第2話 頼み事


 フリザード魔法学園は海岸に突き出した切り立った断崖絶壁の上に建てられている。まるで海の上に浮かぶ島のようだといわれるのは陸続きからでは訪れる道が険しく、難しいからだ。

 学園はディアモンドの西の湾に弓形に張り出していて、シェルト湾を挟んで向こう側にも同じような形の岩の島があった。空の上から見たら王城を囲う豊かな街ディアモンドが頭で、両側から突き出た尖島は角のように見えるだろう。

 巨大な鍬形虫クワガタがじっと獲物を狙って潜んでいるかのようだと常々リディアは思っていた。

 そこには学園の研究塔がありフィライト国内で指折りの魔法使いと学者が日々研究をしている、いわばこの国の頭脳と技術の――。


「いた」


 生徒の教室は本校舎の横にひっそりと建てられている北校舎にある。屋根のある回廊で本校舎と繋がってはいるけれど、外側に壁が無いので吹き付ける潮風や天気の悪い時は勿論雨も降り込んでくるので厄介だ。


 リディアはその回廊を本校舎に向けて歩いていた。

 抱えた三冊の教科書はどれも分厚く重さはかなりの物である。題名は『魔法構築のための基礎と理念』『物理からみる科学と魔法』『属性と性質と応用実践』の三つ。


 どれも次の期末試験に出される科目だ。


「フィ――って、わ」


 廊下の向こうに見つけた人物へ声をかけようと身を乗り出した所にグラウンドで遊んでいた数人の男子生徒がじゃれ合いながら駆け込んできた。

 教科書を抱えた背の低いリディアの姿など彼らには見えていない。後ろから追いかけてくる友人を振り返りながら走って来た先頭の少年に突き飛ばされる形で壁に追いやられてしまう。


 理不尽だ。


 怨むべきは己の小ささか、それとも少年達の周りを配慮することができない子ども染みた性質か。

 いやきっとリディアがとても可憐で誰もが護りたいと思うような容姿なら目を惹き、壁に肩をしたたかぶつけるということは無かったはずだ。


 そう。

 ヘレーネのような美しい容姿ならば。


「……失礼すぎない?」


 頬を膨らませて謝罪も無く去って行く後ろ姿を睨んでいると「大丈夫?」と柔らかな声がかけられる。

 肩越しに見上げると苦笑したフィルがすぐ傍に立っていた。彼はリディアと同じように本校舎の方へと向かっていたから、わざわざ気付いて戻って来てくれたということになる。


「痛かったらアイスバーグ先生の所に行ったほうがいいけど」


 気遣うように向けられたぶつけた右肩への視線に大丈夫だと首を振って断る。これぐらいのことでいちいち保健室へと行っていてはアイスバーグも困るだろう。ただでさえ人気のある医者の元には女生徒が詰めかけ対応に追われている。


 男子生徒や下心の無い真面目な女子生徒から本当に必要な時に、病気でもない少女たちが沢山いて困るという苦情も出ているほどだ。


「これぐらい平気。でもよかった」

「よかった?」


 なにがだといいたげに薄い眉を寄せて首を傾げるフィルにリディアは慎重に頷いた。「フィルを探してたから」と告げると更に少年は怪訝そうな表情を浮かべる。


「あのね。お願いがあって」

「お願い?恐いなぁ」

「そんな難しいことじゃないから。フィルならきっと上手に教えてくれるし」

「上手に?教える内容によるけど、自信はないな。他の人には頼めないの?」


 フィルが一歩身構えて下がる。

 できれば自分ではなく別の誰かにお願いして欲しいと考えていることがありありと分かる態度にまたしても劣等感が湧きあがった。


 自分の会話術が人よりも劣っていることは重々承知しているけれど、まだなにもいってないのに聞く前から拒絶されているという事実はやはり情けない。セシルのように軽快で楽しい会話ができれば断る隙も与えず、巧みな話術で首肯させることもできただろう。


 本当になにもできないことが悔しい。


「ええっと。ごめん。一応内容聞いてから判断するから」


 相当変な顔をしていたのか、フィルが頬を掻きながら謝り先を促してきた。目が合うとやはり苦笑して「なに?」とお願いごとの内容を尋ねられる。


 彼は優しい。


 それはきっと過去の過ちを悔やみリディアを気遣っているから。

 罪滅ぼしをしようとどこかで考えているから。


 だからきっとフィルは自分の頼みや願いを、心底イヤでも断らないだろう。


「……やっぱりいいや」

「ちょっと、リディア」


 リディア本人が望まない償いをいくらされても虚しいだけだ。大きな失望に打ちのめされると腕の中の教科書の重みも倍に感じられた。恨めしい気持ちで三冊の本を見下ろし、フィルに背を向けて来た道を戻る。


