第5話 隣の狐と大学の友人 前編
一
季節は秋に移ろい、あれだけ猛威を振るった夏の暑さもようやく和らいできた。大学の講義にもすっかり慣れ、俺、安倍晴太(あべ はるた)のキャンパスライフも、それなりに軌道に乗ってきたと言えるだろう。いや、まあ、隣に住む妖狐の美女、狐宮九美(きつねみや ここみ)さんに振り回される日常は相変わらずなのだが、それはそれ、これはこれだ。
大学では、いくつかの講義で顔を合わせるうちに、話をする友人もできた。その中心が、田中健介(たなか けんすけ)だ。同じ学部で、ノリが軽くてお調子者。良くも悪くも裏表がなく、誰にでも気さくに話しかけるタイプだ。正直、ちょっとデリカシーに欠けるところもあるけれど、まあ、悪い奴じゃない。
そしてもう一人、同じグループで課題に取り組むことが多いのが、鈴木美咲(すずき みさき)さん。明るくて、笑顔が可愛くて、それでいてしっかり者。……ぶっちゃけ、俺は彼女のことが少し、いや、かなり気になっている。もちろん、九美さんの存在は大きいけれど、同年代の女子に対する淡い憧れというか、そういう感情は別腹なのだ。ただ、悲しいかな、俺は女子と話すのがめちゃくちゃ苦手だった。特に、鈴木さんのような可愛い子を前にすると、頭が真っ白になって、しどろもどろになってしまう。
そんなある日の昼休み。食堂で田中と鈴木さんと三人で昼食をとっていた時のことだ。
「なあ晴太、お前んち、大学から近いんだっけ?」
唐突に田中が聞いてきた。
「え? ああ、うん。歩いて15分くらいかな」
「へえ、いいじゃん! 俺なんか電車で一時間だよ。なあなあ、今度遊びに行っていい?」
「えっ!?」
予想外の提案に、俺は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。月見荘に友達を呼ぶなんて、考えたこともなかった。あのオンボロアパートを、特に鈴木さんに見られるのは、正直言ってかなり恥ずかしい。
「いや、俺んち、その、すごく古いし、狭いし……」
「いいじゃんいいじゃん! なんかそういうボロアパートって、逆に秘密基地みたいで面白そうじゃん!」
田中は全く気にしていない様子だ。それどころか、目を輝かせている。
「私も、ちょっと興味あるかも。安倍くんの部屋」
隣から、鈴木さんが微笑みながら言う。か、可愛い……。いや、そうじゃなくて!
「え、あ、いや、鈴木さんまで……本当に、何も面白いものとかないですよ!?」
「いいのいいの! 大学の近くに友達の家があるって便利だしね! ね、今度の土曜とかどう?」
田中がぐいぐい話を進める。俺が躊躇していると、鈴木さんが「私も土曜日なら空いてるよ?」と追い打ちをかけてきた。
……断れるわけが、なかった。
(うわあああ……どうしよう……九美さんには、なんて言っておこう……)
俺の頭の中は、アパートの惨状と、隣に住むフリーダムすぎる美女(狐)のことでいっぱいだった。
二
そして、約束の土曜日。
俺は朝から落ち着かなかった。昨日のうちに、人生で一番というくらい念入りに部屋を掃除した。床を磨き、窓を拭き、なけなしの消臭スプレーを撒き散らす。それでも、染み付いた古畳の匂いはなかなか消えない。
最低限のお茶菓子とジュースも買ってきた。これで準備は……いや、一番の問題が残っている。
俺は意を決して、隣の202号室のドアをノックした。
「九美さーん、いますかー?」
「んぁ……はぁい……」
眠たそうな声と共に、ドアが開き、寝起きの九美さんが顔を出した。ゆるいキャミソール一枚という、いつにも増して危険な格好だ。豊かな胸元が強調されていて、目のやり場に困る。
「あの、今日、昼過ぎに大学の友達が来るんです。男一人と、女一人」
「へぇ……はるくんにも友達いたんだー……」
失礼なことを言いながら、大きなあくびをしている。まだ寝ぼけているようだ。
「それで、その、なるべく部屋にいてほしいというか……あまり、外に出てこないでほしいというか……」
しどろもどろに頼む。できれば、友人たちと九美さんを接触させたくない。理由は色々ありすぎる。
「ふーん? ま、いーけど。あたしもちょうど、溜まってた原稿やんなきゃだし」
