<22・ザンコク。>
蓮花――元は蓮という名前だった少年は、自分が大嫌いだった。
そして同じだけ、世界のすべてが嫌いだった。その起源が父だ。もう二度と賭け事はしないなどと言いながら、結局酒と賭け事に溺れて借金をつくりまくり、そのたび借金取りに追われて何度家を捨てる羽目になったやら。
自分に何度約束をしても平然と破り、いい加減にしてくれと責め立てれば逆ギレして殴られることもあったほどだ。
売り飛ばされた先、遊郭の先輩女郎たちは最初は優しくしてくれる者も多かったが、同じだけ妬まれ罵倒されることも少なくなかった。当然と言えば当然だろう。何で、男の身でありながらこの店の置かれるのか。それだけで汚らわしいとも言われたし、男なのに女装して客を取らされて不憫な者だとも何度も言われた。悪意に晒されることは年を重ねて出世し、男でありながら花魁にまで上り詰めた果てにはますます増えていったものである。同じだけ、欲望に晒されることも。
『美しいのう、蓮』
自分に見惚れる者は皆、べたべたと肌を触りながら嘗め回すような視線を向けてくる。
『憎らしや、蓮!お前のような者が何故、何故我が店の頂点にあるのか!』
そうでない者は、ただ只管憎悪を向けてくる始末。蓮の周りには、己を溺愛する者と憎む者しかいなかった。優しかった遊女たちの多くも、蓮が本当に花魁の座まで登ったと見るやいなや掌を返した。男のくせに女装して、男の客を取るなどなんとも気持ち悪い――まったくその通りである。蓮本人が、一番そのように思っているのだから間違いない。
世界は狂ったまま巡り、同じだけ歪んだまま凍り付く。
女のようにふくよかで柔らかい胸も尻もないというのに、子供のように細いばかりで肉付きの悪いこの体をいいなどという変態もいる。せめて世の男性諸君のように変声期らしい変声期が来て、野太い声にでも変わればお役ごめんになれたかもしれないのに、悲しいことにそれさえも忘れ去られてしまったかのような有様だった。あるいは、元々声の高い性質だったのだろうか。
好きでもなんでもない同性に抱かれながら、天上のシミを無理やり数えるような日々。それは、帝に見初められて後宮に来、蓮が蓮花になってからもなんら変わることはなかった。
――ああ、俺は。一生、“俺”である自分を誰にも知られず、認められずに生きていくのだ。
女性の振りをさせられている以上、好ましいと思う女人がいたところで声などかけられるはずもなかった。ならば誰かに、恋愛感情など抱くだけ無意味なのである。ああ、帝が女で、自分にとって好ましい存在であったならどれほど救われたことであろうか。ほとんど毎日、飽きもせずに自分を抱く腕が、吐息が、甘い言葉が。全て心から愛する誰かのものであったならば。
――愚かな幻想など、抱くべきではない。……ああ、いっそ。賊でもなんでも来て、早く俺を殺してはくれないか。俺はこの世に生まれてきてはいけなかったのだ。このような醜い姿で、醜い体で、醜い心で。一体どうやって、生きながらえるべきだという?
自害しようと何度も思って、それさえできずにいる臆病な自分。生きたいわけではなかった。でも何より、自害に失敗して中途半端に生きながらえてしまったらとそれが何より恐ろしかったのである。そして、自分がもし自殺でもしようものならば、間違いなく御付きの者が責任を問われることになる。妃の誰かが原因だと、あらぬ疑惑をかけられることもあるかもしれない。
死ぬならば、誰にも迷惑をかけぬ方法でなければ。
だがしかし、せっかく持っている秘術の壷も、自分自身を逃す手段にはなりえないのだ。
――同じように望まずにして後宮に来た女たちを助けて、それで自分を救った気になった。こんなのはただの偽善だと知りながら。バレたら、極刑で済まないことを知りながら。
恋などするべきではない。
それは、己を腐らせる毒にしかならないのだから。しかし。
『のう、蓮花。この娘はどうか?舞の実技も見事であったし……舞と歌の名手であるお前とも話が合うのではなかろうか』
『……彼女を、私付きの女官になさると?』
『おうとも。儂はこの娘ならば、お前と共にいてもけして見劣りせぬと思うのだが』
運命は唐突に、あまりにも鮮烈に扉を開けた。
茶色がかかった長い黒髪、星屑が散るような金色の石の強そうな瞳、透けるように白い肌。家のために、どのような苦難も越えてみせようという強い意志を持ったその娘に、蓮花は一瞬にして魅せられてしまったのである。
これが一目惚れというものだと、自覚した時にはもう遅かった。
恋とは、落ちてしまったら最後――自分の意思で止めることなどできないものなのだ。それはさながら、坂を転がり続ける石のように。
