第33話 神の気紛れ


 ブラブラと脚を揺らしながら腰を下ろして座っている執務机の上の書類を眺めながら部屋の主が戻ってくるのを待つ。


 お茶の時間はとうの昔に過ぎ、離れにあるこの執務室は静かな時間が流れている。窓から夏だというのに肌寒い風が山梔子の甘い匂いを遠くから運んできて白いカーテンと机の上の書類もろとも巻き込んでいく。


「……なにをしている」


 せっかちな足音が廊下を近づいて来ていたのは知っていた。

 それが待っていた部屋の主の物だということも。


 だから扉が開いた途端に浴びせられた冷たい声にも笑顔で応える。


「もう家族会議は終わった?」

「どうやら神の気紛れが起きたらしい」


 執務室に居座っているセシルが森で会った人物だと覚えていてくれたようでなによりだ。

 あんなに奇妙な出会い方をしていれば忘れる方が難しいだろうが。


「もう会うことは無いかと思っていたのはお互い様だけどね」


 フィリエスは床に散らばった書類を拾いながら執務机へと歩いてくる。

 ピリピリとした雰囲気に、どうやら家族会議は不愉快な物だったらしい。


 これはノアールの方も大きな衝撃を受けているに違いない。


「名乗るのが遅くなったね。セシルだよ。セシル・レイン。ディアモンドから来たっていったら分かるよね?」

「モリスンがいっていたノアールの友人か」

「正解」


 酷薄な笑みを浮かべてフィリエスはセシルを横目で眺め、風の吹きこむ窓を閉めた。

 大きくはためいた後でカーテンがゆっくりと動きを止める。


「セシル・レインね。はっ、面白い」


 くっと喉奥で笑い机の上に拾った書類を置くと手を伸ばしてセシルの顎を掴む。

 強くは無いが拒むのを許さないぐらいの力。

 代わりにセシルも手を伸ばしてフィリエスの陶器のような頬に触れてから癖の無い紫紺の髪を掻き分けて耳を軽く引っ張る。


「朝に挨拶しようかと思ってたんだけどね。食堂に来ないからテレサに聞いたら、フィリエスは離れに住んでるっていうからさ」


 会いに来たと告げるとフィリエスは僅かに眉を寄せて顎から手を離すと、そのまま自分に触れているセシルの手を乱暴に振り払った。


 まるで汚らわしいとでもいわんばかりに。


「ご挨拶だね」


 肩を竦めて机から飛び降りる。

 机を挟んで見つめ合うというよりも探り合いながら視線を絡め、その瞳にちらちらと燃える闘志を確認するとセシルは苦笑いを浮かべた。


 やはりなにかを企んでいる。

 そして覚悟を決めている。


「しょうがないなぁ」

「なにが、かな?」

「なにがって」


 胡乱な顔でこちらを見ているフィリエスは警戒心丸出しで小首を傾げる。


「森でいったよ。殺したい人がいるなら手伝ってあげてもいいって」

「冗談をいうような状況ではないと思うよ」


 咎めるような声には、呆れと期待が入り混じって少しだけ上擦っていた。

 セシルは軽やかに一歩飛んで下がる。


「冗談なんかじゃないよ。相手がノアールでもルーサラでも、伯爵でもいい」

「どういうつもりかな。なにが目的だ。ことによっては容赦しないが」

「どうもこうも。愛している証拠でしょ?だから手伝うっていってるんだけど」


 さっと青褪め微かに唇が開き、余計なことをいうまいとしてかすぐに固く閉じられた。


「相手が誰でも協力するよ。“誰”でもね」


 殊更強調してにこりと微笑み、腰に帯びた剣に斬り伏せられる前に扉へと辿り着くと「じゃあね」と廊下へと脱出する。

 机を殴ったのかドンッという音が中から聞こえ、それを確認してから扉を離れて廊下を歩き始めた。


 いつの間にかライカが傍に来ていて頬の傷を引き攣らせ楽しそうに笑う。


「あれで動きゃいいが」

「動こうが動くまいが関係ないよ。あたしには」

「なんだ?ノアールの味方じゃねえのか?」


 人相の悪さを決定づけているのは頬の傷では無く赤茶色の三白眼だ。

 眉を片方だけ跳ね上げると更に拍車をかけることになる。


「どうかな。悪いようにはしない、とは思ってるけど」

「気紛れなのは神じゃなくお前の方だな」


 どうやら全て聞いていたらしい。


 セシルは「かもね」とだけ応えて、一先ずは部屋に戻りリディアの様子を見てからノアールに会いに行こうと決めた。

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