意外にも、あっさりと了承してくれた。フリーのイラストレーター(ということになっている)の彼女は、時々こうして部屋に籠って仕事をしているらしい。
「あ、あと! もし万が一、顔を合わせることがあっても、変なこと言わないでくださいね! 特に俺とのこととか!」
「変なことって、なぁに?」
にやにやと意地の悪い笑みを浮かべる。この人は、俺が慌てるのを見て楽しんでいる節がある。
「とにかく! よろしくお願いします!」
俺は念を押して、自分の部屋に戻った。……大丈夫だろうか。一抹の、いや、かなりの不安が残る。
昼過ぎ、ピンポーン、と気の抜けたチャイムが鳴った。
来た。
深呼吸をして、ドアを開ける。
「よお、晴太! 邪魔するぜー!」
満面の笑みの田中と、その後ろで少し遠慮がちに微笑んでいる鈴木さんが立っていた。
「い、いらっしゃい……どうぞ……」
緊張で声が裏返る。
「うおっ! マジで年季入ってんな、このアパート!」
田中は遠慮なく外観をジロジロ見ながら、ギシギシ鳴る階段を上ってくる。
「すごい……なんか、映画に出てきそう」
鈴木さんも、興味深そうに辺りを見回している。恥ずかしいやら、なんやら。
部屋に入ると、田中は開口一番、「せまっ!」と言い放った。
「おい、田中、失礼だろ!」
「いやー、でも落ち着くな、こういう感じ。秘密基地感あるわー」
彼は勝手に部屋の中央にあぐらをかいた。鈴木さんは、「お邪魔します」と丁寧に言って、ちょこんと畳の上に正座した。……可愛い。
「あ、お茶淹れるね」
俺は慌ててキッチン(という名の流し)に向かう。
三
お茶とお菓子を出し、三人でテーブルを囲む。……のだが、俺は緊張でそれどころではなかった。鈴木さんがすぐ近くにいる。時折、彼女のシャンプーの良い香りがふわりと漂ってくる。それだけで、俺の思考は停止寸前だ。
「晴太んち、なんか独特の匂いするな。おばあちゃんち思い出すわ」
田中が、ポリポリとポテチを食べながら言う。それは多分、古畳とカビと、あと俺が撒きまくった消臭スプレーの匂いだ。
「そ、そうかな……はは」
乾いた笑いしか出てこない。
「安倍くん、一人暮らし、大変じゃない?」
鈴木さんが優しい声で聞いてくれた。
「えっ!? あ、う、うん、まあ、慣れてきた、かな……?」
ダメだ、言葉が出てこない。視線も合わせられない。
そんな俺の様子を見て、田中がニヤニヤし始めた。嫌な予感がする。
「おいおい晴太ぁ、顔真っ赤だぞー? そんなに鈴木さんのこと意識しちゃってまぁ」
「なっ、ななな、何を言うんだよ、田中!」
「図星だろー? さっきから全然目ぇ合わせられてねえし。声も裏返ってるし」
「そ、そんなことない!」
必死に否定するが、田中は面白がってさらに畳み掛けてくる。鈴木さんは、困ったように笑っているが、特に田中を止める気配はない。
「しかし晴太、お前、女子と話すの苦手すぎだろ。もしかして、今まで彼女とか、いたことないタイプ?」
「うっ……」
痛いところを突かれて、言葉に詰まる。
「図星かよ! ってことは、まさか……おい晴太、お前……」
田中が、ニヤニヤしながら顔を近づけてくる。
「まだ……さ……童貞、なんだろ?」
その言葉は、小さな部屋の中で妙に大きく響いた。
顔から火が出るかと思った。全身の血が沸騰するような感覚。悔しくて、情けなくて、穴があったら入りたい。いや、今すぐこの場から消え去りたい。
鈴木さんの顔が見られない。彼女はきっと、心の中で俺を笑っているに違いない。
「……っ」
何も言い返せない。俯いて、唇を噛み締めることしかできなかった。田中の得意げな顔が視界の端に入る。最悪だ。なんでこんなことになったんだ。
部屋の中に、気まずい沈黙が流れる。田中も、さすがに少しやりすぎたと思ったのか、バツが悪そうに口を噤んだ。
もう帰ってほしい。心からそう思った。
その、時だった。
廊下から、やけに陽気な、それでいて少し音程の外れた鼻歌が聞こえてきた。そして、ぺた、ぺた、という間延びしたスリッパの音。
その音は、どんどん俺の部屋の前に近づいてきて……。
コンコン、と軽いノックの後、ガチャリ、と勢いよくドアが開かれた。
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