第17話 出迎え
フィライト国の殆どの船の帆には魔法がかけられているから他国の船より足が速い。特にこの季節は西からの風が強く、ディアモンドからラティリスの港まで三日で到着することができる。
冬場は向かい風となるので五日はかかることも多い。
船は順調に航海を終えてラティリスの港デュランタに到着しようとしていた。一年ぶりの故郷に胸が熱くなるよりも、動揺と不安の方が大きい。
後継者候補としての役割を果たすとは一体どんなことだろうか。
兄達と同じようにどこかの領地を治めさせられたらどうしよう。
自分のことで手いっぱいなのに他人の生活を支えるなんてできるわけが無い。
しかも興味が無かったので、領主としての知識を持っていない。
自分から領地のこともなにひとつ知ろうとはしなかったのだから。
「母上」
美しかった母の面影。
掌に示された名前。
二人の兄。
そして父の顔。
懐かしいという感傷が無い事に正直驚きながら己の冷たさを実感する。
きっと自分さえよければいいのだ。
人の事などどうでもいいと思っている。
心のどこかで。
船は桟橋につけ、橋桁が急いでかけられた。
下船しようと乗客は急ぎ足で橋桁を下りて行く。
ノアールも荷物を手にデュランタの港へと降り立つべく歩きだす。
桟橋をゆっくりと行くと体格の良い船員達が荷物を肩に担いで船へと乗せているのが目に入る。
その表情は明るい。
商人が荷を前に船長と交渉している姿もあった。
この港は活気がある。
きっと任されている長兄ルーサラの力が大きいのだろう。
ルーサラは穏やかで、些細なことでも真摯に耳を傾け聞いてくれる。そして解決策を一緒に考えてくれる懐の広さもあった。
きっとこの港の住人にも慕われているに違いない。
「ノアール様」
声の方を見るとそこには黒いワンピースに白いエプロンを着けた若い女性が立っていた。
彼女はルーサラ付きの侍女でジェンガという。
身の回りの世話だけでなく、仕事上の補佐もする有能な人物。
蜂蜜色の髪を綺麗に纏めて、淡い紫の瞳に親愛の情を乗せてノアールと目が合うと膝を曲げて挨拶をする。
「お帰りなさいませ。あまり顔色が宜しくありませんが、船旅は御不便が多かったですか?」
「久しぶりだからきっと緊張してるんだと思う」
ジェンガは唇をそっと持ち上げて目を眇めて微笑み「相変わらずでございますね」と囁くように呟いた。
彼女は領地を持たない下位貴族の娘で、行儀見習いと称して本当に小さな頃からセレスティア家で働いている。
だがただの行儀見習いとして伯爵家へ上がったわけでは無い。
両親はセレスティアのいずれかの子息の心を射止めてくれと考えているはずだ。当の本人はそういう素振りは一切見せずに、黙々と仕事をこなしているが。
真面目さをかわれてルーサラの侍女になり、度々相談をしに来ていたノアールとも顔を何度も会わせていた。
お茶の用意をして話の内容が始まる前に自然な流れで姿を消す気遣いには毎回感心させられたものだ。
「ルーサラ様がお待ちになっております。お疲れでしょうが、もう暫くお付き合い下さいませ」
「うん。大丈夫。僕も久しぶりにルーサラ兄さんに会えるのを楽しみにしてたから」
「お喜びになられますよ。ルーサラ様も大変楽しみにされておられたので」
ジェンガはノアールの手から荷物を受け取り「失礼します」と断って促すように先を歩き出す。
それについて歩きながら港を後にし、市場の並ぶ通りに出た。
道に箱や台の上に新鮮な魚や野菜を乗せて売っている。
パンや調味料、牛乳や蜂蜜などそれぞれの店が自慢の品を宣伝しながら道行く人を引き止めようと躍起になっていた。
売り手も多いが買い物客も多い。
籠を手にした女やお使いを頼まれた子供たちの姿が通りを埋め尽くさんばかりに歩いている。
「良い街になったね。兄さんはすごいや」
「申し訳ありません。本来ならば馬車でお迎えにあがらなければならないのですが、この時間は馬車がこの通りを入ることができないのでございます。この道を出た先で待たせておりますので」
それはそうだろう。
この通りは決して狭いわけではない。
馬車が通るだけの広さは十分ある。だがそれを不可能にしているのは住民の台所を支えているこの市場が盛況だからだ。
やはり船員と同じようにどの顔も明るく、生き生きとしている。
ここでの生活に満足しているからこその笑顔。
間違いなくセレスティア家を継ぐべきはルーサラであると誰もが口を揃えていうだろう。
でもそれは難しい。
「お待たせいたしました」
通りを抜けて待たせていた馬車の扉をノックしジェンガは恭しく開ける。
乗り込もうとしたノアールにそっと手が差し出された。目の前に白く細い指が、美しい掌が現れ顔を上げれば「お帰り。待っていたよ。ノアール」となにも変わらない優しい微笑みが向けられた。
