第4話:知らないふりと、遠い気持ち
春の光は、まだ柔らかすぎるくらいだった。
窓から差し込む陽射しが、教室の床にステンドグラスのような断片模様を描く。
埃の舞う光の筋が、目に見えない時間の流れを可視化していた。
新学期も数日が経ち、教室の空気は、ほんの少しだけ馴染み始めている。
笑い声が増え、ぎこちなさが減った。
それぞれの立ち位置が、少しずつ決まり始めている。
磁石の鉄粉のように、似た者同士が引き寄せられていく。
けれど、俺はその輪のどこにも属していなかった。
──というか、属するつもりもなかった。
そう、それは最初から決めていたことだ。
孤独は選択であり、居心地の良い防具だった。
朝の教室では、昨日までなかった小さなグループが見える。
昼休みの約束や、放課後の予定を話し合っている。
制服の第一ボタンを外している奴もいれば、眠そうに机に突っ伏す奴もいる。
窓際では音楽部らしい集団が、週末のライブハウスの話で盛り上がっている。
その中の一人が、校則ギリギリの長さに染めた茶髪を掻き上げた。
席に着き、鞄を下ろす。
肩にかかる重みが、少しだけ解放される。
椅子に座る感触が、なぜか新鮮だった。
ちらりと前を見ると、華音──有栖川華音もまた、静かに座っている。
いつも通りの、真っ直ぐな背筋。
まるで、周囲の空気に溶け込むことを拒否しているような佇まい。
小さな銀のブローチが、制服の襟元でかすかに光っている。鳥かもしれない。
隣の席同士。
けれど、互いに、わざわざ声をかけることもない。
「おはよう」の挨拶もない。そんなのは、きっとお互いに面倒だと思っている。
言葉の代わりに、お互いを認識する小さな視線だけが交わされる。
窓の外では、青い空に薄い雲が流れていく。
なんだかんだで、季節は進んでいる。
校庭では、体育祭の準備をしている上級生の姿も見えた。
ホームルームが始まった。
机の上に置いてあった参考書をしまい、姿勢を正す。
周囲でも、椅子がきしむ音がした。
チャイムの余韻が消える前に、教室の扉が開く。
「今日から、簡単なグループ課題をやるぞー」
担任が明るい声で言うと、教室がざわめく。
「またか」という呟きと、「誰と組もう」という駆け引きが始まる。
高校生にとって、グループ分けは小さな運命の分かれ道だ。
周りを見ていると、友達グループに入れなかった生徒の表情が、微妙に曇るのが見えた。
廊下からは、部活の勧誘ポスターを貼りに来た先輩たちの姿も見える。
私立葵ヶ丘高校は、文武両道を掲げる学校だけあって、部活動も盛んだった。
座席表を持ち、担任が前を見回す。
そして、予想通りの指示が下った。
「隣同士で適当に組め!」
指示と同時に、微妙な間が生まれた。
皆、それぞれに周囲を伺い合う。
友達と一緒になりたい人は、席替えを狙う。
そうでない人は、運命に身を任せる。
俺の左隣の席は空いていて、右は華音だった。他に選択肢はない。
(……また、か)
(これで三回目か。偶然にしては多すぎるな)
(まるで何かの仕掛けがあるみたいだ)
俺は、隣に視線を向けた。
華音も、特に驚いた様子もなく、静かに立ち上がる。
まるで、これがいつもの儀式であるかのように。
カチカチと時計の針が動く音だけが、静かに響く。
背筋がぴんと伸びた彼女の横顔。
長いまつげと、引き締まった唇。
なぜか、そんな細部が目に入った。
制服の袖から覗く手首が、想像していたより華奢だった。
「よし、じゃあ──せっかくだし、盛り上げよう!」
その声は、澪──朝倉澪だった。
クラス委員長の彼女は、すでにクラスの中心になりつつあった。
ただの人気者ではなく、皆を巻き込む不思議な求心力を持っていた。
黒髪ショートカットの彼女が、ぱっと教室の中心に立つ。
その立ち姿には、自然と視線が集まる。
不思議な引力だ。
まるで、教室の空気が彼女を中心に渦を巻くように。
「隣同士、顔と名前、ちゃんと覚えよう!せっかく同じクラスになったんだし、仲良くしなきゃ損だよ!」
明るい声。
誰も傷つけないテンション。
それでいて、押し付けがましくもない。
「ノリが良くて頭も良い」という、高校生にとって最強の組み合わせ。
その瞬間、教室全体がふっと明るくなるのがわかった。
肩の力が抜け、みんなの表情がほぐれていく。
すごい才能だ。
あたかも濁った水に、一滴の透明な液体を落としたように、教室の雰囲気が一変する。
(……すげぇな)
(こういうの、どうやってできるんだろう)
(生まれつきなのか? 努力なのか?)
