トランスルーセント

𝚊𝚒𝚗𝚊

ストロベリーソーダ

 国道沿いの広い歩道を進むとつたに覆われた壁が見えてくる。蔦の中に、古い木で作られた小さな扉があった。軋む扉を押して中に入る。黒く塗られた木の壁の、暗くて細い通路を進んだ。壁が途切れたところから部屋に入る。そこは古民家を改造したカフェバーになっていた。


 いつもの窓際が空いている。窓際のカウンターからは美しい中庭が見えた。柔らかそうな白詰草が地面を埋め尽くし、北側の壁を伝うモッコウバラが一斉に咲き乱れている。


 見たことのある女性がソファに座り、赤色のカクテルを飲んでいた。店の奥から近づいてきたオーナーの有一ゆういちさんにアイスラテを頼む。アップライトピアノの隣に置かれたスピーカーから、ザ・ストゥージズのサーチ・アンド・デストロイが流れていた。


 私の職場は今日から大型連休に入った。朝はいつもと同じ時間に起き、ゆっくりと支度をして午前中にこの店に着いた。晴れているので中庭に出られたら気持ちがいいだろう。外に置かれたテーブルと椅子は錆びついていて、黒い揚羽蝶だけが止まっていた。すぐにひらひらと飛んでいってしまう。


「今日は何が食べられますか?」


「ビスマルクがおいしいよ」


 アイスラテを届けてくれた有一さんにビスマルクも頼む。この店では毎日一種類だけ、気まぐれのメニューが用意されていた。たいていピザかパスタのことが多い。先にソファ席にピザが届く。今日ここに来たのは、午後からのピアノライブを聴くためだった。もうひとりの女性もそうだろうか。




 初めてこの店に来たときは、ピアノの持ち主の男性と一緒だった。私はそのときもアイスラテを頼んだ。彼は青色のカクテルを飲んでいた。私は十六歳になったばかりだった。それから八年が経とうとしている。


 黒い壁の切れ目からひとり、またひとりと人が入ってくる。私がピザを食べ終え皿が片付けられた頃には、全席が埋まっていた。全席といっても、十数名ほど。午前中からソファに座っていた女性は同席の女性と小さな声で話している。スピーカーから音楽が消え、店の奥から男性が出てきた。店内のあちらこちらから拍手が起こる。


 ピアノの持ち主の男性は自身が作曲した曲を弾いていく。たまに曲名を告げたり、話したりする。私はエスプレッソトニックを飲みながら聴いていた。静かな曲が多い。全員が、それぞれの飲みものを片手に聴き入っている。短い曲が十曲ほど。一時間くらいでピアノライブは終わった。




 隣の椅子に座っていたさとるが「よかったね」と話しかけてくる。


「うん。中盤に演った曲、新曲かな。ああいう感じの曲、とても好き」


 ひとつ年上の聡とは、この店で知り合って話すようになった。聡はブラウンのカクテルを手にしている。聡には気軽に曲の感想を言うけれど、ピアノの持ち主の男性には伝えたことがない。


「五曲目くらいの曲かな、俺もいいと思った。——次の一杯は、ごちそうさせてよ」


「ありがとう。ストロベリーソーダがいいな」


「ここのストロベリーリキュール、おいしいよね」


「うん。果肉が入っててとろとろしてる」


 少しの間、黙ってカクテルを飲んでいた聡が口を開いた。


「——実は俺、彼女と別れたんだ」


「えっ。……だから今日はひとりなの?」


「そう。結婚したいと思ってたからマジでショックが大きい」


「……彼女のほうから別れ話を?」


「うん。ほかに好きな男ができたんだって。俺は仕事でなかなか会えなかったけど、早く結婚したくてかんばってたつもりだった。——もう当分ひとりでいいわ」


「……そうだったんだね」


「こんな話してごめんな。恵里は、別れてから半年くらいになる? まだひとりがいいって感じ?」


「そうだね。誘われても断ってるよ」


「恵里の場合は、振ったんだよな。結婚を前提に同棲するのが嫌だったんだっけ?」


「うん」


「結婚ってそんなにしたくないものかな」


「人によると思うけど、まだ私たちの年代だったら早いんじゃないかな」


 本当は結婚に興味がない上に、嫌悪感を抱いていた。そんな私は、パートナーを見つけて仲良く過ごしてはいけないような気がする。前の彼氏と別れたときから、そう思うようになってしまった。


 聡の彼女は年上の二十八歳だったので、二人はこのまま結婚するものだと思っていた。同級生の女の子たちは何人か結婚していて、式にも二回出席したことがある。ほかの人たちが結婚することは素直に祝福できるのだけれど、自分の結婚の話となると憂鬱な気持ちになった。




 有一さんが二つのストロベリーソーダを運んできてくれる。聡も同じものをオーダーしていた。中庭はほとんど建物の陰になっている。仄暗い中庭で、白さを増す花たち。黒い揚羽蝶が二頭舞っている。先ほど飛び立った一頭が仲間を連れてきたのだろうか。








「元気にしてた?」


 いつの間にか現れたピアノの持ち主の男性から声をかけられた。今日も青いカクテルを手にしている。


「変わりないよ。お父さんは?」


「俺も変わらないよ。——元気ならよかった。母さんによろしく」


 そう言われても、伝えはしない。私が六歳のとき、アップライトピアノはあの家にあった。母は、別居している夫の話を二回しかしたことがない。







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