第36話

【西尾eyes】





 目の前にある光景を信じたくなかった。


 前触れも無く、宇津宮の眠るベッドの脇の椅子に座っていた俺の体は勢いよく宙を舞った。

 腹に有り得ない衝撃を受けてふっ飛ばされて、なんとか受け身をとって壁に激突してからリノリウムの床に転がり、痛む背中を庇いながら上半身を起こした俺の眼の前では瞬きする度に光景が変わっていく。

 まるでカメラがシャッターを切るたびに被写体が変わるように、俺の座っていた椅子が見る間に鉄と石油に姿を変えて床に飛び散っていく。

 カーテンは綿花に変わって、それから何かわからない粉になって解けた。


 さっきまでは暴走しているとは言っても安定していた宇津宮の能力。

 そうか、失念していた。

 『眠り姫』は眠りから覚めたらどうなる?

 俺には馴染みのない物語。

 幼い頃に慣れ親しまなかったせいで童話なんか俺は知らなかったから、英国支部の人間がなんでその物語を宇津宮の能力の喩えに使ったのかを考えもしなかった。

 確か、眠りについた姫の周りの時はその城と人間ごと止まったはず。

 目覚めのきっかけは確か王子様のキスだったよな?

 王子様とやらは襲い来る茨を掻き分けて姫に到達してキスしたらしい。

 英国支部長は確か、宇津宮が目覚める可能性があるなら物語に擬えてしまえばいいとかなんとか。そんなことは現実的ではないから聞き流してしまっていたけれど。

 何年もの眠りに落ちた宇津宮ひめに試練を超えて到達した王子様おれがキスをすれば目覚めさせることが出来るかもとか……。

 流石にまだ百年なんて経っていないが、数十年間の俺の行動を試練を超えたと宇津宮の中の“神の悪意”が捉えたなら。

 この状況はもしかして、もしかしてだが、俺が余計なことをしたせいか?

 これが状態ってことなのか?


「ハァ……ハッ……ハァッ…‥」


 息が切れて声が出ない。

 目には見えないが、撓る鞭のような蔓がさっきから俺を狙って飛んできている。

 間一髪、紙一重で避けてはいるが俺は攻撃型ではないし、一応元軍人とはいえ一般人に毛の生えた程度で体力にそこまで自信は無い。訓練だって受けたというより実地で学んだ方だ。

 “神の悪意”との接近戦を定期的に行っている角田や明石に比べて肉弾戦なんてほぼ未経験。

 この攻撃だっていつまで避け続けられるか…。


 宇津宮の能力は英国では“Time Break”って呼ばれてた。

 『眠り姫』は見た目から付けられた通称に過ぎない。

 文字通り時間を破壊する能力なら、この力でぶん殴られたら俺は文字通り赤子以前、胎児にまで戻りかねない。

 角田に応援を要請しようにも今ここを退けば次は無いと本能で理解している。


「く……そ……」


 また後方へ吹き飛ばされて体を強か打った。

 元、病院の廊下は今や完璧に姿を変えてしまっている。

 俺の吹き飛ばされた衝動で壁が崩れるくらいには脆くなった病院だった廊下はボコッ‥ボコッ…‥と隆起してうねりだしている。


─────ビュッ!


