第15話:前日、伝えられなかった言葉
文化祭前日。
教室は、いつもより少しだけ、浮き足立っていた。
いつも以上の笑い声。いつも以上の足音。
空気そのものが、期待に震えているようだった。
リハーサル。
最終チェック。
必要なものの再確認。
誰もが忙しなく動き回り、誰もが明日への期待を抱いている。
澪の明るい声が、クラス全体を活気づけていく。
「明日は晴れるって!」
「衣装、忘れないでね!」
「カフェは九時からオープンだから!」
「神谷くん、これ手伝ってくれる?」
後ろから声がかかった。振り返ると、クラスメイトの女子が大きな段ボールを抱えていた。
「ああ、いいよ」
自然に手を伸ばして受け取る。こんなふうに誰かの役に立つことが、いつの間にか当たり前になっていた。
「ありがとう! 神谷くん、最近すごく頼りになるよね」
何気ない言葉だったけれど、どこか嬉しさを感じた。
「そんなことないよ……」
少し照れながら答える。
──すべてが、あわただしく進んでいく。
まるで時間の流れまでもが加速しているかのように。
そんな中で。
俺は、どこか心ここにあらずだった。
頭では作業を進めながらも、心はどこか遠くを漂っている。
手に持ったテープカッターの感触さえ、ぼんやりとしか感じられない。
クラスメイトの声も、どこか遠くから聞こえてくるようで。
ただひとつ、隣にいる人の気配だけが、妙に鮮明に感じられた。
「あの……神谷君」
振り返ると、有栖川華音が立っていた。
少し遠慮がちな表情で、紙を数枚手に持っている。
「なに?」
「これ、どこに置けばいいと思う?」
ポスターだった。明日配るチラシのサンプルだ。
「ああ、それなら……」
説明しながら、不意に彼女の近さを感じた。
いつもなら気にならない距離なのに、今日は妙に意識してしまう。
***
(……明日が来るのが、怖い)
ふと、そんなことを思った。
チラシを数えながら、無意識に頭をよぎる言葉。
これまでの日々が、いつもと違う時間だったことに、今さらながら気づいていた。
クラスに溶け込めたこと。
誰かと自然に言葉を交わせるようになったこと。
そして、何より──
この準備期間が、
この、曖昧な距離感が、
明日で終わってしまうかもしれない。
明日、文化祭が終われば、元の日常に戻る。
クラス全体の一体感も、特別な空気感も、消えていく。
そして……もしかしたら、あの距離感も。
そんな、根拠のない不安。
でも、どうしても拭えない予感。
「ねえ、神谷くん、明日の準備は大丈夫?」
澪が笑顔で近づいてきた。
「ああ、問題ない」
「そっか、華音ちゃんもそう言ってたよ。二人とも頼りになるね!」
澪の言葉に、どこか照れくさい気持ちになる。
「そうかな……」
「うん、本当に! あ、それより明日の朝、早く来れる?」
「何時?」
「七時ぐらいから……大丈夫?」
「ああ、問題ない」
「華音ちゃんも来るから、一緒に会場設営してほしいんだ」
その言葉に、少しだけ胸が高鳴った。
窓の外を見れば、空は少し曇っていた。
明日の天気を心配する声が聞こえる。
だが、俺が心配していたのは、それとは違うものだった。
それでも。
やるべきことは、山積みだった。
立ち止まっている暇はない。
俺は、手にしたリストを確認して、
指示された備品の場所へと向かう。
足取りは少し重かったけれど。
***
展示コーナーのリハーサル。
「こっちはこう配置して……」
「お客さんはここから入って……」
「説明はこんな感じで……」
クラス委員の指示のもと、みんなが動く。
スムーズに進む準備。無駄のない動き。
まるでみんなが一つの生き物のように。
当然のように、
俺と有栖川華音は、ペアになった。
もはや誰も不思議に思わない。
俺たちが一緒にいることが、自然なこととして受け入れられている。
いつの間にか、そうなっていた。
「あの、神谷君……」
華音の声は、周囲の喧騒の中でも、はっきりと聞こえた。
「なに?」
「このポスター、少し傾いてるわ」
俺は彼女が指さす方向を見た。確かに少し傾いている。
「直すよ」
「一緒に」
彼女の言葉に、少し驚く。
でも、それはごく自然な提案だった。
何も言わなくても、
互いに手を伸ばし、
貼り付ける位置を合わせる。
彼女が差し出す紙を受け取り、
俺が開けたスペースに彼女が貼る。
言葉なしで、息は合っていた。
「ありがとう」
彼女の小さな声。
「いや、俺こそ」
呼吸は、合っていた。
動きは、合っていた。
でも──
胸の奥が、妙にざわついていた。
ボードの裏側で、指先が震えそうになる。
普段通りを装いながら、心はどこか乱れていた。
(今、何か、言わなきゃ)
明日が来る前に。
この時間が終わる前に。
(ありがとう、でもいい)
(楽しかった、でもいい)
(何でもいいから──)
何かを伝えなければという焦燥感。
でも、何を言えばいいのか、わからない。
「ねえ……」
彼女が口を開いた。
「なに?」
「明日は……」
言葉が続かない。彼女も言葉を探している。
「ああ、明日は……」
俺も同じだった。
そこに立ち尽くし、ペンを握りしめる彼女の横顔を見ながら。
華音は、何を考えているのだろう。
