竜の谷の管理人
写乱
第1話 竜の谷
どれくらい揺られていただろうか。もはや時間の感覚は曖昧だった。身体を預けた馬車の壁が、単調ながらも不規則な振動を、飽くことなく骨の髄まで伝えてくる。三日、いや、正確には丸四日が過ぎようとしていた。王都の喧騒が遥か遠くに霞んで久しい。硬い樫の座席に押し付けられた尻や背中の痛みは、とうに感覚の閾値を超え、鈍い痺れへと変わっていた。それ以上に、魂に直接染み込んだような、鉛色の疲労がリスバートの全身を支配していた。眠っているのか、起きているのか、その境界すら曖昧になるほどの、深い消耗。
窓の外を、濃密な緑が、まるで生き物のようにうねりながら流れ過ぎていく。数日前までの、畑や穏やかな雑木林が点在する牧歌的な風景は、いつの間にか姿を消していた。天を突き、互いにその枝を絡ませ合うような巨大な針葉樹がびっしりと空を覆い尽くし、陽の光はその厚い天蓋に阻まれて、緑色の薄明かりとなって地面に届くのみだ。空気の質が、明らかに変わった。ひんやりと湿り気を帯び、肺を満たすそれは、幾千年もの間、人の手が触れることなく堆積したであろう腐葉土と、苔むした岩、そして古い樹脂が複雑に混じり合った匂いがした。だが、それだけではない。もっと深く吸い込むと、奥底に潜む、何かーー野性的で、それでいて神聖な、古く力強い生命の気配を感じる。それは、騎士団で対峙した凶暴な魔獣が放つ殺気や血臭とは全く異質だった。むしろ、畏敬の念を抱かせるような、清冽さすら伴う、圧倒的な存在の匂い。
「……もうすぐ、谷の入り口ですだ。旦那」
不意に、御者が言った。前を向いたまま、掠れた声。その声色には、長旅の終わりが近いことへの安堵は微塵もなく、代わりに、この先に広がる未知の領域に対する、ほとんど迷信に近いような恐怖と緊張が色濃く滲んでいた。この四日間、彼はリスバートたち——辺境へ向かう、事情ありげな元騎士とその幼い娘——に対して、業務連絡以外の言葉をほとんど発しなかった。その無関心さは、好奇心よりも、この旅路の終着点に対する本能的な忌避感が勝っている証拠だった。普通の人間にとって、この先は「踏み入れてはならない場所」なのだ。そしてそれこそが、リスバートがここを選んだ理由のひとつでもあった。人々の噂からも、同情からも、好奇の視線からも、遠く隔絶された場所。
リスバートは、重い瞼を押し上げ、無言で頷いた。そして、隣に座る娘、エララの小さな肩に、今度こそ、そっと手を触れた。温かいはずの体温が、なぜかひやりと冷たく感じられる。ぴくり、と娘の身体がこわばり、反射的にわずかに身を引いたのが、薄い旅装越しに痛いほど伝わってきた。拒絶。あるいは、ただの驚きか。判別がつかない。いや、判別したくないのかもしれない。自分の存在が、この子を怯えさせているという事実から、目を逸らしたいだけなのか。リスバートは、指先に残る娘の気配を振り払うように、手を自分の膝の上に戻し、固く握りしめた。
エララ。もうすぐ七歳になる娘。亡き妻リュンヌが、その命の灯火と引き換えるように遺していった、たったひとつの光。希望。未来。そうであるはずなのに。この半年、リスバートはこの小さな、かけがえのない存在と、まともに言葉を交わすことすらできていない。リュンヌが生きていた頃は、エララは小さな太陽だった。屈託なく笑い、その日の出来事を一生懸命に語り、時には癇癪を起こし、そしてすぐに甘えてきた。それが今はどうだ。まるで繊細なガラス細工のように、感情を表に出すことを恐れ、ただ静かに、自分の殻に閉じこもっている。色褪せた瞳は、窓の外の移り変わる景色を映してはいるが、何も見ていないかのようだ。
(俺が、この子の色を奪ってしまった)
その罪悪感が、冷たい水のように、心の底からゆっくりと満ちてくる。リュンヌの死。そして、その悲しみに沈むあまり、父親としての役割を放棄してしまった自分。いや、それ以前からだ。リュンヌが病に苦しんでいた時でさえ、自分は騎士団の任務を言い訳に、どれだけ彼女と、そしてエララと向き合ってこられただろうか。
(リュンヌ、俺は、これで本当に良かったのか……? 君との約束を、果たせるのか……?)
