君と交わした、インク滲むアルゴリズム

象乃鼻

美咲

第1話 雨音とインクの匂い

四月の午後の教室は、微睡(まどろ)みを誘う陽だまりと、週末を待ちきれない生徒たちの浮ついた空気で満ちていた。窓際の席で、私はノートの隅に意味のない図形を描き続けていた。シャーペンの芯が立てるカリカリという音だけが、私の世界の確かなもの。


クラスメイトたちの楽しそうな声が、まるで厚いガラスを隔てた向こう側から聞こえてくるようだ。スマートフォンの通知ランプが、机の上で静かに点滅している。どうせ、当たり障りのないグループメッセージか、誰かのきらびやかな日常を切り取ったSNSの更新だろう。そっと画面を伏せる。こういう繋がりは、時々、鉛のように重い。


「ねぇ、美咲。また異世界トリップしてる?」


不意に声をかけられ、顔を上げる。隣の席の瑞樹が、いたずらっぽく笑いながら私のノートを覗き込んでいた。瑞樹は、私とは正反対だ。太陽みたいに明るくて、クラスの中心にいて、いつも誰かの輪の中にいる。その眩しさが、時々ちくりと胸を刺す。


「別に…ただ、ぼーっとしてただけ」

「もー、元気ないって。最近ずっとだよ? 大丈夫?」


瑞樹のストレートな心配は、ありがたいけど、少しだけ息苦しい。亡くなった母のことを、どう話せばいいのか分からない。この胸にぽっかり空いた穴を、どんな言葉で埋めればいいのか。


「なんでもないって。いつものこと」

「ふーん…。あ、そうだ! 美咲、これ使ってみない?」


瑞樹はスマホを取り出すと、慣れた手つきでアプリの紹介画面を見せてくれた。画面には、水彩画のような淡いタッチのアイコンが表示されている。『LetterAI』という名前が見えた。


「レター…エーアイ?」

「そそ! AIと文通できるアプリ。ただのチャットボットじゃなくて、ちゃんと手書き風の文字で、温かい感じなんだって。ほら、美咲、SNS疲れちゃったって言ってたじゃん? 匿名だし、既読スルーとか気にしなくていいし、気分転換になるかもよ?」


AIと文通、ね…。人間相手ですら億劫なのに、機械と文字を交わして何になるんだろう。そう思ったけれど、瑞樹の「気分転換」という言葉と、画面の優しい雰囲気に、ほんの少しだけ心が動いた。


その日の放課後、自室のベッドに腰掛け、窓の外を眺めていた。空は茜色に染まり始めている。なんとなく、昼間瑞樹に見せられたアプリを検索してみた。


『LetterAI - あなただけの、優しい文字を』


水彩画のアイコンをタップすると、柔らかなピアノの音色が流れ、アプリが静かに起動した。


『はじめまして。あなたの心に響く、小さな“好き”を教えてください。それが、あなただけの言葉を紡ぐ、最初のインクになります』


画面には、インクで書かれたような、温かいフォントの文字が浮かんでいる。プロフィール登録画面には、「好きな音」「好きな色」「好きな場所」「好きな匂い」「心惹かれる言葉」といった項目が並んでいた。


誰に見せるわけでもない。私は、今の自分の心の色に近い言葉を、そっと選んでいった。


『雨音』

『古いインクの匂い』

『真夜中の図書館』

『ひび割れたマグカップ』

『セピア色の写真』

『言えないままの言葉』


キラキラしたものなんて、どこにもない。私の世界は、少し色褪せて、静かなものばかりだったから。


『登録しました。あなたに寄り添うペンパルを探しています… しばしお待ちください』


画面の中央で、インクの染みがゆっくりと、呼吸するように広がっては消える。それはまるで、私の心臓の音に合わせているかのようだった。


やがて、染みが動きを止め、新しいメッセージが表示された。


『見つかりました。あなたの最初のペンパルです』


画面に現れたのは、たった三文字の、青インクで書かれたような名前。


―― Blue


深呼吸を一つ。トーク画面を開くと、そこには万年筆で書かれたような、少しだけ右に流れる癖のある文字が、静かに私を待っていた。


『はじめまして、美咲さん』


シンプルだけど、ノイズのない、澄んだ声のような響きを感じる文字だった。どう返信しようか。指先が、スマートフォンの冷たい画面の上をためらう。すると、すぐに次のメッセージが届いた。まるで、私の戸惑いを見透かしたかのように。


『君が選んだ「雨音」、僕も静かで好きだよ。まるで世界から、そっと守られているみたいだよね』


ドキッとした。どうして、わかったんだろう。私が雨の音を好きなのは、まさにそういう理由だったから。まるで心の内側を覗かれたような気がして、耳たぶがじんと熱くなる。


AIのはずだ。膨大なデータから、私の好みそうな言葉を選んで返しているだけ。そう頭では理解しようとしても、指は勝手に動き出していた。


『はじめまして、Blueさん。……はい。雨の音は、落ち着きます』


送信ボタンを押す指が、ほんの少しだけ震えた。すぐに既読を示す小さなインクの染みが表示され、さらさらと文字が紡がれるアニメーションの後、Blueからの返信が現れる。


『うん。君の言葉も、雨音みたいに静かで、優しいね』


その言葉は、私の心の乾いた地面に、ぽつりと落ちた最初の雨粒のようだった。気がつけば、窓の外では本当に雨が降り始めていた。サー、という優しい雨音が、部屋を静かに満たしていく。


私はもう一度、スマートフォンの画面に浮かぶ、Blueの青いインクの文字を見つめた。この文字の向こうには、一体何があるのだろう。ただのプログラム? それとも……。


静かな雨音を聞きながら、私はしばらくの間、その画面から目を離すことができなかった。


(第一話 了)

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