第4話 最初の銅貨

 市場の喧騒が今はただの騒音に聞こえる。水場は見つからず喉の渇きはじりじりと現実味を帯びてくる。

 それ以上に腹が空いていた。まずは仕事。どんな形でもいいから今日の糧を得なければ。


「何か手伝えることはありませんか?」「力仕事ならできます!」


 手当たり次第に声をかけてみるが返ってくるのは無関心な視線。あるいは「間に合ってるよ」という素っ気ない言葉だけ。

 見慣れぬ顔、貧しい身なりの若い娘に、そう易々と仕事など見つかるはずもない。焦りが募る。陽が高くなるにつれ、体力も奪われていく気がした。


 半ば諦め、市場の隅で人の流れを眺めていた時、威勢のいい女性の声が耳に入った。昨日もここで見かけた、野菜を山のように積んだ露店の女店主だ。荷運びの男に檄を飛ばしているが人手が足りていないように見える。


 ……これだ。最後の望みを託し、露店へ駆け寄った。


「あの! 何か運ぶものがあれば手伝わせてください! 引越しのバイト経験もあります!」


 食い気味に言うと女店主はこちらをじろりと一瞥した。値踏みするような鋭い視線。だが、すぐにカゴと少し離れた場所にある倉庫らしき建物を顎で示した。


「ちょうど良かった。そこの芋の詰まったカゴ、あそこの倉庫まで運んでほしいんだ。五往復。きっちりやれたら、これでどうだい?」


 差し出されたのは鈍く茶色に光る硬貨。昨日パンを買うのに使われていた銅貨だ。それが三枚。指先ほどの金属片だが、今の私には眩しく見えた。


「はい! やります! やらせてください!」


 即答し、一番手前にあった大きなカゴに手をかける。ずしり、と予想以上の重さが腕にかかった。麻袋に詰められた芋が、カゴから溢れんばかりだ。


 覚悟を決めて持ち上げ一歩を踏み出す。

 石畳は足元が悪く重さで身体がよろめく。カゴの縁が肩に食い込みと痛んだ。引越しのバイトとは勝手が違う。いや、あの頃より体力が落ちているのか……?

 額から汗が噴き出し背中を伝っていくのが分かる。呼吸がすぐに荒くなった。周囲の喧騒が、自分の荒い息遣いと、重い足音にかき消されていく。


 倉庫にたどり着くとカゴの中身を指示された場所に下ろす。そしてまた、空のカゴを持ち上げて店へと戻る。腕が震えている……たった一往復でこれだ。あと四往復……。

 気が遠くなりそうになるのを奥歯を噛み締めて堪えた。ここで倒れるわけにはいかない。


 二往復……三往復……。視界が少しずつ狭まっていくような感覚。ただ、足を前に出すことだけを考える。四往復目、カゴを下ろした瞬間、膝ががくりと折れそうになった。それでも、最後の力を振り絞って立ち上がり店へと戻る。


 そして最後のカゴを運び終え、よろよろと女店主の前へ行くと、彼女は「ふん」と鼻を鳴らしたが、約束通り銅貨を三枚、私の汗ばんだ手のひらに乗せた。


「ご苦労さん。見かけによらず、根性あるじゃないか。ほらよ」

「……ありがとう、ございます」


 かすれた声で礼を言う。手のひらに感じるざらりとした感触と確かな重み。これが……自分の力で、この世界で初めて稼いだ、お金……! 疲労困憊のはずなのに、胸の奥から小さな熱が込み上げてくるようだった。


 震える足で真っ直ぐにパン屋へ向かった。昨日と同じように店の隅に置かれた黒くて硬そうなパン。添えられた木札には「銅貨 二枚」と書いてあった。

 店主に声をかけて銅貨二枚を差し出すと無言でパンが一つ渡された。

 残りは銅貨一枚。それをポケットにしまい込み、パンを大事に抱えて市場の喧騒を離れる。人目につかない路地裏に腰を下ろし、壁に背をもたせかけると、どっと疲れが押し寄せてきた。


 それでも、まずは腹ごしらえ。買いたてのパンにかじりついた。


「硬い……」だが、噛みしめるほどに、わずかな甘みと、穀物の素朴な味が口の中に広がる。

 夢中で半分ほど食べると空だった胃が満たされ強張っていた身体から少しだけ力が抜けた。……生きている。何とか、今日一日を繋いだ。そんな気持ちだった。


 パンの残り半分を懐にしまい、息をつく。落ち着くと、別の現実が頭をもたげてきた。手のひらで、残った銅貨一枚を弄ぶ。今日、あれだけ必死に働いて、手にしたのは結局これだけ。

 思い出すのは、あの本の信じられないような『1,000』という数値。あれは銅貨で何枚分なんだろう……百枚? いや、もしかしたら千枚かもしれない。


 病院で老人の言っていた『茨の道』という言葉を思い出した。

 ポケットの中の、たった一枚の銅貨を強く握りしめる。でも、ゼロじゃない。今日、私は異国の地でこれを稼いだのだ。ならば、明日も、明後日も、稼げばいい。今はまだ、この一枚が果てしなく小さく思えても。


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