タイムリープ・ミステイク(上)

Haruki

第1話「左脳女と右脳男」

 私には忘れられない記憶がいくつかある。自転車に揺られて幼稚園へ向かう幼い頃の記憶。ピアノの発表会で頭が真っ白になってしまったあの日の記憶。初めてのデートで待ち合わせをしているときの記憶。そして、夜の公園で絵を描く青年と出会った日の記憶。


 第一話  左脳女と右脳男


 私は典型的な左脳女だ。おばけなんて信じたことがないし、コンビニではいつも釣り銭の数が一番少なくなるように会計をする。音楽が好きだけれど、それは周囲で流行っているからそんな気になっているだけだと自分でも分かっている。へんてこな絵に何億もの価値が付く現代社会には狂っているとすら思う。だってそうじゃない? 誰かがこれは素晴らしい作品だ。って評価し始めた途端に世界中がありがたがるなんて、不思議な話だ。


 そんな私が、その日も理屈で一日を生きていた。天気予報の降水確率が30%だったから、折り畳み傘を持ち歩いて、電車の中では降水量と雲の動きのアプリを開いて確認して。予定が狂うのが嫌いなのだ。感情や偶然で振り回される人生なんて、まっぴらごめんだった。


 だから、そのとき自分でも驚いた。駅前の書店で買った新刊を手に家へ向かう途中、ふとした気まぐれで寄り道をしたくなったのだ。理由はなかった。いつも通る道を、ただ数メートルだけ左に逸れて、公園のベンチに座ってページを開いた。


 読み始めてすぐに、視界の端に動く人影が見えた。


 視線を上げると、芝生の先、街灯の下にひとりの青年がいた。キャンバスを立てて、その前にイーゼルを構え、何かを描いているようだった。こんな時間に? と、私は眉をひそめた。時間は夜の九時。公園には犬の散歩をする老夫婦と、ランニング中の男性が一人いるだけで、辺りは静かだった。


 でもその青年だけが、世界の時間から切り離されたみたいに、まるで昼間の続きを生きているように見えた。真剣な横顔。光に照らされた鉛筆の動き。彼の周囲だけが、なんだか静かに燃えているように感じられた。


 私はつい、読みかけの本を閉じてしまった。


 次の日も、私はその公園に足を運んでいた。


 「偶然」を二度繰り返すと、それはもう偶然じゃない。きっと自分の意思だ。私はそう思っているし、今日のこの足取りが、好奇心というより何かもっと別の感情に動かされていることにも、うすうす気づいていた。


 彼は、いた。


 昨日と同じ場所。街灯の下。風景もポーズも、まるで昨日の続きのようだった。私は気づかれないように、少し離れたベンチに腰を下ろした。ページを開いて本を読んでいるふりをしながら、横目で彼の姿を追った。


 白いシャツの袖をまくり上げ、首を少し傾けてキャンバスを見つめる。その眼差しはとても真剣で、どこか切実だった。まるで描くことが、彼にとって生きる理由そのものみたいに。


 「すみません、それ、何を描いているんですか?」


 自分でも信じられないくらい自然に、声が出ていた。


 彼は驚いた様子でこちらを向いた。黒い瞳がこちらを捉える。間近で見ると、思ったより若く見えた。たぶん、私と同じくらい。もしかすると、年下かもしれない。


 「……風景です」


 短く答えたあと、彼は少し間を置いてから、微笑んだ。


 「でも、今は思い出を描いてます」


 「思い出?」


 「そう。今ここにはない風景。だけど、確かにあったもの」


 私は彼のキャンバスを覗き込んだ。そこに描かれていたのは、今の公園とは違う景色だった。ベンチの位置も、街灯の数も違っていた。けれど、なぜか懐かしい気がした。


 その瞬間、風が吹いて、彼のシャツの裾がめくれた。チラリと見えた胸ポケットから、古びた懐中時計が覗いた。


 その針は、止まっていた。


 「……それ、壊れてるの?」


 彼は少し戸惑ってから、うなずいた。


 「うん。でも、大事な時計なんだ」


 「直せないの?」


 「直せるといいんだけど、今は……難しいかな」


 彼の視線が、遠くを見るように揺れていた。


 そのときはまだ知らなかった。既に彼がこの時代の人ではなかったこと。そして私自身が、彼の“思い出”の中にいたなんてことも。


 けれどその夜、私は確かに感じていた。彼と出会ったこの瞬間が、私の人生を少しずつ、でも確実に変えていくのだと──。

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