<13・ツボ。>

 椅子をどけて、その壷をゆっくりと引きだしてみる。つるりと冷たいそれは、持ち上げてみるとややずっしりと重かった。これがどこぞの家の厨房であったなら、漬物でも作っているのだろうなと特に疑問も思わなかったのだが――自分で厨に立つ機会があろうはずもない、妃の部屋にあるともなればまったく話が別である。

 一体、何が入っているのだろう。壷の上には、木の板を被せて蓋がしており、紐でしっかりと本体に結び付けられていた。まるで、厳重に封印でもされているかのようだ。


――何が入ってるんだろ。……何だかすごく、気になる。


 床に置いて、そっと紐に手をかける映子。結び目を解こうとした、まさにその時だった。


「何をしているっ!」

「!!」


 今まで聞いたことがないほど、鋭い声が飛んだ。はっとして見れば、鬼のような形相をした蓮花が立っていた。いつの間に戻ってきたのだろう。あっけにとられているうちに、映子は壷をひったくられるように奪われる。半ば突き飛ばされる形となり、尻もちをついてしまう映子。


「映子、まさかこの中を見たのではあるまいな!?」

「え、えっ……」

「見たのか、見てないのか、どうなんだ!!」

「み、見て、ない……」


 どうにかそう絞り出すだけでいっぱいいっぱいだった。首をぶんぶんと横に振ってみせれば、彼女はほっとしたように息を漏らす。そして結び目が解けていないことを確認すると、そっとそれを椅子の下に戻したのだった。


「……あれの中身は絶対に見るな」


 蓮花の声とは思えないほど、ドスのきいた響き。


「見たら、貴様とて……容赦はできぬ。わかったな」

「は、はい……その、アレは何が」

「見るな、疑問に思うな、知るな。世の中には、知らない方が良いこともある。これは、貴様の為でもあるぞ。いいな?」

「……わ、わかりました」


 へたりこんだまま、そう言うしかなかった。映子のその様子を見て、蓮花はややほっとしたように息を吐く。


「……突き飛ばして悪かった。悪いが、稽古は少し待っておくれ。少々湯浴みがしたい」


 よく見れば、蓮花は明らかに顔色が悪かった。疲弊しきっている、と言っても過言ではない。かなり長い時間帝に捕まっていたことを考えると、相当無理強いをされたのかもしれなかった。


「お体の具合が、悪いのですか?その、お風呂の手伝いはできなくても、薬をお持ちすることはできますが」


 少し前の自分なら、こんな風に彼女を気遣うこともなかったのだろうなと思う。蓮花の本質に触れてしまった今、彼女が自分の名誉のために無茶をする人間ではないことはわかっている。本当は、妃でいることそのもんが苦痛なのだろう。本当は別に好いた相手がいる、というのなら尚更に。


「大事ない。少しねちっこく嬲られただけだ。あの色ボケめ、たまには妃の体を労って欲しいものよな」


 さっきまでの鬼のような気配はもうない。ははは、とやや疲れているながらも笑う彼女は、いつも映子が見ている自由奔放で毒舌な蓮花そのものだった。さっきまでのはなんだったのだろう、と思ってしまう。まるで幻でも見ていたかのようではないか。

 だが実際、ちらりと机の前に視線をなげれば、確かに壷はそこにあるのだ。自分が真昼間から夢を見ていたというわけではない。


「すぐに上がる。少しばかり部屋で待っていておくれ」

「承知しました」


 彼女の姿が奥の湯殿へと消えていく。映子は結局、もうしばらく手持無沙汰で待たなければいけなくなるようだった。

 そしてそうなれば、考える内容など限られたものとなる。

 そう、例えば――縁花はどうやって、何処に消えたのかということだとか。


――もし縁花様を逃がしたのが蓮花様なら。あのようにまったく心配していないのも頷ける話だわ。ご本人が口にされたように、死んだ方が幸せだと本気で思っているからこその言動だとも考えられるでしょうけど……。


 問題は。仮に蓮花が手引きしたところで、後宮から人一人を逃がすことが可能なのか?という話である。

 後宮の建物から飛び降りて怪我もなしに済むというのがまず難しく、そもそも見回りの者が周囲の森を歩き回っているのでその眼を掻い潜るのが難しい。兵士になんらかの賄賂でも渡せば、見回りの人間を懐柔することくらいはできるかもしれないが――万が一そのようなことをしたことが帝の耳に入れば重罪だ。妃といえど、厳罰は免れられないだろう。それこそ国家反逆罪に問われる可能性も充分考えられるはずである。危険が大きすぎる。

 そして仮にそのようなことができたとて、ろくな装備もない女一人が飛び降りて無事で済むというのが都合が良すぎる。とすると、縁花は後宮の窓から逃げたわけではない、ということなのだろうか。では、逆の道はどうか。

 中宮の渡り廊下を見張る兵士に賄賂を渡すなりなんなりして、その場所を突破できたとしよう。しかし、外に出るには中宮の建物を突っ切り、さらに前宮の廊下を抜け、警備の厳しい前門を通らなければいけないはずである。一人二人の見張りをどうにかできたとて、仮に男装する技術があったとて。それだけで、一体どうやって外に出ることができるというのか。あまりにも、越えなければならない壁が多すぎるではないか。


――とすると、残る可能性は……本当はあの部屋で縁花様が自害されていたのを、誰かが運び出した可能性……とか?