俺と同じように、明日のことを考えているのだろうか。
「緊張する?」
ようやく彼女が言葉を紡いだ。
「少し」
正直に答える。
「私も……」
彼女もまた、正直だった。
そんなふうに思いながら。
結局、
言葉には、ならなかった。
本当に伝えたいことは。
本当は言いたかったのに。
だからといって、何を言えばよかったのだろう。
そうこうするうちに、リハーサルは終わり、
誰かが「よし、次!」と声をかけ、
流れは次へと移っていった。
***
休憩時間。
長い準備を終え、クラスメイトたちがそれぞれの場所で休んでいる。
明日の話題で持ちきりだ。
澪たちが、打ち上げの話題で盛り上がっている。
「カラオケ、絶対行こうね!」
「先生も誘おうよ!」
「記念写真、撮りたいな!」
「神谷くんも来るよね?」
澪が振り返って尋ねてきた。
「あ、ああ……多分」
「有栖川さんも一緒に!」
華音は少し困ったような表情を見せたが、小さく頷いた。
「……参加させていただくわ」
その言葉に、少しだけお嬢様らしさが漏れていた。
澪は気づいていないようだったが、俺は思わず微笑んでしまった。
「じゃあ決まりね!」
澪が去った後、
その輪から、少しだけ離れて。
俺と有栖川は、
隣り合って座っていた。
どちらからというわけでもなく、自然とそうなっていた。
まるで、そこにいることが当たり前のように。
「お菓子、食べる?」
華音が小さな袋を差し出した。
「ありがとう」
手を伸ばして一つ取る。
この何気ないやりとりが、今は特別に思えた。
言葉は、それ以上なかった。
お互い黙ったまま、飲み物を飲み、軽食を口にする。
でも。
その沈黙は、以前とは違っていた。
気まずい沈黙ではなく、何かを内に秘めた沈黙。
言葉を必要としない時間ではなく、言葉を探している時間。
時々、ちらりと視線が交わる。
そのたびに、すぐに逸らしてしまう。
お互い、
何かを言おうとして、
何も言えずにいることだけは、わかっていた。
そこに不思議な共感があった。
伝えられない思いを抱える者同士の、静かな連帯感。
太陽が少しずつ傾き始め、教室の窓からは夕方の光が差し込んでいた。
その光が、彼女の横顔を優しく照らしている。
時間は、少しずつ過ぎていく。
明日へと、確実に近づいていく。
***
夕方。
教室の片付けが終わり、
みんなが、ばらばらに帰り始める。
「明日は早いから、忘れ物しないでね!」
「朝七時集合だよー!」
「おやすみー!」
別れを告げる声が、教室中に響く。
この特別な一日の終わりと、次の特別な一日の始まりの間。
どこか名残惜しく、けれど期待に満ちた時間。
「神谷くん、これ忘れてるよ」
華音が、俺の机に残っていたペンを手に取った。
「あ……ありがとう」
受け取ろうとした指先が、わずかに触れる。
小さな電流が走ったような感覚。
俺も、荷物をまとめて立ち上がった。
教科書を入れて、ペンケースを閉じて。
いつもの動作なのに、どこか特別に感じられる。
「明日、来るの? 七時から」
思わず聞いていた。
「ええ、もちろん」
彼女は静かに答えた。
「じゃあ……明日」
「そうね……明日」
ふと、
出口の方を見た。
有栖川が、
鞄を肩にかけながら、こちらを見ていた。
一瞬だけ目が合う。
その瞳には、何かが宿っていた。
──何か、言いたげな顔で。
口を開きかけて、でも閉じる。
俺と同じように、彼女も言葉を探している。
俺も、
何かを言いかけた。
「あの……」
小さな声。空気の中に溶けていく言葉。
でも、
言葉にはできなかった。
続きが見つからなかった。
その代わりに。
言葉の代わりに。
俺は、
小さく手を振った。
精一杯の気持ちを込めて。
華音も、
少しだけ遅れて、手を振り返してくれた。
小さく、けれど確かに。
「またね」
誰が言ったのか、わからない小さな言葉。
それが、今日の俺たちに精一杯の表現だった。
それだけなのに、
胸の奥が、じんわりと熱くなった。
小さな炎が灯ったような感覚。
夕暮れの教室に立ち尽くす彼女の姿を記憶に刻みながら、
俺は廊下へと足を踏み出した。
伝えたかった。
でも、伝えられなかった。
それでも──
明日、もう一度だけ、頑張ろうと思った。
そして、もしかしたら、
伝えられなかった言葉を、
明日こそは、伝えられるかもしれないと。
帰り道の空には、明日を約束する夕焼けが広がっていた。
***
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
この話では、「伝えたかったのに、伝えられなかった」気持ちを描いています。
本音って、言葉にする瞬間が一番むずかしい。
だからこそ、その「言えなかった想い」が、ふたりの中に残っていく。
それもまた、ひとつの大切な記憶です。
▼次回:
文化祭、本番。
クラスがひとつになる中で、ふたりはどんな距離を取るのか。
→ 第16話「文化祭、開幕」
次回更新は──**〔水・土 20:00/日 12:00〕**予定です。
どうぞ、お楽しみに
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