<5・ダイキライ。>

 鏡が嫌いだ。大嫌いだ、昔から。

 鏡台の前に座らされ、蓮花は後ろから手を回される。毛むくじゃらの忌々しく太い腕。蓮花にはない、逞しい身体。後ろから捕まえられたら、けして逃げる術などない。


――畜生。


 鏡の中の自分を睨みつけるしか術はない。なんだ、あのじゃらじゃらした華美な髪飾りは。無駄に濃い化粧は。なんと醜いザマであることか。花街にいた時からそうだったが、この場所に連れて来られてからはますます着物が派手になり、髪飾りの種類も増え、まるで着せ替え人形のようにあれもこれも身に着けるようにと勧められるようになってしまった。

 自分は人形じゃない。生きていて、血の通っている一人の人間だ。それなのに何故、己の未来も、命さえ自分の思い通りにならないのか。本当に欲しいもの、願ったこと、何一つ叶ったことはない。貧しい上に酒浸りな父の元に生まれ、借金のカタに売られたことがまず最初の不幸の始まりだった。これがいっそ、どこぞに丁稚奉公に出されるならどれほどマシな結果になったことか。あまり器用な方だとは思っていないが、料理や洗濯、掃除などはひとしきり覚えている。下働きであっても、人並以上に役に立つことはできたはずだというのに。

 よりにもよって売られた先が花街だったのだから、笑えもしない。

 あの店にいた時から、吐き気がするような男達の相手をさせられてきたが。今の生活だって、さほど変わったわけではない。相手がほぼ帝一人になったというだけだ。それも、自分が一番生理的な嫌悪感を抱くような類の。


「機嫌が悪そうだな、蓮花」


 耳元で、囁く低い声。


「何ぞ、気に食わぬことでもあったか?……そういえば、またどこぞの妃やら妾やらを苛めているという噂があるそうだな。そんなにも儂を一人で独占したいか?愛いやつめ」

「……申し訳ございません、陛下」


 気持ち悪いこと抜かすな、と心の中で吐き捨てる。独占欲?何をどうしたらそのような言葉が出てくるのか。自分が冷たく睨むたび、そっけなく接するたび、何故だかこの男はそれを全て愛情の裏返しと捉えるものだから始末が悪い。確かに自分も立場上、はっきりと“お前が嫌いだ”と口にはできないし、したこともないけれど。だからといって何故、閨で愛の言葉の一つも吐かない妃に、己が愛されているなどと思えるのだろう。


「儂のことをそこまで想ってくれるのは嬉しいことよ。しかし、だからといってあまり他の者につれなくしてくれるな。あの者達も一応は、儂の妃であるのだからなあ」


 一応。

 そう言うのなら、ちゃんと相手をしてやったらどうなんだ、と思う。

 この男は近年、ほぼ自分以外の妃や妾をまともに抱いていないことを知っている。稀に気まぐれに相手をしても拷問めいた酷い行為であったり、あるいは最後まで行為を行わなかったりするようだ。もしくは、普段自分相手には絶対しない避妊行為を徹底していると専ら噂である。それが、男児を産むことで成り上がることを夢見る妃たちにとってどれほどの屈辱か分かっているのか。子供を産めない自分のような者を相手にしている暇があったなら、帝の子を死ぬ気で望んでいるであろう彼女達にちゃんと種を恵んでやればいいものを。


「……帝が、私ばかりをお相手されるからでしょう。他の方々が私を好ましく思わないのは当然です。私よりよほど、帝のことを強く想う女性たちばかり。何故私のところにばかりいらっしゃるのです?」


 遠回しに、自分はお前のことなど好きじゃないのだと告げてやった。これで少しばかり察すればいいものを、山賊を思わせるような髭面の大男はがはははは、と濁った声で大笑いするばかり。


「そのようなことばかり言って、儂を試すでないわ。本当に儂が別のおなごのところに行ったら淋しくてたまらないくせに」

「……そのようなことは」

「良い、良い。安心せい、おぬしのことはこの儂が誰よりよくわかっている。そのように儂の愛を量らなくても良いのだぞ。儂はけして、おぬしを捨てたりなどしない。あのような低俗な店に、腐った親におぬしを返したりなどするものか」

「!」


 ひょい、と軽々と体を持ち上げられてしまい、驚きに小さく悲鳴が漏れた。ああ、こんな情けない声が嫌でたまらない。このような男に簡単に抱き上げられてしまうような軽くて細い体も大嫌いだ。自分にもこの男のような体格や怪力があればと何度思ったかしれない。そうすれば、こんな風にいつも気持ちの悪い男を相手に、体を好き勝手にされるようなこともなかったというのに。


