第26話 震える子鹿、逃げ歩く――涙と鼻水と、それでも伝説
小さな勇気が、世界を動かす。
震える足取りこそが、物語の始まりだった。
春だった。
フロストの町にもようやく、氷を砕く陽光と、土の匂いを含んだ風が滑り込んできた。
路地裏に取り残された雪人形たちが、静かに、小さくなってゆく。
――だが、子爵邸の執務室の片隅。
毛布にくるまれたリオ・フロスト七歳にとっては、まだまだ「雪だるまシーズン」真っ只中だった。
いや、むしろ吹雪真っ最中+胃袋警報発令中である。
「ご、ごめんなさいっ、でもやっぱり無理かもですぅ……!」
リオ・フロスト、七歳。自称・小動物。
胃が先に逃げ出したくなるくらいに緊張していた。
これから“命がけの旅”に出なければならない――という現実が、彼の内臓とメンタルを同時に直撃していた。
「ほら、リオ。ハンカチ。鼻水ついてるわよ」
母セレナが、いつもの優しい笑顔でリオの顔を拭う。
そのハンカチは、洗濯係たちの間で“国家機密レベルの吸水布”と密かに称されている……というのは、完全な風評被害である。多分。
「ひうっ……ご、ごめんなさいぃ……」
涙と鼻水を拭われながら、リオは父ゼロスの方にそっと目を向ける。
鋼鉄よりも固く、山脈よりも沈黙をまとった男――なのに、今のその眼差しは、まるで生まれたての子鹿を見るような優しさだった。
「行け、リオ」
静かで、決して揺らがない声。
リオの肩が、ぴくん、と跳ねた。
「い、行くのは……行くのはいいんですけどぉ……こ、こ、怖いですぅぅ……!」
泣きそうな目で訴えるリオに、老執事マルカスがそっと膝をつき、目線を合わせる。
「恐れることは、貴族として――いえ、人として、何よりも尊い資質でございます」
「そ、そんなぁ……資質なんていりませんよぉぉ……! ぼく、ただ平穏に暮らしたいだけなんですぅぅ……!」
それは、魂からの叫びだった。
この場にいる全員が、思わず泣きそうになるほどに。
……それでも、少年は、逃げなかった。
逃げ腰で、泣いて、鼻水を垂らしながらも――その場に、踏みとどまっていた。
五歳の弟ケインが、じっと兄を見つめていた。
リオは視線に耐えられず、ぎゅっと毛布を握りしめる。
その小さな震えに、ケインの瞳からぽろりと涙が零れた。
「兄さま……いかないでぇ……」
――この一言が、リオの心をもっとも深く抉った。
「う、ううう……ぼ、ぼく……三回、三回だけ頑張ってみて、それでダメなら……そのときは、また考えますからぁぁ……!」
誰も責めなかった。
誰も急かさなかった。
それでも、少年は――そのときが来たのだ。
使用人たちが静かに並び、見送りの準備を進める。
侍女ティナが、そっとリオに鞄を手渡す。
中には――魔石盤、星導の針、乾燥スープ粉、展開布、応急薬、そして何故か「母の手書きレシピ」まで。
これはもはや、“逃亡というより自炊生活スタートセット”だった。
「リオ様。必ず……必ず、生きてお帰りくださいませ」
ティナの瞳に、かすかに光が宿る。
リオは「もう無理だ、いや絶対無理だ……」と心の中で千回くらい呟きながらも、こくりと頷いた。
「は、はい……ぼ、ぼく……ぜ、絶対に、しにたくないので……!」
自分で言ってて泣きそうになる。
でも、誰も笑わなかった。
父も母も、どこか誇らしげですらあった。
(……なんでみんな、こんなに期待してるの……?
ぼく、本当に、ほんとうに、ちっちゃい小動物なのにぃぃ……)
リオは、確信していた。
世界一期待されるべきでない存在に、世界一の期待が注がれている。
人間って――ほんとうに、怖い。
それでも。
リオは、ゆっくりと、震える足で、一歩を踏み出した。
門の前。
雪解けの土に、小さな足跡が刻まれる。
「リオ」
ゼロスが、最後に声をかける。
その声はもはや命令でも叱責でもなかった。ただ、祈りに似たものだった。
「世界が怖ければ、逃げろ。生きろ。……それが、おまえの戦い方だ」
リオは、涙をぬぐって鼻をすすりながら、ぐっと顔を上げる。
「ご、ごめんなさいっ……で、でも、がんばって逃げますっ……!」
その姿は、あまりにも頼りなくて、あまりにも弱々しくて――けれど、誰よりも強い“覚悟”だった。
そして。
……背中の鞄の中、地図の下――
誰にも気づかれず、小さな光が一瞬だけ瞬いた。
それが、“静かな奇跡”の始まりだったとも知らずに。
小さな背中が、帝都に向かって歩き出す。
涙ぐむ母。
拳を握る父。
見据える弟。
祈る執事たち。
――誰も知らなかった。
この瞬間、小さな子鹿のような少年が、帝都を揺るがす“嵐”となることを。
ほんの、「三歩だけ頑張ろう」と震えながら決めた、その足取りまでは。
門を出た直後。
ゼロスがふとポケットを探り、何かを取り出そうとした。
「リオ、これを……いや、違った。これは俺の朝食用だった」
差し出されたのは、香草を巻いた小さな黒パン。
「……なんで最後に渡すのが、冷めたパンなんですかぁ……!」
そうぼやきながらも、リオは黒パンを大事そうに鞄へしまい込んだ。
それでも、前に進む。逃げながらでも。
たとえ、セミが鳴いてびっくりして、三回転んだとしても。
今日のリオは――ちゃんと、歩いていた。
そのときのリオには、まだ知る由もなかった。
ただ「三歩だけ頑張ろう」と震えながら決めた足取りが――
のちに帝都の歴史を揺るがす分岐点になることを。
そして同時に、その背中を押す無数の祈りが、彼を決して倒れさせない盾となることを。
――これは一人の少年が、涙で始めた逃走譚。
やがて「伝説」と呼ばれるまでの、ほんの最初の一歩である。
そしてリオは小声でつぶやいた。
「……でもやっぱり、帰り道のこと考えたら胃が痛いですぅ……」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます