プロローグ「壊れた世界」

 世界は、とうの昔に、綻び始めていた。

 それは最初、誰もが目を疑う光景だったという。空の一点に穿たれた、黒い亀裂。そこから、得体の知れない存在が流れ込んできた。のちに人々は、それを“次元の裂け目ゲート”と呼ぶようになった。

 ゲートの発生とともに現れる異形の怪物たち。銃弾も効かず、物理法則を超越する彼らに、人類はあっさりと蹂躙された。けれど――ただ絶滅する様を指をくわえてみていたわけではない。

 人間のなかにも、ほんのわずかに“変異”する者たちが現れたのだ。常識を超えた力を宿す者たち。彼らは“覚醒者”と呼ばれ、国家規模で保護され、やがて異形種と戦う組織、「覚醒庁A.G.O.」が設立される。覚醒者たちは、人類の希望だった。

 ……ただし、それは“強い者”に限った話だ。


◇ ◇ ◇


 天城蓮アマギ・レンは、夜の工業地帯に立っていた。

 灰色のコンクリートに囲まれた無人地帯。湿った風が吹き抜ける中、防護服に身を包んだ探索部隊が、“それ”の出現を待ち構えている。

「対象ゲート、クラスC。予測出現まで30秒」

 無線が鳴る。レンは答えず、静かに呼吸を整えた。

 19歳。覚醒者、Eランク。誰にも期待されず、誰にも頼られない、最底辺の探索員。レンは、ゆっくりとナイフを抜いた。自らの覚醒能力――ただし、戦闘に役立つようなものではない――に頼ることなく、己の腕ひとつで生き延びてきた。

(今日も、同じだ。誰にも期待されず――ただ、命を繋ぐだけ)

 ゲートが開く。

 空間が裂ける音と共に、赤黒い異形が姿を現す。

 フェンリルドッグ。狼にも似た獣型異形種。その咆哮が、夜の工業地帯にこだました。

「来るぞ!」

 誰かが叫ぶ。すかさず銃撃音が鳴り響き、弾丸の雨が降り注ぐ。

 異形たちは、なおも突進を止めない。レンもまた、ナイフを握り締め、走り出した。──死を、覚悟して。

 群れの一体が跳びかかってくると、レンはわずかに身をかわし、ナイフを振るう。

 一撃。喉笛を裂く。しかし――

「――っ!」

 死角から飛び出した別の個体が、容赦なくレンの腹部を抉った。

 衝撃。鋭い痛み。血が噴き出す。意識が、急速に遠ざかっていく。

(……これで、終わりか)

 身体が倒れ、地面に叩きつけられる。音も、光も、遠ざかっていく。意識の底で、レンは、絶望と諦めに沈もうとしていた。誰にも認められず、誰にも必要とされず、ただ死ぬだけの人生。それが、天城蓮の結末だと思った。

 ――だが。闇の中に、“何か”が差し込んできた。

 熱い。黒く、重く、燃えるような光。それは、死にゆくレンの存在を――否定した。

(――まだ、だ。まだ、終われない)

 その瞬間。死に瀕したレンの肉体が、異形種の“スキル因子”を吸収し始めた。

 フェンリルドッグ、獣型異形種。その特徴、能力、“加速”するための筋肉構造……すべてが、黒い稲妻となって、レンの身体に流れ込んでくる。

 細胞が悲鳴を上げる。骨が、筋肉が、神経が、狂ったように再構築される。

《デス・リブート》

 死を代償に、敵の力を喰らい、進化する異能。

 レンの心臓が、ふたたび脈打つ。生へのリブートが、完了した。


◇ ◇ ◇


 目を開く。視界はまだ霞んでいたが、五感は異常なほど鋭敏だった。異形たちの息遣い、足音、毛皮の擦れる音。すべてが、まるでスローモーションのように、手に取るようにわかる。

 ──【加速】スキル、模倣完了。

 レンは、ナイフを握り直す。そして、地を蹴った。跳びかかってきた異形の懐に、一瞬で潜り込み──刃を、突き立てる。

 フェンリルドッグの群れは、瞬く間に沈黙した。

 静寂。夜の工業地帯に、ただ血の匂いだけが漂っていた。

 レンは、静かに息をつく。

(──俺は、変わった)

 かすれた意識のなか、たしかに、そう感じた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る