鍵盤の陰陽師 棗椰京理の旋律と恋の騒乱

坂倉蘭

第1話 夕暮れの鍵盤の秘密

 教室は夕陽の琥珀色の光に浴していた。開け放たれた窓から差し込む光は、まるで液体の金のように床に広がり、かすかに揺れるカーテンを優しく撫でる。


 空気には桜の花びらの香りが漂い、春がまだ名残惜しそうにそこに留まっていることを知らせていた。丘の上に佇む日ノ出高校は、放課後の静けさに包まれていた。


 遠くで運動部の掛け声や、木々の葉が擦れ合う音が聞こえるだけだ。しかし、2年B組の教室では、まったく別の音が支配していた――鍵盤から紡ぎ出される、繊細かつ力強い音の連なり。


 ピアニスト、作曲家、あるいは音の魔法使い――どれも、この鍵盤に触れる少年には当てはまらないようで、しかしどこか当てはまる。


 棗椰京理(ナツメヤ・キョウリ)、高校2年生。彼は一見、典型的な「陰キャ」だった。漫研の部室で『魔法少女リリカル☆スターライト』の第3シーズンが第2シーズンに比べてどうか、熱く語り合う少年。声は小さく、友達の笑い声にかき消されがちだ。


 だが今、京理の指がピアノの鍵盤を滑るように舞い、教室に響くのはショパンの『ノクターン第2番 変ホ長調 作品9-2』。その旋律は、まるで春風のように柔らかく、しかしどこか切なく、聴く者の心を掴んで離さない。


 普段は顔を隠すように垂れた黒い前髪が、今は後ろに撫で付けられ、鋭い目元と整った顔立ちが露わになっている。

 だぼっとしたパーカーを脱ぎ、シャツの袖をまくった彼の姿は、まるで別人だ。背筋は伸び、視線は鍵盤ではなく、遠くの見えない地平線を捉えているかのよう。


 カーテンが風に揺れ、夕陽が彼の横顔を照らす。その光景は、まるで一枚の絵画――いや、アニメのワンシーンだ。


 京理はなぜ、こんな時間に、誰もいない教室でピアノを弾いているのか?


 その答えは、彼の過去と、彼が抱える「呪い」にあった。


 京理がピアノに触れたのは、6歳の頃だった。実家には古いアップライトピアノがあり、母が趣味で弾いていた。ある日、京理が何気なく鍵盤を叩くと、母は驚いた。


「京理、才能あるかもよ」


 と笑い、簡単な曲を教えてくれた。それが始まりだった。クラシックからポップスまで、京理は驚くほど早く上達した。だが、彼が本当に夢中になったのは、アニメの主題歌だった。『リリカル☆スターライト』のOPを耳コピで弾いたとき、母は目を丸くし、父は「将来はピアニストだな!」と大笑いした。


 しかし、中学に入ると、状況が変わった。京理は自分の「オタク」な趣味を隠すようになり、ピアノも人前で弾かなくなった。理由は単純――「ダサい」と思われたくなかったからだ。


 クラスの陽キャたちが「アニメとかキモい」と笑うのを聞き、京理は自分の世界を閉ざした。漫研に入り、そこで初めて「自分を隠さなくていい」場所を見つけたが、ピアノは実家のリビングに置き去りにされた。


 問題は、高校進学と同時に起きた。一人暮らしを始めた京理は、マンションの騒音問題でピアノを持ち込めなかった。


 すると、奇妙なことが起こり始めた。


 ピアノを弾かない日が続くと、無性にアニソンを大声で歌いたくなる衝動に駆られたのだ。最初は我慢したが、ある日、夜中のコンビニで『リリカル☆スターライト』のEDを熱唱してしまい、店員に怪訝な目で見られた。


 それ以来、京理は確信した。「これは呪いだ」と。


 彼はそれを「中二病」と呼んだ。毎日1時間、ピアノを弾かないと、アニソンが抑えきれなくなる病気。医者に相談するような話ではない。


 京理は自分で解決策を見つけた――学校の音楽室だ。放課後、誰もいない時間を見計らい、教室や音楽室のピアノを借りる。そこなら、誰にもバレず、騒音も気にせず弾ける。


 こうして、京理の秘密の習慣が始まった。


 教室のピアノに触れるとき、京理は変わる。普段の気弱な少年は消え、自信に満ちた「ピアニスト京理」が現れる。

 髪をオールバックにし、シャツのボタンを一つ外す。まるでスイッチを切り替える儀式だ。


 彼は自分でも気づいている――この姿の自分は、漫研の仲間が見たら「誰!?」と叫ぶだろう。でも、それが心地いい。音楽は彼を解放し、彼を「本当の自分」に近づける。


 今日、京理が選んだのはショパンだった。アニソンも好きだが、クラシックの深い響きは彼の心を落ち着ける。指が鍵盤を滑り、音が教室を満たす。窓は全開、カーテンが風に揺れる。


 彼は知らない。その音色が、廊下を歩く数人の女生徒の足を止めていたことを。


「ねえ、このピアノ…誰が弾いてるの?」

「こんな綺麗な音、初めて聞いた…」

「絶対、イケメンよね! 探さなきゃ!」


 囁き声が、京理の演奏に溶け合う。彼は気づかない。自分の秘密が、校内に波紋を広げ始めていることを。


 京理が学校でピアノを弾く理由は、単なる「中二病」対策ではない。


 実家を離れ、一人暮らしを始めた彼は、どこかで「自分」を失いそうだった。漫研は楽しい。友達は優しい。


 でも、そこで彼は「オタクの京理」としてしか存在できない。


 ピアノは違う。鍵盤に触れるとき、彼は「棗椰京理」そのものになれる。誰の目も気にせず、ただ音と向き合う時間。それは彼にとって、生きるための儀式だった。


 学校のピアノは、偶然の産物だ。1年生のとき、音楽室で古いピアノを見つけた。誰も使わない、埃をかぶった楽器。試しに弾いてみると、音は驚くほど澄んでいた。

 それ以来、京理は放課後の教室や音楽室を「自分の場所」にした。窓を開けるのは、音が外に漏れるのを防ぐためではない。


 ただ、風を感じたかった。


 カーテンが揺れるのを見ると、まるで音楽が目に見えるようで、京理はそれが好きだった。


 演奏が終わると、京理はゆっくりと鍵盤から手を離した。夕陽が教室を赤く染め、カーテンが最後の揺れを止める。


 彼は髪を元に戻し、パーカーを着直す。ピアニスト京理は消え、いつもの陰キャ少年が戻る。だが、彼の心は軽い。今日も「呪い」を抑えられた。


 満足げに教室を出ようとしたそのとき、廊下の物陰で動く影に気づかなかった。


 三つの視線。

 一つは、驚きと懐かしさに揺れる瞳。

 一つは、好奇心と野心に燃える瞳。

 一つは、無垢な憧れに輝く瞳。


 京理の音楽は、知らず知らずのうちに、誰かの心に届いていた。

 そして、その旋律は、彼の日常を大きく変えようとしていた。

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