第21話:悪友襲来、そして──

 午後の図書室風カフェは、思った以上に賑わっていた。


 教室の隅々まで、期待と興奮が満ちている。

 喧騒と笑い声が、空気をあたたかく染めていく。

 文化祭最終日の、特別な時間。


 忙しさの波がようやく落ち着きかけたタイミングで、俺は準備室の奥に引っ込んでいた。

 さっきまでの慌ただしさが嘘のように、今は静かな空間。

 一人きりの時間を、少しだけ堪能していた。


 朝からの緊張感が、ようやく緩んでいく。

 朗読劇のあと、一度も華音とは話せていない。

 あのとき、「よかった」と言っただけで、その後は──


(もう少し、だな)


 あと数時間で、文化祭は終わる。

 この空間も、あと少しで解体されてしまう。

 みんなで作り上げた、特別な世界が消えていく。


 そのことが、ほんの少しだけ、寂しく思えた。

 華音との時間も、このカフェのように、終わってしまうのだろうか──

 そんな漠然とした不安が、胸の奥をかすめる。


 カウンターからの声が聞こえてくる。

 女子たちの笑い声。客の歓声。

 それらが混ざり合う騒がしさの中で、俺はぼんやりと考え事をしていた。


 あと少し。

 もう少しで、この特別な時間は過ぎ去ってしまう。

 だからこそ、何か言葉を交わしておきたい。


 そう思っていた矢先だった。


***


 バンッ!


 勢いよく扉が開き、

 澪が血相を変えて飛び込んできた。

 その表情には、明らかな焦りが浮かんでいる。


「蒼司くん! 華音ちゃんが──なんか、すっごいでかい男にナンパされてる!」


 ……一瞬、理解が追いつかなかった。

 頭の中で、言葉がバラバラになって再構築される。

 「華音」と「男」と「ナンパ」。


 その言葉の組み合わせが、なぜだか胸に引っかかった。


「ホールの入り口、カフェのメニュー見てたらいきなり話しかけられたみたいで……! 華音ちゃん、困ってる感じだった!」


 澪の言葉に、いくつもの感情が一度に湧き上がる。

 困惑。戸惑い。そして、なぜか焦り。


 その瞬間、

 頭より先に、体が動いていた。

 理由を考える間もなく、立ち上がっていた。


 俺は何も言わずに立ち上がり、

 準備室の裏手から静かにホールを覗いた。

 心臓の鼓動が、わずかに早くなっている。


***


 いた。


 カフェのカウンター前、

 180センチを優に超える大男が、華音の前に立っていた。

 その大きな背中が、彼女を覆い隠すように立ちふさがっている。


 黒いパーカーに身を包み、腕を組んだその後ろ姿は──

 どう見ても、校内の人間ではない。

 明らかに部外者。それも、相当にヤバそうな雰囲気を漂わせている。


 華音は苦笑いを浮かべながら受け答えしていたが、

 微妙に距離を取っているのが分かった。

 いつもの彼女なら皮肉めいた言葉で切り返しそうなのに、

 今は社交辞令のような曖昧な笑みを浮かべている。


 周囲の女子たちも、警戒するように視線を送っていた。

 そのなかに、少し困ったような表情の澪もいる。

 教室全体が、微妙な緊張感に包まれていた。


 ……そして俺は、その背中を見て、確信した。

 見覚えのある体格。立ち方。頭の形。


(……お前か)