(こんな風に人を動かせる奴って、憧れる反面、少し怖くもある)
思わず心の中で呟いた。
誰も強制されていないのに、
誰も置いていかれていない。
そんな空気を、澪は自然に作ってしまう。
自分には絶対に無理だ。
人間関係の糸を操る術を、俺は知らない。
そう思いながら、隣に視線を移す。
その流れに乗るように、俺と華音も、自然とペアになる。
あからさまに嫌な顔をするわけでもなく、かといって嬉しそうでもなく。
絶妙な「普通」の表情で。
まるで、互いの表情を研究し合っているように。
「また、偶然だね」
華音が、少しだけ肩をすくめた。
冷たくはない口調。
かといって、親しげでもない。
まるで、カメラのピントを合わせるように、絶妙な距離感を保っている。
彼女の髪が、窓からの光を受けて、ほんの少しだけ輝いた。
墨を薄く溶かしたような黒髪に、春の陽光が反射して。
なぜか、そんなことに気がついてしまう自分がいた。
「それとも、運命だったりして?」
冗談とも、皮肉ともつかない口調。
でも、前よりも柔らかい。
まるで、長い冬を越えて少しずつ弾力を取り戻す土のような。
それとも、朝露が乾いていくときの、かすかな湿り気のような。
瞳の奥に、蜂蜜色の陽だまりのようなかすかな笑みが宿っているような気がした。
勘違いかもしれないけれど。
「大げさすぎるだろ」
俺は、肩をすくめて返す。
思ったよりも、言葉が自然に出てきた。
まるで、押さえつけていた何かが、少しずつ解放されていくように。
それだけの会話。
他愛もない、どうでもいい会話。
見知らぬ他人同士の、社交辞令にすぎない。
でも、その「どうでもよさ」の中に、妙な安心感があることに気づいた。
けれど、以前よりも、わずかに空気が和らいでいた。
お互いの間に流れる空気が、少しだけ変わってきている。
そのことに、二人とも気づいているような、いないような。
静かに進む、見えない変化。
華音はふっと視線を逸らし、ノートを広げた。
俺もそれに倣う。
薄いブルーのルーズリーフに、今日の課題を書き始める。
クラスのざわめきが、遠くで聞こえる波のよう。
それからは、課題に向き合う。
でも、どこか意識してしまう、隣の存在を。
まるで、地球と月が互いの引力圏にいるように。
***
作業は淡々と進んだ。
今回は「理想の文化祭」というテーマでのグループワーク。
五月の連休明けから準備が始まる行事だけに、早くもアイデア出しが始まっている。
私立葵ヶ丘高校の文化祭は、地域でも有名なイベントらしい。
「音楽フェスがいいよね」
「いや、謎解きとか」
「うちの学校、去年はお化け屋敷がすごかったらしいよ」
周囲のグループからは、にぎやかな意見が飛び交っている。
俺たちは、必要なことだけを話し、
それ以外は、無言のまま。
互いに干渉しすぎず、かといって完全に無視するわけでもなく。
まるで、遠く離れた二つの惑星が、お互いの重力を感じながらも、ぶつからないように軌道を保っている、そんな感じ。
「ここは、こうしたらどう?」
「……いいね」
短い言葉の交換。
でも、前よりもスムーズだ。
まるで、少しずつ互いの言語を学び始めているように。
華音の字は丁寧だった。
ノートの端には、またあの猫のイラスト。
今度は、本を読みながら紅茶を飲んでいる。
輪郭だけのシンプルな絵だけど、なぜか愛着が感じられる。
猫の表情が、どこか満足げに見えた。
なんだか、不思議と笑みがこぼれそうになる。
見つめていることに気づき、慌てて目を逸らした。
けれど、たまに交わす視線の中に、
ほんの少しだけ、温度が宿り始めていた。
前よりも、ほんの少しだけ、長く続く視線。
気のせいじゃない。そう思う。
まるで、長い冬の後に訪れる、最初の木の芽のような。
教室を満たす斜陽が、ゆっくりと別の色合いに染まりつつある。
時間は、静かに流れていた。
廊下からは、午後の掃除時間を告げるチャイムが聞こえてきた。
作業が終わると、澪が班の様子を見渡して、ふっと笑った。
彼女の笑顔は、いつも教室を明るくする。
太陽の光が雲間から差し込むような、そんな効果。
「ねえ、神谷くんと有栖川さん、やっぱ似てる気がする!」
唐突な一言に、俺と華音、同時に否定。
まるで、練習したかのように。
まるで、鏡に映った自分に反応するように。
「ない」「違う」
声がかぶり、教室に笑いが起きる。
その空気に乗せられて、華音も俺も、少し気まずそうに微笑む。
恥ずかしさと、どこかホッとした感覚が、不思議と混ざり合う。
初めて見る、彼女の自然な笑顔。
それは、制服の堅苦しさとは対照的な、柔らかな表情だった。