癖のない真っ直ぐの紫の髪を右肩に寄せて緩く結わえ、白くゆったりとした裾の長い服を着ている。
質素だが潔い格好は、気負いが無く逆にゆとりを感じさせた。
閉じられた目蓋の縁を彩る長い睫毛。通った鼻筋。包み込むような温かい声を響かせる唇。
「ルーサラ兄さん」
顔を見た途端に懐かしさが溢れる。
待っていたといわれて素直に喜んでいる自分がいて安心した。
白い手を取ると確かな力で引き上げられ馬車に乗り込む。
ジェンガによって扉は閉められ御者の横に乗り込む気配がし、馬車は静かに走り出した。
「大きくなったね」
向かい合わせで座っているルーサラは両掌でノアールの頬に触れ、眼鏡を避けて鼻を撫でる。額、頭、髪を滑って肩を掴み、弟の成長を確かめるように腕を擦った。
「声が聞こえる位置が高くなってるね。身長も伸びたかな」
「うん。少しだけどね」
ルーサラは嬉しそうに微笑んで閉じた目蓋の下で瞳を動かした。
兄の中で自分は一体どんな姿をしているのだろうか。
兄は生まれつき目が見えない。
それ以外は後継者としてなにひとつ不足の無い能力を持っているのに。
たったそれだけのことで後継者として周りに認められることが困難なのだ。
デュランタの港がかつてないほど活気にあふれて、人々が幸せに安穏とした生活を送れているのはルーサラのお陰なのに。
「楽しいかい?学園は」
「えっと」
「遠慮することは無いよ。できれば学園でのことを聞かせて欲しいから」
学園生活がとても楽しくて故郷に帰りたくなかったのだといえない。
後継者を誰にするのかという周りの視線や詮索が煩わしいなんて、ラティリスで領地を任されている兄達にいえるわけが無い。
胸が苦しくて。
申し訳なくて。
自分だけが好きなことをしているという負い目と、逃げているという自責の念がノアールの口を重くする。
「魔法の手紙が昨日届いたよ」
「魔法の手紙?」
ディアモンドの魔法使いギルドで売っている魔法の手紙は、転移の呪文が刻印された羊皮紙に魔法のインクで書き、ギルドで承認の封蝋をしてもらうと任意の場所へ手紙が転送される。
火急の時の連絡に重宝するが、なにぶん高価な物だ。ノアールも現物はまだ見たことが無い。
「ディアモンドのお友達からだよ」
そうっと差し出された羊皮紙の宛名はルーサリマニタ=セレスティアとある。
ルーサラにはディアモンドに友人などいないはずだ。
「三日後の船に乗って来るって?」
内容は簡潔な物だった。
流れるような美しい文字がリディアとセシル、それからライカとヘレーネの四人で三日後の船に乗り、ラティリスへ行くから宜しく頼みますと書かれていた。
署名はヘレーネ=セラフィスとある。
初めて知ったヘレーネの家名。
だが有名なのか、または無名なのか不勉強なノアールには分からない。
本名なのか。
いや。
きっとここで嘘は書かないはずだ。
家名ではヘレーネの秘密を探ることはできないという自信があるのかもしれない。それとももう隠すことは止めたのか。隠す必要が無くなったのか。
継ぎたい人が継げばいい。
そういったヘレーネは望んでいないのがひしひしと感じられるぐらい投げ遣りだった。気持ちが分かるといったヘレーネ。もしかしたらノアールよりも過酷な人生を歩かなくてはいけないのかもしれない。
「私がノアールの友人を出迎えても構わないかな?」
「え?」
「その為の私宛なのだと思う」
ヘレーネはそつが無い。
きっとそういうつもりでノアールの実家ではなくルーサラ宛にしたのだろう。
だから頷いて頼む。
自分の代わりに迎えを。
実家に帰らずに自分がみんなを出迎えたいという本心をぐっと飲み込んで。
「ルーサラ兄さん。フィリエス兄さんのことなんだけど」
「ああ」
フィリエスの名が出た途端に表情が曇る。
「これでフィリエスは厳しい立場に立たされた。フィリエスは優秀で抜け目がない。羊の病気の兆候に気付かないなんて」
「有り得ないよね」
言葉を先回りするとルーサラは「調べてはいるが、不審な点が見当たらない」とため息を吐く。
「やはり抜け目のない男だ。こんなことをして私が、ノアールが喜ぶと思っているのか」
窓の外へ顔を向けて弟の失策を嘆く。
ノアールもまた俯いて座席に深く腰掛けた。
考えられることはただひとつ。
フィリエスはわざと兆候を見逃し損失を出した。
それが後継者問題に波紋を広げることになると承知で。
「なにを考えているのか」
浮かない顔でルーサラは呟く。
その声が悲痛な音を乗せていて、ノアールの胸をまた騒がせた。
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