにもリディの周りにもうろついてもらいたくない。何度もいわせるな。消えて。今すぐに」


 なにかいいたげに顔を上げるが、返す言葉も資格も無いと諦めてケインはさっと立ち上がると足早に小道の向こうへと歩いて行った。


「セシル、ケインさんは」

「いいの。付き纏われてて鬱陶しかったから。丁度良かったよ」


 腕から解放されて騎士を擁護しようとしたが、セシルは清々したとにこりと笑った。ケインを気の毒に思ったが、彼の行動は確かに騎士としては誉められたことでは無かったので黙る。


 何事も無かったかのように食事をするセシルに物問いたげな瞳を向けても効果は無い。

 ケインの去った後ろ姿を思い出すと胸が切なくなったが、どうにもならない事なのでパンにジャムを塗り食べる。


 甘ずっぱくとびっきり美味しくて、それがまた切なく胸をきゅんとさせた。

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