 思った以上に、感情が動いた。

 驚きと、安堵と、それから──何か言葉にならない感情。

 それらが入り混じって、胸の奥が熱くなる。


 でも、それは後回し。

 今は、まず目の前の状況を何とかしなければ。


***


 俺は、カウンターの脇に置かれていたお盆を手に取ると、

 迷いなく、足音を立てずに背後へと歩いた。

 動きに迷いはない。長年の経験から来る確かな感覚。


 近づき、距離を測り──

 最適な位置に立つ。


 ──フルスイングで、お盆をぶち当てた。


 ゴンッ、という鈍い音が響いた。

 まるで木の幹を叩いたような、固い音。


 ホールの空気が、瞬間、凍った。

 時間がストップしたかのような静寂。


 女子たちが小さく息を呑み、

 華音も、目を見開いて俺を見た。

 その表情には、驚きと困惑が入り混じっていた。


 大男はゆっくりと振り返る。

 肩越しに、じわりと顔が見えてくる。


 鋭い目つき。

 ごつい顔。

 その威圧感に、近くの子が「ひっ」と悲鳴を上げた。


 だが、俺は表情を変えない。

 いつものように無表情でいる。

 それが、この男との付き合い方だから。


 俺は無表情のまま、吐き捨てるように言った。


「……営業妨害はやめてもらえますかね」


 言葉には、かすかな棘がある。

 けれど、それは見栄だ。

 本当は、少し違う感情が混じっていた。


***


 次の瞬間。


 大男が口角をゆるめて、にやっと笑った。

 その表情は、俺にはあまりにも見慣れたものだった。


「……酷いな、親友に向かってお盆で殴るなんて」


 低い声。独特の口調。

 間違いない、あいつだ。


 華音が一瞬、驚いたように視線を泳がせた。

 彼女の瞳に、疑問符が浮かぶ。


 俺も表情を崩さずに、淡々と返した。


「馬鹿。お前は"悪友"だ。何回お前の喧嘩に巻き込まれたと思ってる」


 言いながら、どこか懐かしさも感じる。

 何度も同じやり取りを繰り返してきた相手。


 周囲にいた数名が、ようやく状況を理解し始める。

 緊張が解け、安堵のため息が聞こえてくる。


 澪がポカンとした顔で「あれ、知り合い……?」と呟いた。

 そのあけすけな反応に、少し恥ずかしくなる。


 鷹村陸──

 中学時代、俺が唯一、まともに喧嘩して、唯一、殴り合って、唯一、今でも連絡を取っている人間。


 高校は別々。

 でも、たまにこうして予告なしで現れる。

 まるで台風のように、突然現れてはこちらの平穏を掻き乱していく。


 迷惑なやつだと、心底思う。


 でも。


 その"迷惑"に、どこか救われてしまう自分もいる。

 彼がいなければ、中学時代の俺は、もっと孤独だった。


 陸は笑いながら肩をすくめた。


「お前、相変わらず堅苦しいな。久しぶりに会ったのに」


「予告なしに来るお前が悪い」


「いつもメールは無視するじゃねぇか」


 言い合いながらも、どこか安心感がある。

 こんな時間の流れ方が、懐かしい。


***


 騒然とした雰囲気のなか、

 陸は「悪ぃ悪ぃ、カフェの雰囲気壊したな」と軽く頭をかいた。

 その仕草すら、中学時代から変わっていない。


 蒼司と陸が並んで立っている光景に、

 周囲はまだざわめきを収められないまま。

 同級生たちは、俺のこんな一面を見たことがなかったから当然だ。


「えっと……蒼司くん、この人、友達なの?」


 澪が恐る恐る近づいてきた。その背後には他のクラスメイトたちもいる。


「ああ、中学の頃からの……」


「鷹村陸だ。悪いな、驚かせて」


 陸が自己紹介すると、周囲から小さな歓声があがった。


「わぁ、神谷くんのお友達だったんですね!」

「すごく怖かったよ~!」

「でも、なんだか格好いいですね」


 女子たちの囁きに、陸は照れくさそうに笑った。

 こいつ、モテるのだけは昔から変わらない。


「神谷、お前こんな雰囲気いいとこで働いてたんだな」

 

 陸は店内を見回しながら言った。

 

「相変わらず女子に囲まれてるし、中学の時と全然違うじゃねえか」


「うるさい」


 思わず頬が熱くなる。

 中学時代の俺を知る陸の言葉は、何倍も恥ずかしい。


「まあでも、こいつ今も作家やってるしな。そういうの得意なんだよ」


 陸はそれを、まるでどうでもいい情報のように、さらっと言った。


 一瞬、教室が静まり返った。


「え? え? 作家?」

「神谷くんが?」

「どういうこと?」


 クラスメイトたちがざわつき始める。

 その視線が一斉に俺に向けられ、身動きが取れなくなる。


「なあ、陸……」


 制止しようとしたが、もう遅かった。


「マジなの? 神谷くん!」


 澪が目を輝かせて近づいてきた。


「何書いてるの? どんな本? 見たことある?」


 質問の嵐。

 俺は曖昧に頭をかきながら、はっきりとは否定も肯定もしなかった。

 気まずさに押しつぶされそうになる。


「いや、そんな大したことじゃ……」


 声が小さくなる。

 こんな状況、想定外だった。


 周囲の視線の中、

 華音だけが何も言わず、じっと俺を見つめていた。

 その静かな目が、何より重かった。


 俺は思わず目を逸らす。

 彼女との視線が交わるのが、なぜか怖かった。


「すごーい! 私たちのクラスに作家さんがいたなんて!」

「どこで買えるの? 教えてよ!」

「ペンネームとか使ってるの?」


 次々と飛んでくる質問に、どう答えていいか分からない。

 このままでは逃げ出したくなる。


 陸は俺の様子を見て、少し笑った。


「そんなに騒ぐなよ。こいつ照れ屋だから」


 助け舟を出してくれたのは、皮肉にも陸だった。


「まあ、気になるなら自分で聞けばいいだろ。俺が余計なこと言うとまた殴られるし」


 陸の言葉に、周囲が少し落ち着いた。

 でも、好奇心の視線はまだ消えていない。


 澪がしぶしぶと引き下がったとき、

 華音が小さく口を開いた。


「……ふうん、だったら、次は私が"読んでみる"番ね」


 静かな声だったが、俺の耳にははっきりと届いた。

 その言葉に、思わず彼女を見る。


 華音の目には、小さな期待と、どこか挑戦的な光が宿っていた。

 その視線に、言葉が出てこなかった。


 陸は二人の様子を見て、にやりと笑った。


「おう、俺も腹減った。何か食わせてよ」


 陸の言葉で、再び教室に活気が戻る。


「はーい! 何がいいですか?」

「特製パフェもありますよ!」


 クラスメイトたちが陸の周りに集まっていく。

 一時的に、視線の重圧から解放された。


 でも、華音の言葉は、まだ耳に残っていた。

 "次は私が読んでみる番"


 その想像だけで、胸が熱くなる。

 誰かに、自分の書いたものを読んでほしいと、こんなに思ったことはなかった。


 文化祭の最後の日に、

 過去と現在が、

 思いがけない形でつながった瞬間だった。


 そして、俺はようやく気づいた。

 陸の来訪が意味するものを。

 "悪友"が現れたことで、もう一人の大切な存在が

 より鮮明に浮かび上がったのだと。


 文化祭の終わりが、

 何かの始まりを告げているような気がした。


***

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。


この話では、空気が一気に変わります。


でも、こういう異物がなければ、

ふたりの“今の温度”は気づけなかったかもしれない。


そして、嘘みたいに自然に届いた“あのセリフ”が──

最後のページをめくる鍵になります。


▼次回:

炎とダンス。そして、知らないふりの終わり。


→ 第22話「文化祭が終わる、その前に」


次回更新は──**〔水・土 20:00/日 12:00〕**予定です。

どうぞ、お楽しみに

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