第3話 響き合う心

 竜の谷に、短いけれど鮮やかな夏が訪れようとしていた。陽光は日ごとに力を増し、木々は深い緑の葉を繁らせ、生命の謳歌を叫んでいるかのようだ。崖の岩肌を伝う滝の水量も増し、谷底からは絶えず、力強い水音が響いてくる。管理人小屋の周囲も、驚くほどの速さで変化していた。リスバートが名前を知っている花は一つもないが、赤、黄、紫、そしてリュンヌが好きだった深い蒼色の「竜の涙」など、色とりどりの花々が、まるで競い合うように咲き誇り、甘い香りを風に乗せて運んでくる。見たこともないような翅(はね)を持つ昆虫たちが、その蜜を求めて忙しなく飛び交っていた。

 季節は、着実に巡り、世界は生命の輝きに満ちている。だが、リスバートの心の中だけは、未だに厚い氷に覆われたまま、冬から抜け出せずにいた。その氷の下で、二つの癒えない傷が、変わらず鈍い痛みを放ち続けている。


 エララは、明らかに変わった。あの日、若い竜ーーリスバートが内心で「斑(まだら)の若竜」と呼んでいた、あの個体ーーと遭遇して以来、彼女の世界は確実に広がりを見せていた。以前のように、一日中、小屋の窓辺で虚空を見つめているようなことはなくなった。朝食を終えると、リスバートが何か言う前に、小さなスケッチブックと、お守りのように握りしめている例の青緑色の鱗のかけらをポケットに入れ、そっと小屋を出ていく。向かう先は、決まって小屋から少し離れた、崖の縁近くの、蒼い「竜の涙」が群生している辺りか、あるいは、もう少し谷底へ降りた場所にある、陽当たりの良い平らな岩棚だった。

 リスバートは、娘のその行動を、複雑な思いで見守るしかなかった。心の大部分は、恐怖と不安で占められている。あんな巨大で、人知を超えた生物に、娘を近づけて良いはずがない。いつ、何が起こるかわからない。だが、同時に、娘の表情に浮かぶ、以前にはなかった生気ーー時に見せる、弾けるような笑顔や、何かに夢中になっている時の真剣な眼差しーーを見ると、強く制止することが、どうしてもできなかったのだ。リュンヌなら、どうしただろうか。きっと、娘の気持ちを尊重し、その上で、最善の道を探したはずだ。だが、自分にはその自信がない。恐怖が先に立ち、ただ禁止することでしか、娘を守る方法を知らない。それが、さらに自分を惨めな気持ちにさせた。


 何度か、リスバートはエララの後をつけ、遠くからその様子を窺った。そして、やはり、あの日と同じ光景を目にすることになった。エララは、あの若い竜と、まるで旧知の友であるかのように、穏やかな時間を共有していたのだ。巨大な竜のすぐそばに座り込み、時にはその岩のような前脚に寄りかかるようにして、スケッチブックに何かを描いている。竜の方は、長い首を優雅に曲げ、まるでエララの描くものに興味を示すかのように覗き込んだり、あるいは、ただ静かに目を閉じて、エララの存在を受け入れているようだったり。言葉は交わされていないはずなのに、そこには、人間同士の間でさえ稀なほどの、深い信頼と、穏やかな共感が流れているように見えた。

 リスバートは、木の幹に身を隠しながら、その光景を、胸を締め付けられるような思いで見つめた。娘が取り戻しつつある笑顔。それは、自分が与えたものではない。あの竜が、与えているのだ。その事実は、安堵と共に、鋭い痛みを伴って彼の心を刺した。自分は、父親として、あの竜にさえ劣る存在なのだろうか。


 ある日の夕食時、リスバートは意を決して切り出した。ぎこちない沈黙を破るように。

「エララ……その、最近、よく外へ行っているようだが……あの、若い竜とは……どうなんだ? 会っているのか?」

 エララの小さな肩が、ぴくりと震えた。彼女は、スプーンを持ったまま俯き、テーブルの一点を見つめている。やはり、隠していたことを咎められると思ったのだろうか。その怯えたような反応に、リスバートの胸が痛む。違う、そうじゃないんだ、と心の中で叫ぶ。ただ、知りたいだけなんだ。お前が、何を考え、何を感じているのかを。