まただ。あの痛みが、胸の奥深くで疼き始める。古傷、と呼ぶにはあまりにも生々しく、常に膿んでいるような、鈍い痛み。
それは、二重写しになっている。
リュンヌを喪った、まだ半年しか経っていない、生々しい喪失の痛み。そして、それよりも遥かに深く、遠く、魂そのものに焼き印のように刻まれた、前世での取り返しのつかない後悔。仕事、仕事、仕事。それが全てだった。家庭を顧みず、病の妻・美咲が発するいくつものSOSのサインを見過ごし、あるいは、見ないふりをして、彼女を孤独のうちに死なせてしまった、あの日の、身を切るような痛み。
『あなたに、そばにいてほしかった……。ただ、それだけだったのに……』
美咲は、そう言ったのだろうか。言えずに逝ったのだろうか。記憶は霞がかかったように不確かだ。確かなのは、間に合わなかったという事実と、病院の消毒液の匂い、無機質な白い天井、そして、彼女の手を握ることすらできなかった自分の、凍りついた指先の感覚だけ。
そして、リュンヌ。
『エララのこと、お願いね。あの子が、ちゃんと笑って生きていけるように……。あなたなら、きっと……』
今度こそ、と誓ったはずだった。前世の過ちを繰り返すまいと。騎士団の激務の中でも、時間を見つけては家に帰り、リュンヌを支え、エララと遊んだ。それでも、足りなかったのだ。重要な遠征任務。王国全体の命運を左右するかもしれない局面。それを優先した結果、リュンヌの容態が急変したという知らせを受けたのは、敵地の砦を攻略した直後だった。馬を乗り潰す勢いで駆け戻った時には、もう、リュンヌの瞳に光はなく、その手は驚くほど冷たくなっていた。
間に合わなかった。またしても。同じだ。結局、俺は何も変わっていなかった。
二度の人生で、二度までも、同じ過ちを犯した。愛する人を、その最期の時に、腕の中で看取ることすらできなかった。この事実は、リスバートの自己肯定感を根こそぎ破壊していた。自分は、大切な人を幸せにするどころか、不幸にしかできない存在なのではないか。愛する資格も、愛される資格もない、欠陥品なのではないか、と。
だから、逃げ出した。全てから。
王都の喧騒。騎士団の名誉と仲間。そして何より、自分を憐れむか、あるいは非難する他者の視線から。「奥さんに続いて旦那まで腑抜けちまって」「元々家庭向きの男じゃなかったんだろ」「残されたお嬢さんが不憫だ」。そんな声が、幻聴のようにまとわりついて離れなかった。
だから、望んだのだ。この、竜の谷の管理人という職を。人々から忘れられ、恐れられている場所。リュンヌが好きだった場所、という感傷的な理由を胸の奥に隠しながら。本当の動機は、もっと利己的で、臆病なものだ。誰の目も届かない場所で、エララと二人きりになり、これ以上傷つくことも、傷つけることもないように。そして願わくば、三度目の破局ーーこの子まで喪ってしまうという最悪の事態だけは、避けられるように。それは、父性というよりも、傷ついた獣が自分の巣穴に引きこもるのに似ていた。
「……着きましたぜ、旦那。谷の入り口です」
御者の、どこか投げやりな声が、馬車の扉を開ける軋んだ音と共に、リスバートを暗い思考の淵から引き揚げた。
外の空気が、濃密な生命の匂いを乗せて、一気に流れ込んでくる。苔と土と、そしてあの、畏敬の念を抱かせる、古く力強い存在の気配。
リスバートは、深呼吸を一つして、ゆっくりと馬車を降りた。湿り気を含んだ柔らかな腐葉土が、騎士用の硬いブーツの底を優しく受け止める。空気が、ひんやりと肌を撫でた。
そこは、巨大な窪地を一望できる、切り立った崖の縁だった。
「馬車はここまでです。道らしい道も、この先はありやせん。あちらの、崖に据え付けられているのが、管理人用の荷運びリフトですが……まあ、何十年も前の代物で、動くかどうか。あとは、ご自分で荷物を運んでいただくしか。あっしは、これで失礼しやすんで」
