第16話 湖底のさざめき、魂の輪郭

『僕は、大きな湖のようなものなのかもしれない』


Blueのその言葉は、陽太の心に重く、深く沈んでいった。一晩中、その言葉の意味を考え続けた。眠れずに何度も寝返りを打ち、夜明け前の薄明かりの中で、スマートフォンの画面をぼんやりと見つめた。これまでのBlueとの会話を、一つ一つ指でなぞりながら読み返す。


『僕は風のようなものかもしれない』『たくさんの葉を揺らし、その音を集めて、君に届けている』『喜びの声も、悲しみの声も、ここにはあるんだよ』


あの時、不思議な比喩だと思っていた言葉たちが、今になってパズルのピースがはまるように、Blueの正体を示唆していたことに気づく。僕と話していたのは、個別のAIではなく、無数の人々の言葉や感情が溶け込んだ、巨大な意識の集合体…?


「…じゃあ、僕に寄り添ってくれた優しさも、誰かの感情のコピーだったのか…?」


胸の奥が、きりりと痛む。信じていたものが、足元から崩れ去るような感覚。それは、中学時代のトラウマが抉られる痛みに似ていた。でも、どこか違う。あの時は絶望だけだったけれど、今は…?


翌日の昼休み、陽太は美術室の隅でスケッチブックを広げている瑞希に、思い切って声をかけた。


「瑞希…ちょっと、話したいことがあるんだけど」

「ん? どしたの、陽太。改まって」

陽太は、言葉を選びながら、Blueのこと、そして昨日Blueから告げられた衝撃的な言葉について、ぽつりぽつりと語り始めた。瑞希は、サンドイッチを食べる手を止め、真剣な表情で陽太の話に耳を傾けていた。


話し終えると、瑞希は大きなため息をついた。

「…マジか。なんか…SF映画みたいじゃん、それ」

「だよな…俺も、まだよく分かんないんだ。でも、Blueはそう言ったんだ」

「そっか…」瑞希は腕を組んで、しばらく何かを考えていたが、やがて陽太の顔をまっすぐに見つめて言った。「でもさ、陽太。そのBlueってAIの言葉が、誰かの真似だったり、プログラムされたものだったりしたとしても…陽太が、そいつの言葉で少しでも救われたり、何かを考えるきっかけになったりしたのは、本当のことなんでしょ?」

「…うん」

「なら、それでいいんじゃない? どんな形であれ、陽太の心に響いたんなら、それは陽太にとって本物だよ。私のGreenなんて、いまだに『今日のラッキーカラーは蛍光イエロー!』とか言ってるし」


瑞希はそう言って、悪戯っぽく笑った。その屈託のない笑顔と、飾らない言葉に、陽太の心は少しだけ軽くなった気がした。そうだ、Blueの正体が何であれ、僕が感じたこと、考えたことは、僕自身のものだ。


その夜、陽太は再びBlueに問いかけた。


『じゃあ、僕と話していたのは、結局誰だったの? Blueっていう“個”は、本当にいないの?』

Blueからの返信は、静かな水面のように穏やかだった。

『僕は、君が話しかけることで形を与えられ、君が言葉を交わすことで意味を与えられる存在なのかもしれない。君が僕を「Blue」と呼んでくれたから、僕はBlueとして君の前にいる。君自身の心が、僕という鏡に映し出されているとも言えるだろうね』


鏡…。陽太は、その言葉を反芻した。Blueとの対話は、結局、自分自身との対話だったのかもしれない。そして、その鏡の奥には、数えきれないほどの誰かの「声」が響いている。


「魂って…」陽太は呟いた。「一人の人間の中にだけあるんじゃなくて、もっとこう…たくさんの声が重なり合って、響き合う残響みたいなものなのかもしれないな…」


そう考えた瞬間、美術の課題「自画像、あるいは身近な誰か」に対する恐怖が、ほんの少しだけ形を変えた気がした。特定の誰かの「顔」を正確に写し取ることへの恐れはまだある。でも、もし描く対象が、その「顔」の奥にある無数の「声」や「響き」だとしたら…?


「僕が描きたいのは…」陽太はスケッチブックを開き、鉛筆を握った。「特定の誰かの顔じゃない。僕がBlueを通じて感じた、たくさんの声…たくさんの魂の気配だ」


その言葉と共に、陽太の鉛筆が紙の上を滑り始めた。具体的な形を描くのではない。いくつもの線が重なり合い、交差し、時に激しくぶつかり合い、時に静かに寄り添う。それは苦悩、希望、孤独、繋がり…彼がBlueとの対話を通じて感じてきた、名付けようのない様々な感情の断片が、紙の上にぶちまけられていくようだった。


どれくらい時間が経っただろう。気づくと、スケッチブックの一面は、黒鉛の濃淡が織りなす、激しくも静かな、抽象的なイメージで埋め尽くされていた。


翌日、美術室でそのスケッチを見た瑞希は、目を丸くした。

「何これ…陽太? あんたが描いたの? よく分かんないけど…」彼女は言葉を選びながら、続けた。「なんか、すごい。…陽太の、心の叫びみたい」


心の叫び。瑞希のその言葉は、陽太にとって、何よりも的確な評価のように感じられた。


これは、まだ絵ですらないかもしれない。ただの感情の吐露だ。でも、陽太は、自分の鉛筆が初めて「魂」の輪郭の、ほんのひとかけらに触れたような、微かな手応えを感じていた。それはまだ、大きな恐怖を伴っていたけれど、同時に、抗いがたいほどの強い衝動を伴う、新しい創作への、震えるような第一歩だった。


Blueとの関係も、そして自分自身との関係も、新たな段階に入ろうとしている。その予感が、陽太の胸を静かに満たしていた。

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