「……別に……」

 エララが、消え入りそうな声で答えた。

「別に、とは……? 危ないぞ、エララ。あれは、いくら大人しそうに見えても、竜なんだ。いつ、何が……」

「ちがうもん!」

 突然、エララが顔を上げた。その瞳には、涙が浮かび、強い反抗の色が宿っていた。

「フリッカは、怖くないもん! 優しいもん!」

「フリッカ……?」

 聞き慣れない名前に、リスバートは眉をひそめた。

 エララは、はっとしたように口を押さえた。うっかり秘密を漏らしてしまった、というように。だが、すぐに意を決したように、父親を真っ直ぐに見つめ返した。

「……そうよ。フリッカ。わたしが、名前、つけたの」

 少し頬を染め、でもどこか誇らしげに、彼女は言った。「だって、鱗が、光に当たるとキラキラ……フリッカーってするから。フリッカ。……フリッカはね、わたしのこと、わかってくれるもん。パパには、わかんないかもしれないけど!」

 最後は、叫ぶような声だった。そして、エララは椅子から飛び降りると、そのまま自分の寝室へと駆け込んでしまった。バン、と扉が閉まる音が、静かな小屋に響き渡る。

 一人残されたリスバートは、テーブルの上で冷めていくスープを見つめながら、呆然としていた。

 フリッカ。娘は、あの竜に、名前まで付けていたのか。そして、自分よりも、あの竜の方が、娘のことをわかっている、と。

 衝撃だった。そして、痛かった。まるで、鋭利なガラスの破片を飲み込んだかのように、胸の奥がずきずきと痛んだ。疎外感。嫉妬。そして、父親としての、圧倒的な敗北感。

 だが、それと同時に、ほんの少しだけ、心が温かくなったような気もしたのだ。エララが、自分に対して、あれほど強い感情をぶつけてきたのは、久しぶりのことだったからだ。心を閉ざし、ただ黙って耐えていた娘が、自分の大切なものを守るために、声を上げたのだ。そして、その大切なものの名前を、自分に打ち明けてくれた。それは、ほんの僅かだが、父娘の間に凍りついていた氷が、軋む音を立てて、ひび割れた瞬間だったのかもしれない。

 リスバートは、冷めたスープを、ゆっくりと口に運んだ。味は、しなかった。


 その出来事の後も、リスバートはエララがフリッカと会うことを、明確には禁止できなかった。ただ、「絶対に無理はしないこと」「何かあったらすぐに知らせること」を、何度も言い聞かせるだけだった。そして、彼は、さらに深く、この谷と竜についての知識を求めるようになった。それは、娘を守るためであり、そして、娘が繋がり始めた世界を、少しでも理解したいという、父親としての切実な願いからだった。

 彼は、管理人小屋の書斎に籠もり、歴代の管理人が残した日誌を、最初から丁寧に読み返した。特に、古い時代の記述には、単なる観察記録だけでなく、谷に伝わる伝承や、管理人が個人的に抱いた考察などが、詳しく記されていることがあった。

『……谷の最深部には、"竜の寝床"と呼ばれる聖域あり。そこは大地の脈動、すなわちマナの流れが最も強く感じられる場所にして、谷の"心臓"とも称される。古き竜はこの場所にて傷を癒し、また、新たな命を育むという……』

『……言い伝えによれば、谷は世界の魔力の"調整弁"の役割を担う。外部にて魔力の大きな乱れが生じれば、谷はその歪みを吸収し、世界の均衡を保とうとする。だが、その許容量を超えれば、谷自身が病み、竜もまた苦しむこととなる……』

『……過去帳によれば、百年前にも谷の植物が枯れ、竜が荒れた時期あり。原因は不明なれど、隣国の内乱による大規模な魔法使用の影響か、と当時の管理人は推測せり……』

 リスバートは、それらの記述を読みながら、背筋に冷たいものが走るのを感じた。単なる迷信や伝承として片付けられない、妙なリアリティがそこにはあった。特に、「外部にて魔力の大きな乱れ」という部分が、彼の心の隅に引っかかった。

 彼は、リュンヌが遺した手帳も、繰り返し読んだ。彼女の、谷と竜への深い愛情と、どこか予言めいた言葉。

『……もし、いつか、この谷の調和が乱される時が来るとしたら……それはきっと、人間の、過ぎた欲望が原因でしょうね。でも、きっと、この谷と、竜たちと、そして、この谷を愛する誰かの心が響き合えば、乗り越えられると信じているわ……』

 リュンヌの、ほとんど信仰に近いような言葉。以前なら、病が見せた幻、と片付けていたかもしれない。だが、今は、それがただの願望ではない、何か真実の一端を捉えているような気がしてならなかった。そして、思うのだ。リュンヌは、あるいは、前世の美咲でさえも、自分よりも遥かに強く、物事の本質を見抜く力を持っていたのではないか、と。自分は、いつだって、目の前の現実や、自分の内側の問題にばかり囚われて、もっと大きな、大切なものを見失ってきたのではないか、と。

