『虫偏の記憶帖(むしへんのきおくちょう)』

Algo Lighter アルゴライター

第1話 蛍 『夜をともす』

田んぼを渡る風が、ぬるく頬を撫でた。

夜の帳がすっかり下りた道を、僕は一人歩いていた。


あぜ道の脇では、カエルたちの声が、切れぎれに重なり合っている。

湿った土の匂い。遠くで誰かの笑い声。


ポケットの中で、小さく丸めた祖母のハンカチを握りしめた。


──ばあちゃんは、蛍を見に行くのが好きだった。


「蛍はな、天に帰る魂や。大事なもんを、あんたにも見せたかった」


そんなことを言って、夏の夜になると僕を連れ出していた。

だけど、去年の冬、ばあちゃんは帰らぬ人になった。


ふと、草むらの奥で、ひとすじの光がふわりと浮かんだ。

それを見た途端、僕の足は自然にそちらへ向かっていた。


光はひとつ、またひとつ。

緩やかに、夜空を仰ぐように舞い上がっていく。


そっと手を伸ばすと、蛍の光が指先をすり抜けた。

何も掴めない。けれど、温かいものが、胸の奥でふくらんでいった。


目を細める。

暗闇のなか、無数の小さな灯が、波のように揺れている。


ばあちゃんが、言ってた。


──消えそうでも、消えんと頑張っとるんやで。


僕は空を見上げた。

星々と蛍の光が、ひとつの川みたいに繋がっていた。


涙が出そうになる。

でも、それは寂しいからじゃない。たぶん、ありがとうっていう気持ちだった。


手のひらを広げる。

夜風が通り抜けて、ハンカチがふわりと舞った。

まるで、それ自体が一匹の蛍になったみたいに、光をまとって。


僕はそっと、胸の中で言った。


「ばあちゃん、見とる?」


暗がりの向こうで、またひとつ、蛍が瞬いた。


──


蛍。

夜に小さな火をともす、迷わぬ魂。

僕はあの光を、ずっと胸に灯して生きていく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る