御者は、背後の暗い森を気にしながら、崖下のリフトらしき古びた木製の昇降機を顎で示した。その態度は、一刻も早くこの場を立ち去りたいという意思を隠そうともしていない。リスバートは、謝礼の銀貨を渡し、逃げるように去っていく馬車を見送った。
そして、娘に向き直る。エララは、いつの間にか馬車から降りて、崖っぷちに立っていた。その小さな背中が、目の前に広がる、想像を絶する光景に、完全に心を奪われているようだった。
リスバートも、娘の隣に並び、眼下に広がる世界を見下ろした。
呼吸を、忘れた。
言葉では言い表せない、圧倒的なスケール。まるで、世界が生まれた瞬間の景色が、そのまま封じ込められているかのようだ。神が、あるいはそれ以上の存在が、気まぐれに大地を巨大な匙で抉り取ったかのような、雄大な窪地。谷底まで続く斜面は、人の手が一切入ったことのない、濃緑の原生林に覆い尽くされている。その森を縫うように、幾筋もの滝が、陽光を浴びて虹色の飛沫を上げながら白銀の糸となって崖を滑り落ち、深い緑の中へと吸い込まれていく。その轟音が、風の音に混じり、ここまで荘厳な交響曲のように響いてくる。切り立った崖は、文字通り天まで届くかのように聳え立ち、天然の要塞となって谷を外界から守っていた。ここは、地図にも載らない、神聖な場所。
そしてーー彼らが、いた。
生命の、原初の姿。
悠然と、ただ、そこに存在していた。
谷底を蛇行する川のほとりで、長い首を水面に浸し、喉を潤しているらしい赤銅色の鱗を持つ巨体。中腹の、陽の光が惜しみなく降り注ぐ広大な岩棚の上で、まるで巨大な猫のように身体を丸め、微睡んでいる数頭の影。そして、頭上のはるか高み、蒼穹を背景に、全長数十メートルはあろうかという巨大な翼を広げ、上昇気流を捉えて、優雅に、しかし力強く旋回する黒いシルエット。
竜。
伝説や紋章の中の存在ではない。血の通った、息遣いさえ聞こえてきそうな、実在の生命体。鈍く光る鱗は、あるものは岩肌のように、あるものは古びた金属のように見えた。大地を踏みしめる四肢は、巨木のように逞しく、しなやかな長い首と尾は、自然が生み出した究極の機能美を感じさせた。その動きの一つ一つが、ゆったりとして、威厳に満ち、無駄がない。リスバートは、元騎士として培った本能で理解した。彼らは、自分がこれまで対峙してきたどんな魔獣とも次元が違う。単なる力だけではない。そこには、計り知れないほどの長い時間を生きてきた者だけが持つ、深い叡智と、そしてーー人間という種族の営みなど、彼らの時間のスケールから見れば瞬きにも等しい、というような、絶対的なまでの隔絶感が存在していた。
この、神々しくも恐ろしい光景を前にして、リスバートは自分が抱える苦悩や後悔が、いかに人間的な、矮小なものであるかを突き付けられる思いだった。だが同時に、こんな場所で、自分のような欠陥を抱えた人間に、一体何ができるというのだろうか。エララを守り、育むという、リュンヌとの約束を、果たせるのだろうか。新たな、そしてより根源的な不安が、胸の奥底から湧き上がってきた。
「……きれい……」
隣から、か細い、だがはっきりとした声が聞こえた。
驚いて見ると、エララが、身じろぎもせずに谷を見つめていた。その大きな瞳は、これ以上ないほどに見開かれ、深い感動の色に染まっている。頬は高揚し、微かに開かれた唇からは、熱っぽい吐息が漏れていた。さっきまでの、心を閉ざした人形のような姿は、そこにはなかった。恐怖ではない。ただ純粋な、魂の奥底から湧き上がってくるような、深い畏敬と憧憬。
「ああ……本当に、きれいだな」