(俺は、守れるのだろうか……。リュンヌが信じた、この谷を。そして、エララを……)

 今度こそ、という決意とは裏腹に、心の奥底では、常に二度の失敗の記憶が囁きかける。「お前には無理だ」「また、同じことになる」と。その声から逃れるように、彼は日誌のページをさらに深く捲るのだった。


 そんなリスバートの葛藤を知ってか知らずか、谷の異変は、誰の目にも明らかな形で、その深刻さを増していった。

 地面の揺れは、もはや「微震」と呼べるものではなくなっていた。小屋の中にいても、はっきりと身体に感じるほどの揺れが、日に何度も起こるようになったのだ。食器棚の皿がカタカタと音を立て、壁に掛けた古いランタンが大きく揺れる。そのたびに、エララは小さな悲鳴を上げ、リスバートの腕の中に飛び込んでくるようになった。それは、リスバートにとっては、娘との数少ない、しかし素直な触れ合いの時間ではあったが、その原因を思うと、心は少しも安らげなかった。

 竜たちの様子も、明らかに尋常ではなくなっていた。谷の中央部上空を旋回する竜の数はさらに増え、その動きは焦燥感を帯びている。そして、彼らが発する咆哮は、もはや警告や苛立ちというより、苦痛の叫びのように聞こえることさえあった。エララは、「フリッカがね、身体の中だけじゃなくて、お外も痛いって言ってる……。なんだか、悪い空気で、息が苦しいって……」と、涙ながらに訴えるようになった。

 そして、決定的な兆候は、植物の枯死だった。南の崖の一部から始まったその現象は、徐々に範囲を広げ、今では谷の入り口近く、管理人小屋の周辺の植物にまで及び始めていたのだ。緑の葉は、まるで生命力を吸い尽くされたかのように色褪せ、茶色く縮れて枯れ落ちていく。美しい花々も、次々とその輝きを失っていった。リュンヌが好きだった「竜の涙」さえも、例外ではなかった。あの鮮やかな蒼色が、くすんだ灰色へと変わり果てていく様は、リスバートの心に、直接的な恐怖を植え付けた。

 これは、自然現象ではない。何かが、この谷の生命そのものを、外側から蝕んでいるのだ。

 原因は、おそらく、日誌にあったように、「外部での魔力の大きな乱れ」なのだろう。だが、それが具体的に何を意味するのか、リスバートにはまだわからなかった。


 ある夕暮れ時、リスバートは、エララと共に、小屋の前の崖の縁に立っていた。空は、不気味なほどに赤く燃え、谷全体が終末的な光景に染まっている。風が、ひゅう、と音を立てて吹き抜け、枯れた植物の葉をカサカサと鳴らした。

「パパ……」

 エララが、リスバートの服の裾を、小さな手で強く握りしめた。「怖いよ……」

「……大丈夫だ」

 リスバートは、娘の頭をそっと撫でた。その声は、自分でも驚くほど、静かで、落ち着いていた。恐怖は、確かにある。だが、それ以上に、腹の底から湧き上がってくる、強い怒りと、そして、揺るぎない決意があった。

(誰が、何のために、この谷を……リュンヌが愛し、エララが繋がり始めたこの場所を、壊そうとしているのか……)

 許せない、と思った。そして、守らなければならない、と。

 彼は、谷底へと視線を向けた。闇に沈み始めた森の奥深くで、竜たちが、苦痛に満ちた咆哮を上げているのが聞こえる。彼らもまた、戦っているのだ。この異変と。

 自分は、もはや、ただの管理人ではない。この谷の、そして、ここに生きる全ての生命の、守護者とならなければならないのかもしれない。たとえ、それが、自分の手に余ることであっても。二度の失敗を犯した、欠陥だらけの自分でしかなくても。

 リスバートは、エララの手を強く握り返した。その小さな手の温もりが、彼の決意を後押ししてくれているように感じられた。

 胸の奥で疼いていた二つの古傷が、今はもう、ただの痛みではなかった。それは、彼を突き動かす、熱い炎のようでもあった。

 美咲、リュンヌ、そして、エララ。

 三人の女性への想いが、彼の心の中で、一つの、強い力となって響き合い始めているのを、リスバートは感じていた。

 この谷の、か細いが、しかし確かな「心の響き」に、自分の心を重ね合わせる時が、来たのかもしれない。

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