『……帝がそうお望みならば、私は構いません』
あの時の自分は、全身全霊をもってして己の心を押しとどめることに賭けていた。不自然なほど無表情になっていたかもしれないが、少なくとも恋を知ってしまった愚かな男の顔は隠し通せたのだろう。忌々しい第一妃、蹴落としてやりたい筆頭。そのような顔で彼女は、映子は自分を睨んでいたのだから。
一目惚れした娘を、自分の御付きの女官にしてくれたこと。それだけは、あの帝に心から感謝していることである。
我儘を言えば、彼女はとにかく正直に不快感を露わにしてくれた。自分が許したらその直後から、歯に衣着せぬ物言いで突っかかって来ることも厭わない。好かれていないのは承知していたしそのように振舞っていたのも事実だが、嫌われていたとて彼女と過ごす日々は楽しかった。灰色で濁っていた日々に、まさしく色がついたような感覚とはこのことだろうか。くるくる表情が変わる彼女を見つめているうちに、もっともっと傍にいたいという気持ちが抑えられなくなってくる。ああ、できることなら何度己が男だと明かして、そういう意味で貴様が好きなのだ、と伝えられたらいいと思ったことか。
それは叶わぬことだ、だから諦めるべきと思っていた。
恋という感情はどこまでも幸せで、同じだけ恐ろしいものだった。叶わぬことも恐ろしかったが、それ以上に己が己でなくなってしまいそうなのが怖かったのである。恋の先にあるのは、欲だ。それは日々、帝に肉欲をぶつけられている蓮花が嫌というほど知っていることでもある。映子をただ見つめているだけで幸福なうちはいい。でもいつか、自分もあの帝が己にするように、肉欲に支配された怪物になってしまうのではないか。己の中に、男としての獣が育ってしまったらどうすればいい?それで映子を、自分にとっても大切な宝物を傷つけてしまうことが何よりも恐怖であったのである。
どうせ、自分はいずれ帝の秘術によって、何もかも壊されてしまう身だというのに。
絶対に、帝以外の誰かと結ばれることは未来永劫あり得ない、そのように運命は決まってしまっているというのに。
それなのに、傷つけるだけ傷つけて、その責任さえも取れないようなことになるのが一番嫌で仕方なかった。蓮花は引き裂かれそうになりながらも、どうにかそれを押し殺して『意地悪で我儘な妃』を演じ続けたのである。以前には、同性と思っていながらも自分に惚れてしまい、結果危険を犯して帝の不興を買ってしまった女官もいた。蓮花に恋い焦がれるあまりに病気になってしまった者も。
映子がそうなってしまうくらいならば、嫌われていた方が千倍はマシというものだ。そう思っていた――なのに。
――何故、隠していたのに……男だと、バレてしまったのだろうなあ。
縁花との友情を知られ、隠していた己の体を知られ。それらの出来事がきっかけで、映子の自分を見る目が変わってしまったことを知った。ああ、それともまだ自分が、彼女に恋心を伝えることを我慢していれば少しはマシであったのか。
いずれにせよ、いくら後悔してしまったところで戻れない。
自分は、映子と出逢ってしまった。恋をしてしまった。そして己の正体も想いも、何もかもを知られてしまったのだ。それはなんとも幸せで、残酷で、己には過ぎた日々に違いはなくて。
――好きだ。
最初は一目惚れだったのに。
彼女の傍にいればいるほど、もっともっと彼女のことが好きになってしまった。
――好きだ、好きだ。好きなんだ……映子!
「おお、成功した!良かった、良かった!」
生まれたままの姿で寝具に横たわる蓮花を見て、帝は歓声を上げる。蓮花は絶望的な面持ちで、己の体を一瞬だけ見下ろした。
男の身にはないはずの、ふくよかな胸。
そのようなものが自分の身に現れるだなんて、なんと恐ろしいことであるか!
「やはり、あの秘術は本物だ!人を、子を産むことも産ませることもできる神と同じ体……両性にできるというのは真であったのだ!」
帝は喜びながら寝具の上に乗ってくる。ぎしり、と軋むその音に、蓮花は唇をかみしめた
あと少し。
あと少しで、明るい未来へと一歩踏み出せたはずだったというのに。
――映子、映子、映子!
彼女の名前を心の中で呼びながら、蓮花は思うのである。
――この日が来たら、今度こそ自ら命を絶つつもりだったのだ、俺は。それなのに……それなのに貴様のことを想うだけで、俺は……!
死にたくない。生まれて初めて、そう思ってしまった。
恋とは、なんとも惨い感情なのだろう。
彼女と共に生きていたいなんて、そんな酷いことを自分に思わせるだなんて。
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