 呼び止める声は聞こえていたけど今はそっとしておいて欲しい。


「リディア。待って」


 わざわざ回り込んで進行を妨げ、更にフィルは両手を突き出して懇願する。


「気分を悪くしたのなら謝るから。頼み事でもなんでも聞くよ。だから」

「……本当に?」

「うん。ほんと」


 元より他に頼めそうな人物をリディアは知らない。

 この件に関しては友人であるセシルには不向きで、ノアールに頼むにはちょっと面倒なことになりかねない。


 リディアは自分の身を護るためにノアールを除外した。

 だから他に頼めるのはフィルしかいない。


「えっとね。勉強を教えてもらいたくて」

「勉強?リディアはぼくが教える必要無いくらいできるじゃないか」


 驚いて丸められた灰紫色の瞳から逃れるように俯いた。


 三学期末のテストは一年の集大成であり、今までとは比べ物にならないぐらいに範囲が広い。しかも応用や引っかけ問題が多く、中には学んでいない高度な問題も出るらしい。

 今までは筆記の試験だけだったが今回は実技もある。

 暗記して詰め込めば点数がとれる程甘いテストではない。


「必要あるんだってば」


 毎回貼り出される順位表は三十番まで。リディアは大体二十前半に乗っているが前回の中間テストではぎりぎり二十八番だった。このままいくと期末テスト後に張り出される順位表にリディアの名前は無い。


 必死で勉強をして呪いを解くのだという目標を失ったからか、急速に勉学への興味を失いその結果学力が著しく低下している。理解力も想像力も追い付かず、焦りだけが募り思うように集中できない。


 考えられないのだ。


「わたしちっとも楽しくなくて。恐くて。ライカみたいに意味なんて無くていいんだって言えるぐらい前向きにもなれないし、セシルみたいに自由に生きることもやっぱりできないし。今のわたしは中途半端で自信持って生きていけない。今まで通り勉強するしか選べなくて」


 うまく言葉にできない。


 どうして正確に思いを伝えることができないのに言葉は存在するのだろうか。選べば選ぶほどそれは自分の言葉ではなく、想いとはちょっとずれていてもどかしい。


「勉強だけが全てじゃないよ」

「分かってる。分かってるけど」

「順位にこだわる必要も無いと思う」


 優しい、諭すような口調に自然と子どものようにむきになってしまう。幼い容姿でみんなに侮られ、それに感情的に応えてしまう自分はやはり子どもで。

 同じ年の子たちがみんな自分よりも落ち着いていてずっと大人に見える。


 いまはまだ背伸びをしても滑稽に映ると我慢して、いつかは伸びるだろうと信じている身長と、女性らしくなれとそれこそ呪いのように日々願う身体が成長するのは一体いつになるのだろう。


「ノアールに頼めなかったの?」


 やはり来るだろうと思っていた言葉にリディアは思い切り顔を顰めてしまった。

 三ヶ月前までは女子生徒として暮らしていたフィルになら理解できるだろうと思っていたが、やはり心は男だ。


 女の世界は狭く、そしてねちっこい。


「ノアールと一緒に居ると面倒なの」

「面倒?」

「そう。ノアールは女子に人気があるから」

「ああ。そっか」


 女の子は大変だなと呟いた声にリディアは頷く。

 詳しく説明しなくても分かってくれるところは有難い。

 頼めばノアールは勉強を教えてくれるはずだ。だがリディアにそれをしてしまうと他の女子生徒が我も我もと群がり、貴重なノアールの読書や勉強の時間を奪うことになる。


 それはちょっと申し訳ない。

 それぐらいの配慮はリディアにもできるし、想像もできる。


「だからフィルにしか頼めないの」


 見上げると困惑したフィルの瞳とぶつかった。

 最後にもう一度「お願い」と頼むと、フィルは空を仰いで大きく息を吐き出してから「分かった」と了承してくれた。


「でももう休み時間は終わりだから、三限目終わってから。図書塔で」

「うん」


 今度は並んで歩きながら北校舎へと向かう。

 一年生の教室は一階にあり二、三年生の教室は二階にある。

 最上階の三階に四年生の教室。階段の所でフィルと別れてリディアは悩みのひとつが解消されたことにほっと安堵して教室へと入った。

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