 一番現実的なのは、実は縁花の死を最初に見つけたのが帝であり、帝本人が兵士に命じて隠蔽工作させたということである。それこそ、夜伽の折にうっかり妃を死なせてしまう、くらいあの帝ならやりかねないことだ。下手人が帝ならばやり方などいくらでもある。彼女が自分で消えたように見せかけて、遺体を始末することも可能だろう。それこそ、兵士全てと口裏を合わせてしまえばどうにでもなるというものだ。

 が、可能であることと、不自然でないかどうかはまったく別問題なのである。

 例えばこうして消えたのが蓮花であったなら、真っ先に疑うべきはこの可能性であったことだろう。しかし実際は、一度も閨に呼ばれたことがなかったという縁花がいなくなっているのである。あの帝が、蓮花が病気で臥せったなどの事情があるわけでもないにも関わらず、突然縁花を呼び出して情事にふけるなんてことがあるだろうか。いや、蓮花を呼びまくるようになった昨今でさえ、時々他の妃を呼ぶことがあるというのは耳にしていたし、可能性はゼロではないのだろうけれど。

 やはり、帝がどこかで手を引いている可能性というのは低いのだろうか。

 それこそ秀花にならば、縁花を殺す動機もないわけではない。縁花の態度がムカついたから部屋に押しかけていってうっかり殺してしまった、なんてこともあるのかもしれなかった。が、今度は隠蔽工作ができるのかどうか?という疑問が浮上する。果たしてあの北郷が、特に現在お気に入りの妃でもなんでもない(といったら気の毒だが)女の、別の妃を殺すなどという大罪をあっさり隠蔽して見逃すものなのか。帝に隠れて縁花の遺体を隠せるかといえば、それは相当難しいとしか言いようがないはずである。


――とすると、もう残るは……この後宮に、実は秘密の通路があって!なんてオチかしら。


 ああ、昔はそういった小説も読んだことがあったな、と思い出す。闇に生きる暗殺者、忍の者の活躍を描いた冒険活劇だ。彼等の屋敷は不届きものの侵入を防ぐために、家の中のあちこちに謎の仕掛けがしてあったのである。それこそ、壁に見える場所を押したらくるりとひっくり返り、別の部屋へと繋がっているとか。押入れを開けたら天井裏が隠し通路になっていて、どこかの別の廊下へ降りられるようになっていたとか。

 あるいは敵が来た時に閉じ込められるように、廊下に落とし穴があって――なんてのもあったはずである。忍者そのものの活躍も面白かったが、そのような仕掛けだらけの屋敷を想像しては心躍らせたものだった。なるほど、もしも帝がそういった趣味を持っていたなら、うっかりそういう仕掛けが後宮のどこかにあるなんてこともあるかもしれない。縁花の部屋に秘密の地下通路の一つでもあれば、脱出不可能、なんて状況はあっさりと覆るのだから。

 しかし。


――……無いわね。無い無い。それなら真っ先に帝が、その通路を調べさせてるでしょーよ。帝が秘密の地下通路の存在を認識してないはずがないわ。


 そして、通路のあるなしに関わらず、縁花の部屋には何か痕跡がないかと念入りに調べられた筈である。万歩譲って帝が通路の存在を知らなかったところで、その調査で発覚しないなんてことはないに違いない。

 と、すれば。


――結局、どの推理も的外れな気がしてならないわ。……縁花様、どうなったのかしら。生きていて下さるといいけれど。


 思考は堂々巡り、答えなど出るはずもない。なんだか妙に疲れたな、と映子がため息をついたその時だった。




 がったん!!




「!?」


 湯殿の方から、ものが倒れるような大きな音。映子はぎょっとして振り返った。


「蓮花様!?」


 自分の裸は絶対に見るな、と厳命されていたのを思い出す。思い出したが、はっきり言って彼女自身の安全に代えられるものではなかった。一瞬迷ったものの、映子はすぐに立ち上がり、奥の風呂場へと走って行く。ばしゃばしゃ、と僅かにもがくような水音がする。まさか事故でも起きたのだろうか。


「蓮花様、何がっ……」


 慌てて引き戸を開いた映子が見たのは、浴槽にぐったりともたれかかっている蓮花の姿だった。もしや怪我でもしたのか。彼女の体を湯船から引き揚げようとした、その時だった。


「え……」


 湯煙の中、映子は眼を見開くことになるのである。

 気づいてしまったからだ。蓮花の胸が、女性としてはあり得ないほど――平らであるという事実に。

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