第六章 妹、初めての家出

 ルハルバの朝はいつも湯けむりの中で始まる。工房の煙突からも湯気が立ちのぼり、昨日の“空飛ぶたこ焼き騒動”が嘘のように静かな朝だった。……いや、静かすぎた。

「結望? おい、結望、起きてるか?」

 返事がない。布団は綺麗に畳まれている。部屋の隅に置かれていたスライム風船もいない。

「……まさか」

 嫌な予感が脳裏をよぎる。工房の中、台所、トイレ、裏庭……どこにも妹の姿がない。

 急いで近所の商店街を駆け回る。菓子屋の婆さん、魚屋の青年、湯屋の番頭、誰に訊いても、今日はまだ彼女を見ていないと言う。

 ポンジュを召喚し、空中スキャンモードに切り替えながら、心の奥にざわつくものがじわじわと広がっていた。

「ポンジュ、妹の気配、何かないか?」

「本日、結望様の魔力反応は、工房より東、第二市場付近にて最後に確認されました。しかし、現在は途絶えています」

「……まさか、本当に……家出、か」

 昨日の夜のことが思い返された。風呂上がりに、たまたま口にした言葉。

「そろそろ、スープ以外も作れるようにならないとな。工房の再建はまだまだこれからだ」

「……うん、結望もがんばらなきゃね」

 言葉では笑っていたが、彼女の視線は珍しくよそよそしかった。どこか、遠慮しているような、距離を測るような……。

 その正体が、今やっと分かった。

「……あいつ、自分が“足手まとい”だって思ってたんだな」

 妹にとっては、失敗しても笑ってくれる兄がいることが支えであり、同時に負い目だったのかもしれない。

「いや、そんなわけないだろ……!」

 手が震える。頭では理解していても、感情が追いつかない。今、何よりも怖いのは——この温泉街のどこかで、妹が一人、泣いているかもしれないことだった。

「ポンジュ、SNS魔導端末に協力を要請しろ。若者組、特に翼空と吏見に連絡を!」

「了解です。“妹捜索モード”を起動します。なお、この機能は感情データが高ぶると自動で悲壮BGMが流れますが——」

「切ってくれ! こっちは必死なんだ!」

 すぐさま通信用の魔導板に映し出されたのは、町の若者たちのグループチャット。“翼空・吏見と仲間たち”というふざけた名称の下、俺の一報に次々と反応が飛び交った。

『結望ちゃんが? 本気?』 『午前の配達ルート回ってみる!』 『水辺は危ないから俺が湖のほう見るわ』 『SNSに写真出して拡散したほうがよくない?』 『すでにやってる! #探せ結望』

 あいつら、頼りになるな……。

 そのときだった。ポンジュが急に震え、警告音を鳴らした。

「ご主人! 新たな魔力反応を検知! 北の森の手前、旧蒸気機関路付近です!」

「行くぞ!」

 濡れた地面を蹴り上げながら、俺はひた走った。工房の裏手を抜け、通学路にも使われていた小道を通り、竹林の先の切通しへ。雨が降り出していた。森の空気はひんやりしていて、汗ばんだ額に心地よい。

 そこで、ようやく、見つけた。

「結望っ!」

 ぽつんと佇んでいた彼女は、手に傘を差し、こちらを見上げていた。目は泣き腫らして赤く、それでも唇をきゅっと結び、叫んだ。

「お兄ちゃんなんか、来なくていいと思ったのに……!」

「バカ野郎……来るに決まってるだろ……!」

 肩を震わせながら駆け寄り、彼女を強く抱きしめた。傘が落ちて、雨が背中に叩きつける。それでも離す気になれなかった。

「だって……結望、いっつも失敗ばっかで……迷惑ばっかで……お兄ちゃん、大変そうで……」

「迷惑かけんなら、もっと派手にやれ。兄妹ってのは、そういうもんだろ。背負って、転んで、笑って、それでいいんだよ」

「……ほんとに?」

「ほんとだよ。結望がいないほうが、よっぽどしんどい。もう、二度とこんな目には遭わせんな」

「……うんっ」

 泣きながらも、小さな手がぎゅっと俺の服を掴んでくる。それだけで、心の底まで温かくなった気がした。

「さ、帰るか。工房の釜が泣いてるぞ。スープが煮えすぎてるって」

「えーっ、それまた爆発してるんじゃ……?」

「だったら、またふたりで掃除するだけだ」

 俺たちは、雨のなかを歩き出す。傘はすっかり意味を成していなかったけれど、背中にある小さなぬくもりと、手の中の確かな重さがあれば、それで十分だった。

 終

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