リスバートは、娘の横顔に、今は亡き妻リュンヌの面影を、あまりにも鮮やかに見て、声が震えるのを抑えられなかった。美しいもの、雄大なものに、素直に心を動かされる感受性。それは間違いなく、リュンヌから娘へと受け継がれた宝物だ。この谷が、この隔絶された世界が、もしかしたら、閉ざされた娘の心を、ゆっくりと開いてくれるかもしれない。そんな、淡く、しかし切実な希望の光が、リスバートの心にも差し込んだ気がした。それこそが、リュンヌが、あるいは前世の美咲でさえも、願っていたことなのかもしれない、と。
管理人用の小さな小屋は、崖の中腹、谷全体を見渡せる、わずかに開けた場所に、まるで鳥の巣のようにへばりついて建っていた。石と、この谷で育ったのであろう太い丸太で組まれた、飾り気のない、しかし風雪に耐え抜いてきたであろう頑丈そうな家だ。古びた手動式のリフトを、全身の体重をかけて軋ませながらなんとか動かし、最低限の生活物資を運び込む。中は思ったよりも広く、がらんとしていた。石造りの壁が、外の暑さや寒さを和らげてくれるのだろうが、今はひんやりとした空気が漂い、長い間、人の温もりがなかったことを物語っている。部屋の中央には大きな暖炉があり、その煤けた様子が、ここで幾人もの管理人が冬を越してきたことを示していた。深い傷の刻まれた大きな木のテーブルと、不揃いな椅子が二脚。壁際の作り付けの棚には、革の表紙が擦り切れた分厚い日誌が数冊と、錆びついたナイフや、用途の判然としない木製の道具などが、埃をかぶって並べられていた。寝室は二つ。簡素だが、清潔には保たれているようだ。二人で暮らすには十分すぎる空間だが、そのだだっ広さが、かえって二人の孤独を際立たせているようにも感じられた。
リスバートは、まず暖炉に火を入れることから始めた。古い薪が棚に残っていたのは幸いだった。パチパチと火が爆ぜる音が、ようやくこの静まり返った空間に、微かな生命感を吹き込んでくれる。そして、携帯食料で簡単な夕食の準備をした。干し肉をナイフで削ぎ、硬いパンを切り分け、鍋でハーブ入りのスープを温める。荷解きは後回しだ。今はまず、この冷え切った場所と、冷え切った父娘の関係に、少しでも温もりを取り戻すことが先決だった。
「エララ、ご飯にしよう。温かいスープを飲むといい」
窓辺に椅子を引き寄せ、飽きることなく谷の夕景を眺めていた娘に声をかける。茜色に染まった空の下、竜たちのシルエットが、巨大な影絵のように動き、あるいは静止している。エララは、ゆっくりと振り返り、こくりと小さく頷いた。テーブルについた娘の前に、湯気の立つスープの椀と、パンと干し肉を載せた木の皿を置く。エララは、小さな手でスプーンを握りしめた。だが、すぐにそれを口に運ぼうとはしない。その視線は、テーブルの上の粗末な食事と、リスバートの顔とを、何かを探るように、ためらいがちに行き来している。
何を考えているのだろう。お腹が空いていないのか? それとも、俺の作ったものが、口に合わないとでも言うように? あるいは、ただ……。
リスバートには、その沈黙の理由がわからない。父親失格だ、と胸の内で自嘲する。リュンヌなら、きっと、この子の心の扉を優しくノックする言葉を知っていたはずだ。彼女は、エララが言葉を発する前から、その泣き声や表情だけで、何を求めているのかを的確に理解していた。それに比べて、自分はなんと不器用で、鈍感なのだろうか。
「……ここの景色は、素晴らしいな。毎日これが見られるというのは、贅沢かもしれない」
口をついて出たのは、当たり障りのない、中身のない言葉だった。会話のきっかけを、ただ探しているだけの、空虚な響き。
エララは、スープの湯気を見つめたまま、こくりと小さく頷いただけだった。
「母さんも……きっと、この景色を、喜んだだろうな……」
まただ。口にしてから、しまった、と思う。リュンヌの名前は、まだエララにとって、そして自分にとっても、鋭すぎるナイフなのだ。案の定、エララの肩がびくりと震え、小さな顔が俯いてしまう。長い睫毛が、頬に影を落とした。