まるで雪解けの小川のような、そんな印象。
俺は、苦笑しながら心の中で呟いた。
(似てるわけ、ないだろ)
(そもそも、何を根拠に言ってるんだよ)
(見た目も、育ちも、何もかも違うのに)
だけど、澪の言葉は、どこか頭の片隅に残った。
似ている、か。
もしかして、俺たちは何か根本的なところで似ているのだろうか。
──けれど。
ほんのわずか、否定しきれない引っかかりが胸に残った。
もしかして、彼女と自分は、見た目や環境は違っても、
何か本質的なところで、似ているのかもしれない。
まるで異なる楽器なのに、同じ音階を奏でているような。
そんなことを考えながら、ふと華音を見ると、
彼女も同じように、考え込むように俺を見ていた。
瞳の奥に、何かを探るような光。
今度は、互いに視線を逸らさなかった。
ほんの一瞬、けれど確かに、目が合う。
その奥にある、何かを探るように。
まるで、互いの心の迷路に、そっと一歩足を踏み入れるように。
***
放課後。
教室から人影が減り、静かになってきた頃。
差し込む光が窓枠で揺れ、ほんのわずかに色彩を変えてゆく。
静かな場所を求めて、俺は図書室に向かった。
書を読むためというより、単に落ち着ける場所だから。
誰かに話しかけられる心配もない。
考えをまとめるには、最適の場所だった。
廊下を歩きながら、スマホを確認する。
陸からのメッセージに、今度こそ返信しておくべきだろう。
『ま、普通だよ。クラスメイトも普通』
短い言葉だけを送った。
学校の中心部からは、部活動の声が聞こえてきた。
バスケ部の練習の音、合唱部のハーモニー、どれも遠くから聞こえる。
どの部活も、新入生歓迎の準備で慌ただしいらしい。
図書室の扉を静かに開ける。
空調の音と、ページをめくる音だけが響く、静かな空間。
本の匂いに、少しだけ肩の力が抜ける。
切り取られた時間のような、そんな特別な空気感。
窓際の席。
午後の陽光が差し込む、一番明るい場所。
ちょうど、日が傾き始める頃の、優しい光に包まれた一角。
そこには、やっぱり華音がいた。
制服姿で、本を読んでいる。
ツインテールが、光を浴びて輝いている。
まるで、絵画の中の一場面のように、静謐で美しい。
気づいていないのか。
それとも、気づいているけれど知らないふりをしているのか。
どちらにしても、何も言わずに隣に座るのが、自然な流れだった。
俺は、そっと隣の席に座った。
互いに、何も言葉を交わさない。
でも、その沈黙は、どこか居心地が良かった。
言葉よりも雄弁な、静寂の対話。
ふと、目が合った。
彼女がページをめくる手が、一瞬だけ止まる。
時間が、ほんの少しだけ凍りついたような瞬間。
今度は、逸らさなかった。
どちらも。
まるで、無言の合意があったかのように。
互いに、ただ、視線を交わす。
そこには、何かが宿っていた。
言葉にできないような、けれどどこか温かい何か。
春の日差しのような、静かだけど確かな存在感。
華音の手元には、「月光の誓い」という表題の本。
俺が書いた、デビュー作。
そのことに気づいて、胸が小さく震えた。
まるで誰かが、心の奥深くにある弦を、そっと弾いたような感覚。
言葉はなかった。
けれど、空気は確かに変わっていた。
遠かった距離が、ほんの少しだけ近づいたような。
まるで、互いの惑星が、少しだけ軌道を変えたように。
彼女は、小さく微笑んだ。
これまで見たことのない、素直な表情。
制服の堅苦しさを脱ぎ捨てたような、素の笑顔。
俺も、そっと頷いた。
どこか照れくさくて、どこか嬉しい。
そんな複雑な感情が、胸の中でゆっくりと広がっていく。
知らないふりを続けるには、
もう少しだけ、遅すぎた。
そして、それは悪いことではないのかもしれない──
葉が芽吹くように、氷が解けるように、夜明けが訪れるように。
そんな自然な変化が、俺たちの間に静かに始まっていた。
***
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
今回は2話投稿しています。
AIアートhttps://kakuyomu.jp/my/news/16818622174322363509
▼次回:
校内がざわつき始めた文化祭準備。
少しずつ噛み合っていくやりとりと、
気づかないふりをしたまま、揺れてしまう想い。
→ 第5話「言葉にならない微熱」
次回更新は──**〔明日 12:00〕**2話更新予定です。
どうぞ、お楽しみに
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