掌編:図書室、その午後。──彼はまだ気づいていない
静かな空間だった。
開け放たれた窓から微かに風が入り込み、紙の端を揺らす音だけが聞こえてくる。まるで誰かのささやきのように。ページをめくる音も、椅子を引く音も、この部屋ではすべてが控えめになる。音を立てることが、何か大切なものを壊してしまうような気がした。
隣の席。
有栖川華音が、ノートの端に落書きをしている。細くて、小さな猫の絵──本を読んでいる風にも見える、少し不格好なやつ。丸い頭に、ちょっとだけ垂れた耳。それが妙に愛らしい。
彼女の視線はページに落ちていて、俺の方は一切見ていない。長いまつげが頬に影を落とし、その表情は普段よりも柔らかい。誰にも見られていないと思っている時の、素の表情。
でも、俺は見ていた。
……いや、見てしまった、というのが正しい。
意図したわけじゃなかった。ただ、目の端に入っただけで、つい。
(それ、俺に見せたかったんだろうか)
そう考えて、すぐに首を横に振る。鼓動が、わずかに早くなるのを感じる。
違う。そうじゃない。
たぶん、あれは"誰にも見せたくなかった何か"なのだ。彼女の、誰にも明かさない部分。
なのに、俺は──目に入れてしまった。
そして、その意味を勝手に想像している。
不格好な猫。本を読む猫。
まるで、誰かを描いているかのような──
***
有栖川、という名前は知っていた。
席も隣。会話も、短いながら何度か交わしている。
「これ、どこに置けばいい?」
「……そっちでいいよ」
「今日の宿題、覚えてる?」
「国語と数学」
そんな、用件だけの会話。
皮肉も言われた。
それでも俺は、彼女を名前で呼んだことはない。
呼ぶ機会がなかったと言えば嘘になる。
たぶん、呼び方がわからなかっただけだ。
名字で呼ぶには距離が近すぎて、名前で呼ぶには遠すぎた。
そういう、やっかいな位置に、彼女はいた。
彼女の声は意外と柔らかい。皮肉めいた言葉を使うときも、その声だけは──どこか優しさを残している。
あの猫の絵は──たぶん、彼女自身だった。
言葉にできない思いを、あの線に変えていたのかもしれない。
不器用だけど、でも確かに──そこにいる。
少なくとも俺には、あの猫が何かを話しているように見えた。
「わかっても、言わないで」
そう言っている気がした。
その小さな懇願に、胸が少し痛んだ。
***
席を立つとき、彼女はノートをすっと閉じた。
別に、誰にも見せてませんよ、という顔で。
一瞬だけ、その指先が震えたように見えた。
俺は、それ以上何も言わなかった。
ただ、自分の本を閉じて、彼女より少し遅れて席を立った。
声をかけるべきだろうか。
「上手いな」とか「何描いてたの?」とか。
でも、そんな言葉は、喉の奥に引っかかったまま。
図書室を出るとき、彼女の背中は、少し遠くに見えた。
追いかけようとして、一歩だけ足を出して──また引っ込めた。
それだけの、午後だった。
でも、妙に心に残った。
窓から差し込んだ光の中、小さな猫の絵が微笑んだように見えた。
その瞬間だけ、図書室は別の世界に思えた。
俺は初めて見る景色を、そっとポケットにしまうように、記憶の奥に閉まった。
***
次の日も彼女は、図書室の同じ席にいた。
でも猫は描いていなかった。
(そりゃそうか)
見られたとわかって、もう一度同じことをするような人じゃない。
……たぶん、だけど。
彼女は窓際の席に座り、静かに本を読んでいる。
光を浴びた横顔が、絵画のように美しかった。
ただ、ひとつだけ思う。
彼女はあのとき、見られたことに気づいていた。
気づいたうえで、何も言わなかった。
だから俺も──何も言わないことにした。
それが、この距離感での礼儀だと思ったから。
"触れないこと"が、彼女に対する誠実さであってくれ。
そう、願うしかなかった。
けれど、あの猫の絵は、ずっと頭から離れなかった。
まるで、誰かが読書に没頭している姿のようで──
その人は、もしかしたら──
ノートの隅に描かれた小さな猫は、知らない誰かじゃなくて、俺自身だったのかもしれない。
でも、そんなはずはない。
彼はまだ、気づいていない。
***
【あとがき】
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
この掌編は、蒼司の視点から「彼なりの気づきと、気づかないふり」を描いた短いお話です。
本編の中では語られなかった、
図書室での“静かな交差”──
言葉ではなく、視線と沈黙で成り立つ関係性の一幕を、彼の心の中から切り取ってみました。
名前を知っていても、呼べないことがある。
関心があるからこそ、距離を取ることがある。
そんな、器用でも不器用でもない“彼らしい間合い”を、少しでも感じていただけたなら嬉しいです。
よろしければ、作品全体の感想やレビューなどで、
「あのとき、猫が語っていたこと」や
「あの距離の意味」について、皆さんの想像を教えていただけたら幸いです。
ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
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