死者の后 ~後宮に蠢く影~
匙
第1話 霧に沈む華
――何もない。
真っ白な霧だけが、世界を覆っていた。
琳璃は、冷たい石畳の上で目を覚ました。
濡れたような感触が、手のひらを伝う。けれど、どこにも水溜まりなど見当たらない。
(……ここは、どこ……?)
思考は濁っていた。
最後の記憶は、暗い夜道。
傘もささずに帰宅途中、ふいに視界が黒く染まり――その先は思い出せない。
それでも、確信だけはあった。
私は――死んだのだ。
その確信を否応なく裏付けるように、目の前に広がる景色は異様だった。
精緻な彫刻が施された朱塗りの門、金糸で織られた錦繍の垂れ幕。
見たこともない、異国の後宮を思わせる建築様式。
重たく沈んだ空気の中、遠くで鈴の音が、かすかに揺れていた。
「……お目覚めですか、琳璃さま」
突然、背後から声が響いた。
その声は、優しくも無機質で、まるで決まりきった台詞のように響く。
琳璃という名前――
その名を呼ばれた瞬間、彼女は思わず体を震わせた。
「琳璃さま?」
聞き覚えのない名前だった。
確かに、彼女には自分に名があったことを覚えていた。だが、それはまったく別のものだ。
自分が死んだはずの現実で、目の前に立つ人々に呼ばれる名前――その名前が、まったくの他人のように感じられた。
(私の名前は……違う。)
心の中で何度もその言葉を繰り返しながら、振り向くと、幾人かの女たちがこちらを見ていた。
ひとりは濃紺の衣に銀の刺繍をあしらい、長い黒髪をゆるやかに結い上げている。
もうひとりは、淡い緑の薄絹を幾重にも重ね、蝶の細工をあしらった髪飾りを揺らしていた。
彼女たちは皆、美しかった。
だが、その美しさはどこか作り物めいていた。
目が合った瞬間、琳璃はぞっとした。
笑みを浮かべる唇とは裏腹に、瞳には生気がなかった。
それは、命ある者の目ではない。
まるで、空洞をただ光だけがかすめているような――そんな眼差しだった。
「ご無事で何より。赫蓮さまも、さぞお喜びでしょう」
赫蓮――。
その名前が耳に残った。
どこか懐かしさを覚えたような気もするが、何も思い出せない。
何かに引き寄せられるような、無意識に魅了されるような感覚が胸を支配する。
「……赫蓮さま、とは?」
琳璃はつい口をついて出た問いを、すぐに後悔した。
それは、まるで知っているべきことを知らない自分が、どこかおかしいことに気づいた瞬間のような、深い不安を呼び起こした。
「まもなく……おわかりになりますわ」
「ええ、すぐに……」
女たちは、歩み寄ってくる。
一歩、また一歩。
裾を引きずるように、かすかに湿った音を立てながら。
琳璃は本能的に後退った。
だが、背中にあたる石壁の冷たさに、すぐさま動きを封じられる。
そのとき、気づいた。
女たちの足首から、どろりとしたものが滴り落ちている。
最初は泥水かと思った。
だが、それは黒々とした液体で、肌に触れた場所からじわじわと石を蝕んでいた。
「琳璃さまも、すぐにこちら側に」
「赫蓮さまのお傍に」
女たちの囁きが、霧に溶ける。
纏う衣は絢爛で、細工も施されているのに、ところどころに破れや焼け焦げた痕がある。
まるで、火に焼かれた過去を隠しきれずにいるかのように。
琳璃の喉がからからに乾いた。
息を吸うたび、霧の中に、何か甘ったるい、腐った果実のような匂いが混じる。
「いや……」
声にならない声を吐き出す。
女たちが手を伸ばしてきた。
その指先は、爪の代わりに黒い棘のようなものが生えていた。
触れられたら、二度と人間ではいられない。
そんな確信が、胸を締めつけた。
琳璃は裾を蹴って、駆け出した。
どこへ向かえばいいかなど考えず、ただ、この場から逃げ出したくて。
背後で、絹ずれの音と、低いうめき声が追いかけてくる。
「赫蓮さまに……」
「赫蓮さまに、喰われるのです」
女たちの声が、追い詰めるように響いた。
琳璃の心臓が激しく跳ね上がり、足元がふらつく。
そのとき、ふと耳に届いた。
――"帰れないよ"
子どもの声。
それは、霧の中から、すぐ背後から聞こえた。
琳璃は振り返らない。
振り返ってはいけない気がした。
だが、背後に確かに気配があった。
小さな足音。くぐもった笑い声。
触れられる寸前のところで、霧がそれを隠しているだけだ。
心臓が早鐘を打つ。
呼吸が乱れる。
足がもつれ、ついに琳璃は石畳に倒れ込んだ。
痛みはない。
けれど、霧の中から伸びる無数の白い手が、琳璃を引きずり込もうとしていた。
「だめ……!」
叫び、必死で手を払う。
しかし、次の瞬間――
「あら、琳璃さま。そんなに怖い顔をなさらないで」
すぐ目の前に、ひとりの妃が立っていた。
彼女は、真紅の衣を纏い、緻密な銀細工の髪飾りを無数に揺らしている。
肌は雪のように白く、唇だけが血のように赤い。
微笑むその顔の下で、首筋に深い裂け目が走っていた。
裂けた傷口の奥で、何か得体の知れないものが蠢いている。
琳璃は、声もなく震えた。
「ああ……琳璃さま。
これから、楽しいことが、たくさんございますわ」
妃は、裂けた首をゆらりと傾けながら、琳璃に手を伸ばしてきた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます