第19話:夜の交差点、すれ違う鼓動

 文化祭、1日目の終わり。


 校内に流れるイベント終了のアナウンスは、

 まるで季節の変わり目を告げる風のようだった。

 夕暮れとともに通路を彩っていた熱気が、少しずつ冷めていく。


 教室の片付けに取りかかるクラスメイトたちの声が、

 どこか名残惜しそうに弾んでいた。

 昼間の喧騒とは違う、落ち着いた調べ。


 俺は、

 照明が落とされた図書室風カフェの隅に、ぼんやりと立っていた。

 誰もいなくなった空間に、ふいに取り残されたような感覚。


 テーブルの上には、

 使い古された本の山。

 それぞれが違う物語を抱えて、静かに眠っている。


 昼間、ここで交わした言葉たちの、

 かすかな残り香みたいなものが漂っていた。

 言葉は消えても、その痕跡だけは空気に溶け込んだまま。


(……これ、終わっちゃうのか)


 胸の奥に、

 小さな寂しさが、波紋のように広がった。

 この一日が、どこか特別だったと気づくのは、

 いつも終わりが近づいた時だ。


 午後の時間、華音と過ごした時間。

 あのクイズラリーで、ほんの少しだけ近づいた感覚。

 それが今、ひとつの記憶になろうとしている。


 俺は本の山に手を伸ばし、一冊を手に取った。

 昼間、華音が手に取っていた本だ。


「……物語は、どこで終わるんだろう」


 独り言のように、小さくつぶやく。

 誰もいない図書室風カフェに、声が静かに溶けていく。


***


「何してんの?」


 振り向くと、

 制服から私服に着替えた華音が立っていた。

 夕日に照らされた廊下の向こうから、影絵のようなシルエット。


 白いカーディガンを羽織ったその姿は、

 昼間より、少しだけ柔らかく見えた。

 まるで別の場所から来た人のように。


「ああ……ちょっと」


 気の利いた返事はできなかった。

 言葉が頭の中で渦を巻くだけで、うまく並ばない。


「片付け、終わったの?」


 華音の声には、いつもの刺がない。

 ごく自然な問いかけ。昼間の続きのような。


「ああ、もう大丈夫だ。お前は?」


「うん、終わった」


 短い会話。でも、その一言一言に、

 不思議と重みがあった。


 華音は少し俺に近づき、俺が手にしていた本に目を向けた。


「それ、さっき読んでたやつ?」


「ああ……お前が見てたから」


 思わず言葉が漏れる。

 なぜそれを覚えていたのか、自分でも説明できない。


 華音の表情に、かすかな驚きが浮かんだ。

 そして、ほんの少しだけ柔らかい笑みが。


「へえ……覚えてたんだ」


 その言葉には、照れくささと不思議さが混ざっていた。


「どんな話だったっけ?」


 俺は本のカバーを見て答える。


「えっと、海辺の街の……話だよ。別れと出会いの」


「ふうん」


 華音は何かを言いかけたが、言葉を飲み込んだ。

 そして、少し視線を逸らした。


「もう、帰るの?」


 彼女の問いには、何かの期待が込められているようにも聞こえた。

 でも、その意図を正確に読み取ることはできなかった。


「ああ、そろそろ」


 本を戻しながら答える。

 言葉の裏に隠れた気持ちを、うまく伝えられない。


「そっか……」


 華音の声が、少し遠くなったような気がした。


「あの、今日は──」


 言いかけたが、華音が先に口を開いた。


「私、先に行くね。お母さんから連絡来てるから」


 そう言って、彼女は軽く会釈をした。


 華音は、特に咎めるでもなく、

 俺の隣を通り過ぎ、昇降口の方へ歩いていった。

 その足音は、ほとんど聞こえないほど軽やかで。


 俺は、一瞬、声をかけようとした。


(……一緒に帰ろう)


 昼間の約束を、思い出す。

 「帰り、一緒にする?」

 あの時の言葉が、頭の中で繰り返される。


 でも。


 言葉が、

 喉の奥でひっかかった。

 砂を飲み込んだような、乾いた感覚。


 タイミングを逃した、そんな気がした。

 午後からの流れは、ここで途切れるのか。


 華音の背中が、

 少しずつ遠ざかっていく。

 廊下の影と光の境界線を、静かに越えていく。


 なのに、

 足が動かなかった。

 重いコンクリートに埋まったように。


(声をかければいいだけなのに)

(なんで、こんな単純なことが──)


 心と体が、離れていく感覚。

 自分自身に、いらだちを覚えた。


***


 それでも、

 意を決して、声を絞り出した。


「……あのさ、今日──」


 小さな声。

 届くか、届かないかの境界線。

 それでも、精一杯の音量だった。


 けれど、

 華音は振り向かなかった。


 そのまま、昇降口のドアを押し開け、

 夕暮れの空へと消えていった。

 扉の向こうに、オレンジ色の光が差し込む。


 俺は、

 しばらく、そのドアの向こうを見つめていた。

 もしかしたら、戻ってくるかもしれない、という淡い期待を抱きながら。


 何もない、ただの夕焼け空。

 戻らない時間。取り戻せない言葉。


 だけど、

 胸の奥が、ひどく空っぽだった。

 何かが抜け落ちたような、不思議な喪失感。


(声、届かなかったのかな──)


 そんな想いが、静かに沈んでいく。

 午後の温かさが、一瞬で冷めていくような。


 俺もようやく、その場を離れる決心をした。

 図書室風カフェの明かりを消し、静かにドアを閉める。

 今日という一日を、閉じるように。


 廊下を歩きながら、昼間の記憶が浮かんでは消える。

 クイズを解きながら、並んで歩いた時間。

 小さな発見と、共有した笑顔。


「楽しかったのに」


 誰にも聞こえないような声で、つぶやいた。

 そして気づく。

 今日はずっと、華音の隣にいて、心地よかったことに。


***


 夜風が、頬をなでる。


 校舎の窓には、

 まだいくつか明かりが残っていた。

 夜の闇に浮かぶ小さな灯台のように。


 文化祭の名残が、

 校舎全体を、温かく包んでいるみたいだった。

 だけど、その温もりが、どこかもの悲しく感じた。


 昇降口を抜けると、

 澪たちが遠くで手を振っているのが見えた。

 楽しそうに談笑する姿。


「おーい、蒼司! こっちこっち!」


 澪の明るい声が、夕暮れの空気を切り裂く。


「今日、お疲れー! すごく良かったよ、あのカフェ!」


 歩み寄りながら、澪が笑顔で言う。


「ああ……ありがとう」


 照れくさそうに答える。


「あれ? 有栖川さんは? さっきまで一緒だったよね?」


 澪の質問に、少し胸が痛む。


「ああ……もう帰ったよ」


「そっかぁ。残念。てっきり一緒に帰るかと思ってた」


 鋭い。澪は何も知らないはずなのに。


「なんで、そう思ったんだ?」


 思わず聞き返す。


「だって、今日ずっと一緒にいたじゃん。クイズラリーとか」


 そう言いながら、澪は意味ありげな笑みを浮かべた。


「あ、別に、その……」


 言い訳をしようとするが、言葉が出てこない。


「いいんだよ、別に。似合ってたよ、二人とも」


 澪の言葉に、思わず顔が熱くなる。


 俺も、手を振り返した。

 無理やり作った笑顔を、彼らには見せないように気をつけながら。


 その仕草に、

 少しだけ救われた気がした。

 完全な孤独ではないという、小さな確認。


「じゃあ、また明日!」


 澪たちと別れ、一人で帰路につく。


(言いたかったこと、たくさんあったのに)


 胸の奥で、

 まだくすぶっている想い。

 言葉にならなかった感情の残り火。


 昼間、一緒に歩いた道のりを思い出す。

 クイズに答えながら、ふと交わした視線。

 どこか心地よかった沈黙の時間。


 そして、午後の光に照らされた彼女の横顔。

 あの時、俺たちは確かに──


 駅に向かう道で、ふと立ち止まる。

 空を見上げると、

 最初の星が、ぽつりと輝き始めていた。

 ほんの少しだけ、目が潤んだ気がした。


 その瞬間、携帯が振動した。

 画面を見ると、知らない番号からのメッセージ。


『さっき、声かけられた? 気づかなくてごめん。明日も、来る?──有栖川』


 思わず、足を止める。

 胸の鼓動が、一瞬だけ跳ねた。


 夜空の下、

 一人佇む俺の顔に、

 小さな、でも確かな笑みが浮かんだ。


 届かなかった言葉は、

 形を変えて、

 また巡り会うことがある。


 俺はそれを、今、知った。


 メッセージを読み返す。

 何度も。

 そして、返信を打ち始めた。


『ああ、来るよ。明日も──』


 送信ボタンを押す指が、少しだけ震えていた。


 届かないまま終わったはずの言葉は、

 きっとまだ、

 どこかで呼吸している。


***


【あとがき】


最後まで読んでいただき、ありがとうございます。


この回では、ふたりの“すれ違い”がもう一歩、深まります。


でも、それは悲しみじゃなくて、

「本当に知りたいと思った」証でもある。


そのズレが、次の確かさへと繋がることを描きました。


▼次回:

朗読劇。そして、ふたりの“声”が重なる瞬間。


→ 第20話「朗読劇と、心を揺らす声」


次回更新は──**〔水・土 20:00/日 12:00〕**予定です。

どうぞ、お楽しみに

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