「今、北皇国中の本屋と書庫を片っ端から探しているところなのだ」


 蓮花を寝具の上に寝かせて、北郷はにやりと笑った。


「きっともうすぐ、伝説の秘術が手に入る。おぬしの体も必ずあるべき姿に治してみせよう。そうすれば、きっと何もかもうまくいく」


 その毛むくじゃらの手が、厭らしく蓮花の下腹部を撫でた。


「ああ、早う見たいものだ。儂とおぬしの子の姿が……!」


 冗談じゃない。お前の子を孕む己など、想像しただけでぞっとする。奥歯を強く噛み締めて、蓮花は罵る言葉を無理やり飲み込んだのだった。

 此処は、地獄。

 自分は一体いつまで、この深い闇の中で生きたまま殺され続けなければいけないのだろう。




 ***




――や、やってしまった。


 はっとして窓の外を見た映子は、己の失態に頭を抱えた。

 後宮の書庫には、女官たちが勉強できるような学術書や指導書に加えて、空想小説の類なども数多く揃っていたのである。ちょっとした本屋かと思うほどには多くの本が揃っており、きちんと記帳さえ行えば好きな時に借りることができるようになっていた。この後宮の生活における、数少ない楽しみの一つと言っても過言ではない。夜寝る前に少しだけ読書を楽しもう、と思ったのが失敗だった。本を丸一冊読み終えたところで、月の位置に気づいて青ざめる。――すっかり深夜まで、熱中してしまったようだった。


――明日も早いのに、何やってるのかしらわたくしは!


 同じ部屋で寝ている女官たちは、机に小さく灯りがついていようが窓が空いていようがおかまいなしであるようだった。それほど熟睡するほどに、皆が疲れ切っているのである。女官の仕事は日によって違えど、掃除洗濯炊事事務処理に加えて各々が担当する御付きの妃のお世話もある。けして楽なものではない。朝早く起きて、夜はすっかり遅くなった頃ようやく就寝。本来なら映子も例外ではなく、さっさと眠りにつくべきだったというのに。


――ああ、翼を持つ不思議な種族の物語……好きな時に空を飛んで、海を渡ることのできる不可思議な力。すっかり虜にされてしまった。続きはどうなるのかしら。


 一巻だけと思って持ち出してきた本だが、既にもう二巻以降の展開が気になってしょうがない。あの書庫に二巻以降がどこまで揃っていたかは確認していなかった。もし続きがなかったらどうすればいいのか。それこそ、御付きの妃におねだりして、帝に頼んでもらうくらいしか術がなくなってしまう。仕事に必要なもの以外、女官が何かを外部から取り寄せる術などないからである。

 せめて書庫にあるかだけでも確かめて来ればよかった。続きも気になるが、今はそれ以上に続きが読める状況にあるのかどうかが気になって仕方ない。このまま本を閉じて、さっさと眠りにつかなければいけないというのに。


――完全に、眼が醒めてしまった。どうしましょう。


 このまま布団に入っても、落ち着いて眠れる気がまったくしなかった。頭はぐるぐるするし、心臓は無駄に高鳴ってしまうし、まるで薬でも打たれたかのように興奮して眠れそうにない。これは少しばかり頭を冷やすしかないだろう、と映子は本を棚に戻し、立ち上がった。小宵は月が綺麗だ。中庭を散歩するには丁度いいだろう。

 後宮は、広い中庭をぐるりと複数の部屋に面した廊下が取り囲むような構造になっている。最奥に帝の部屋があり、第一妃である蓮花の部屋もそこからほど近い場所にある。その反対側の渡り廊下が、男性の官僚たちが寝泊まりし出入りする建物と繋がっていた。その廊下には夜は鍵がかけられ、昼間は必ず見張りの兵士が立っている。妃たちと女官たちが、この廊下を通って官僚たちの元に向かうことはできない仕組みになっていた。自由に出入りが許される男性もただ一人、帝のみである。

 つまり、散歩と言っても映子が歩き回れるのはこの“口”の字型の廊下と、中央の中庭だけと言っていい。自分がここから出られるのは、永の暇を貰うか病に倒れるか、もしくは死んだ時だけと決まっていた。――それはいいのだ。自分はそのような籠の鳥になることも覚悟の上で、この職を志したのだから。


――でも、望んでこの場所に来たわけではない者もいる……。


 思い出すのは、蓮花。まるで、来たくて来たわけではないとでもいうような口ぶりだった。帝に見初められ、第一妃として期待される。この国の女性ならば、誰もが羨むような地位を手にしているはずだというのに。


――贅沢が過ぎるわ。卑しい身分の娘が、帝のおかげでここまでの生活を約束されているのよ。何故それを喜ばしいと思わないのかしら!


 ああ、思い出したらまた腹が立ってきてしまった。ふん、と鼻息荒く廊下を進んだところで、ふと中庭の手すりにもたれかかっている人物に気づくのである。

 そう、こんな真夜中にも関わらず。夜の散歩を楽しむという奇特な人物が、映子以外にもいたのだ。しかも、その顔には見覚えがあった。


「……えっと、縁花、様?」

「!」


 声をかけられた第九妃、縁花は。驚いたように目を見開き、映子の顔を見たのだった。

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