第15話 湯けむり狐と冬の秘密 前編
一
十二月も半ばを過ぎると、東京にも本格的な冬将軍が到来した。木枯らしが容赦なく吹き付け、日中でも気温が一桁という日が増えてくる。俺、安倍晴太が住むオンボロ木造アパート『月見荘』の冬は、それはもう過酷の一言に尽きた。すきま風はピューピューと入り放題、暖房をガンガンにつけても部屋はなかなか暖まらない。
そして何より辛いのが、風呂なし、というこのアパートの仕様だ。夏場はシャワーがなくてもなんとかなったが、この凍えるような季節に、温かい湯船に浸かれないというのは拷問に近い。唯一の救いは、歩いて数分の場所にある昔ながらの銭湯『鶴亀湯』の存在だった。熱い湯に肩まで浸かる瞬間は、まさに至福の時だ。
そんなわけで、俺は最近、ほぼ毎日のように鶴亀湯に通っていた。熱い湯で体の芯まで温まり、湯上がりにコーヒー牛乳を飲む。これが、俺のささやかな冬の楽しみとなっていた。
その日も、大学の講義とバイトを終えた俺は、冷え切った体を温めようと、日が暮れた頃に鶴亀湯の暖簾をくぐった。番台に座る、人の良さそうなおばちゃんに回数券を渡し、脱衣所へ向かおうとした時だった。
「あら、お兄ちゃん。こんばんは」
おばちゃんに呼び止められた。
「こんばんは」
「最近、毎日来てくれるねぇ。寒いもんねぇ」
「はい、ここのお風呂がないと、冬は越せませんよ」
他愛のない世間話。しかし、おばちゃんはふと思い出したように言った。
「そういえばさ、お兄ちゃんの隣に住んでる、あの綺麗な着物姿のお姉さん(※夏祭りの時の印象が強いらしい)、最近とんと見かけないけど、どうしたんだい? 風邪でも引いたのかねぇ?」
おばちゃんの言葉に、俺はハッとした。
言われてみれば、そうだ。隣の部屋の住人、狐宮九美さんの姿を、ここ一週間ほど、銭湯で全く見ていない。最後に鶴亀湯で見かけたのは、いつだっただろうか。そういえば、その時も「今日は一段と冷えるねぇ…」なんて言いながら、妙に寒そうにしていた気がする。
まさか、本当に風邪でも引いて、部屋で倒れていたりするんじゃ……? いや、あの人は妖狐だから、人間の風邪とは違うかもしれないけど……。
急に心配になってきた。
二
俺は、いつもより少し早めに銭湯から上がり、コーヒー牛乳もそこそこに、急いで月見荘へと戻った。冷たい夜風が、湯上がりで火照った体に染みる。
アパートの軋む階段を上り、202号室、九美さんの部屋のドアの前で立ち止まる。深呼吸を一つして、ドアをノックした。
コン、コン。
……反応がない。部屋の中に明かりはついているようだが、物音一つ聞こえない。
(やっぱり、具合が悪いのか……?)
不安が募る。もう一度、今度は少し強くノックする。
コン、コン、コン!
「……んぁ……?」
ようやく、中からくぐもった、そしていつにも増して力のない声が聞こえてきた。
「九美さん? 安倍ですけど、大丈夫ですか?」
「……はる、くん……? ……なんで……?」
声が、やけに近い。というか、ドアのすぐ向こうから聞こえる。ガチャリ、と鍵が開く音がして、ドアがゆっくりと開かれた。
そこに立っていたのは、九美さん……というより、何か別の生き物だった。
いや、人違いではないのだが、その姿は異様としか言いようがなかった。分厚いどてらのようなものを羽織り、毛布をマントのように巻き付け、ニット帽を目深にかぶり、マスクまでしている。そして、その下にはもこもこのルームソックス。まるで、雪山にでも行くかのような重装備だ。部屋の中は暖房が効いているはずなのに。
「……どしたの……? こんな、夜に……」
マスク越しで表情は窺えないが、声は明らかに弱々しい。
「いえ、最近銭湯で見かけないから、番台のおばちゃんも心配していて……。もしかして、具合でも悪いのかと……」
俺がそう言うと、九美さんはふるふると首を横に振った。
「……別に……元気……。ただ……」
「ただ?」
「…………さむいの」
消え入りそうな声で、彼女は呟いた。
三
「とりあえず、中、入って……。寒い……」
九美さんに促され、俺は部屋の中へと足を踏み入れた。部屋の中は、暖房と、そしてこたつの熱気でむわっとしていた。外の寒さが嘘のようだ。
しかし、当の九美さんは、俺を招き入れたかと思うと、一目散にこたつへと戻り、再びその中に完全に潜り込んでしまった。布団から頭だけを出し、ぐったりとしている。その顔色は、やはりあまり良くないように見えた。
「本当に大丈夫なんですか? 顔色、悪いですけど」
俺はこたつのそばに座り、心配になって尋ねた。
「んー……大丈夫……。ちょっと、冬は苦手なだけ……」
「苦手って……。でも、暖房もこたつもあるじゃないですか」
「それでも寒いの! 外なんて、絶対無理! 一歩も出たくない!」
まるで駄々をこねる子供のように、九美さんは布団の中でじたばたしている。その剣幕は、いつものからかうような態度とは違い、本気で寒がっているように見えた。
「でも、お風呂とか、どうしてるんですか? もう一週間くらい、銭湯行ってないでしょう?」
「…………気合」
「気合!?」
「気合と……あとは、キッチンの熱いお湯で……なんとか……」
(絶対嘘だ! 入ってないな、この人!)
生活能力皆無なのは知っていたが、まさか風呂まで気合で乗り切ろうとしているとは。これでは、本当に体調を崩してしまう。
俺は、ふと、夏の出来事を思い出していた。あの時、九美さんは猛暑でぐったりしていた。そして今度は、冬の寒さでこたつから出られない。
(もしかして、妖狐って、極端な温度変化に弱いのか……? それとも、変温動物みたいに、冬は活動が鈍るとか……? 冬眠……!?)
人間とは違う存在である彼女の、知られざる生態の一端に触れたような気がした。
「九美さん、そんなんじゃ体に毒ですよ! やっぱり、ちゃんと温かいお風呂に入らないと!」
俺は、なんとか彼女を説得しようと試みた。
「一緒に銭湯行きましょう! すぐそこですし、入っちゃえば天国ですよ!」
「やだぁ……」
しかし、九美さんは頑として首を縦に振らない。
「こたつから出たら、あたし、凍え死んじゃう……。むり……」
布団を頭まで被ってしまい、完全に防御態勢に入ってしまった。
「そんな大袈裟な……」
「大袈裟じゃないもん! はるくんは、この辛さが分からないんだぁ……!」
布団の中から、抗議の声が聞こえる。
「……ねぇ、はるくん……」
「はい?」
「はるくんが……あたしを、あっためて……?」
布団の隙間から、潤んだ瞳がこちらを覗いていた。
(……またそのパターンか!)
色仕掛け(?)で誤魔化そうとしているのかもしれないが、今回は状況が違う。これは、本気でなんとかしないとマズそうだ。
俺は困り果てた。この、完全武装こたつむり状態の妖狐さんを、どうやってあの天国(鶴亀湯)まで連れ出すか……。何か、良い方法はないだろうか。
俺は腕を組み、うーん、と唸りながら、目の前のこたつの山を睨みつけた。
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