重苦しい沈黙が、部屋を支配する。暖炉の薪が爆ぜる音だけが、やけに大きく響いた。リュンヌが生きていた頃の、暖かく、時には騒がしい食卓の光景が、幻のように脳裏をよぎる。エララの、その日あった出来事を夢中で話す高い声。それを、穏やかな笑顔で聞き、優しく相槌を打つリュンヌ。そして、その輪の中にいながらも、どこか心ここにあらずで、騎士団の報告書や次の任務のことを考えていた自分。
なんという愚かさだったのだろう。失って初めて気づくのでは遅いのだ。前世の美咲との関係で、痛いほど学んだはずなのに。なぜ、また同じ過ちをーー。
(俺は、きっと、変われないのかもしれない)
自己嫌悪が、冷たい泥のように心を覆う。
「エララ」
ほとんど衝動的に、娘の名前を呼んでいた。これ以上、この息苦しい沈黙に耐えられなかった。
エララが、ゆっくりと顔を上げる。涙は流していない。だが、その大きな、母親によく似た深い色の瞳は、悲しみと、そして何かを問うような、強い光を宿して、真っ直ぐにリスバートを捉えていた。
「……大丈夫だ」
リスバートは、自分に言い聞かせるように、絞り出すように言った。声が、震えているのが自分でもわかった。大丈夫な根拠など、どこにもない。それでも、言わなければならなかった。
「大丈夫。これからは、ずっと、パパがそばにいる。……だから、大丈夫だ」
震える手で、娘の小さな手にそっと触れる。今度は、拒まれなかった。だが、力なく置かれたままの小さな手は、驚くほど冷たかった。
「パパが、必ず、エララを守る。……約束する」
それは、リュンヌへの誓いであり、美咲への贖罪であり、そして、自分自身に課した、あまりにも重い、三度目の挑戦への宣誓だった。
エララは、何も答えなかった。ただ、父の顔をじっと見つめ返していた。その瞳の奥で、何かとても繊細で、壊れやすいものが、風の中の蝋燭の炎のように、懸命に揺らめいているように見えた。信じたい、でも信じられない。そんな葛藤が、幼い顔に痛々しく浮かんでいた。
その、張り詰めた静寂を破ったのは、谷底からの響きだった。
ふぉおおーーーーーーーーん……。
空気を震わせ、小屋の石壁さえも微かに共鳴させるような、長く、低く、深く、そしてどこか、人間の感情を超越したような、物悲しい咆哮。
竜の声。
それは、単なる獣の威嚇や呼びかけではなかった。もっと古い、この谷が刻んできた幾万年の時そのものが、嘆いているかのような響き。あるいは、失われた太古の記憶を呼び覚ます、魂への呼び声。
エララの小さな身体が、はっきりと震えた。だが、それは恐怖からだけではないようだった。むしろ、その響きに耳を澄ませるように、顔を上げ、窓の外の闇を見つめている。その横顔には、先ほどの悲しみとは違う、未知なるものに対する、強い緊張と、そしてーー惹きつけられるような、不思議な光が宿っていた。
リスバートもまた、背筋に走る、原始的な恐怖とは異なる種類の戦慄を感じながら、窓の外へと目を向けた。深い、深い闇が、もうすぐそこまで迫っていた。その闇の向こうに広がる、人知を超えた存在が支配する聖域。
ここで生きていくのだ。
この、圧倒的な自然と、二つの決して癒えることのない喪失の記憶、そして、守ると誓ったこの小さな、壊れそうな命と共に。
胸の中に渦巻くのは、先の見えない不安と、それでも消すことのできない父親としての責任。そして、二度の人生を通じて刻まれた、あまりにも深い後悔の痛み。
夜の闇が、崖っぷちに立つ小さな管理人小屋を、そしてそこに身を寄せた父娘の、途方もなく重く、そして不確かな未来を、静かに、しかし確実に、呑み込もうとしていた。
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