 現状把握の為に視線を逸らした僅かな隙をついて耳元で風が唸り、ガッと左から頬を張られた。

 首がもげそうな勢いで吹っ飛ばされて、ズシャッ!とリノリウムの床を滑ったとは思えない音を立てて地面を転がる。

 参った。

 この攻撃は俺の時間を破壊するつもりは無く、相殺する能力を潰す為に俺を殺そうとしてるようだ。

 これはもう宇津宮の意志は関係無い。

 もし、俺が殺されたら。

 助かった時の宇津宮は……。


「い……ってぇ……」


 俺の絶対回復は俺を回復する事は出来ない。

 今の衝撃で切った唇の端を手の甲でグッと拭って、膝に手を突いて何とか立ち上がる。

 死ぬことだけはダメだ。


 助けを呼びに戻るって手段を考えなかったわけじゃ無い。

 応援要請することだってなんども頭を過った。

 でもそれはこの場を一時的に退避する行為だ。

 弱虫な俺は真っ先に逃げる事を考えた。

 正直に言うなら、怖い。

 死ぬのは怖い。

 何度も見てきた死は怖い。

 自分がああなるなんて怖くて怖くて仕方がない。

 でも……‥


「ぅ……つ……み……」


 声すら出ない。

 あ~、カッコ悪っ。

 壁だった石くれを握り締めてから何とか一歩を踏み出す。


 宇津宮の能力が暴走したこの空間は、建物の原材料、置いてある備品、果ては空気。

 全てが時間をねじ曲げられて各々勝手な姿になってボコボコと変化を続けていく。


「……俺は、変わらないのか」


 なるほど、俺の中にある“神の悪意”の爪痕が変化を認めないから他の今を生きるものや今現在この世界にある物と違って変化は出来ないのか。

 逆に言うならBraver以外は皆この場に立てない。

 狂った進化を続けるこの場に立ったら、砕け散るより悲惨な末路が待っている。


「……ど……する……」


 俺と宇津宮の距離は約十米。

 触れたくても触れられない距離。

 しかも、石がパキパキッと音を立てながら眠ったままの宇津宮を絡め取って高みに持ち上げている。



───まるで磔られた神の子のよう。



 増殖する恐怖に足はとっくに笑ってる。

 逃げ出したくて堪らない。

 今直ぐにでも叫んで駆け出したい。

 でも……


「逃げられないよな」


 宇津宮を置いて一時退却なんて出来ない。

 好きな奴を置いて逃げるなんてダメだ。

 神に弓引いても俺は宇津宮を護るんだって決めたんだから。

 俺は未だ宇津宮に何も伝えていないんだ。

 このまま我が身可愛さに逃げて宇津宮の身にもしもの事が起こったら、俺はきっと生きてはいけない。


「絶対、逃げるな……」


 俺の声に呼応したように廊下がコンクリートの茨で覆われた。

 あぁ、これで逃げ場を失った。


 ガクガク震える膝をパンッて叩いて自らを奮い立たせる。


───昔、人間だった頃。


 俺の手にあった銃を見つめた時の感覚。

 人殺しの罪深さすら予想できなかった俺は、ただ、ただ怯えた。

 軟弱だと殴られるのが怖くて口にはしなかったけど。


 今の気持ちはあの時と似ている。


 逃げ出したくて仕方ない。

 怖い。

 怖くて怖くて。

 宇津宮を失うのが怖い。


「宇津宮っ!」


 無理を承知で駆け出した。

 俺は攻撃型じゃない。

 出入口が塞がれた状態じゃ逃げを打つ事はもう出来ない。

 そうしたら宇津宮を救えるのは俺しか居ない。

 俺の能力を全力で解放して宇津宮を包み込めば或いは。

 能力の底があるかはわからないが、俺が命全部を捨てる覚悟でぶつければ暴走している宇津宮の能力を一時的にでも無力化出来るかもしれない。

 そうしたら、あとは角田がなんとか差配するだろう。


 あぁでも、必死で伸ばした手が宇津宮に届く事は無いのかな?

 あの時は届いてしまったけど。

 届いてしまったからこそ、地獄へと突き落としてしまったけれど。


「う……つみぃぃいいい──!!!」


 一度でいいから腕に抱かせて。

 護りたい。

 暴走を治める事が出来ないのであれば、せめて俺も果てる。

 一人きりで逝かせたりしない。


 長めの黒髪がふるっと揺れた。

 磔にされたキリストのような体勢の宇津宮の紅色の口唇がピクリと揺れた気がした。


 俺は手を差し伸べたまま、グショッという音を遠くで聞いた。

 体から急激に力が抜けていく。

 指先からじゅんっと冷たくなっていく…‥

 尋常じゃない感覚に体を丸めて自分の状態を確認する。


────自分の腹を石の茨が貫いていた。


「か……は……」


 腹部を貫かれた衝撃で口から押し出された空気が漏れて、鉄臭さが口の中に広がった。

 もう一本、シュルシュルッて蛇みたいな音を立てて石で出来た茨の蔓が迫ってきてるのを目の端で捕らえた。


「はっ……ぅ……ッ…‥」


 避ける体力なんか残ってない。

 鋭い切っ先が薄い皮をプツッと貫いて、グリュッと棘を捻りながら奥に潜り込んでくる。

 声も出ない。

 痛みから叫ぼうとしても空気は喉で空回る。


 鳩尾に食い込んだ茨をなんとか両手で握って、グッ……グッ……と胎内に進もうとする動きに抵抗する。

 俺は殺されるわけにはいかない。


「……ぅ……つ……みぃ……」


 口から出た声はなんだか情けなかった。


ボトボトボトッ…………


 一本目の茨が引き抜かれたと同時に聞きたくもない音が鼓膜に響いた。

 血を失った体がクラリッと揺れた。





       『燃エロ!!!』


 物凄い爆発音がした。

 廊下を塞いでいた石の壁が吹き飛ばされた音だ。

 失いそうになる意識をなんとか繋いで、宇津宮の方に手を伸ばす。

 腹に残る二番目の茨はまだ俺の中を掻き回すみたいに力を込めてる。

  でも、急がなきゃ。


 泣きそうな顔をしたクオンちゃんがこっちに向かって走ってくるのを見ながら、ブチッ!と乱暴な音を聞いて俺の意識は途切れた。





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