【中世錬金術修道女短編小説】ラグーナの薔薇と魂のアレンビック ~魂の錬金術、アンジェリカと神の見えざる手~(約23,000字)
藍埜佑(あいのたすく)
第一章:潟(ラグーナ)に沈む魂、答えなき問い
見よ、我が愛しき娘、アンジェリカを。
彼女の魂は、アドリア海の真珠、ヴェネツィアの
若き日の誓いによって我が家に身を捧げた敬虔なる魂。
しかし今、その清らかな水底には、親しき者の死という石が投じられ、静かな波紋が広がっている。
問いは、祈りにかたちを変えて天に昇る。
なぜ、与え、そして奪うのか、と。
我が計画の壮大さは、有限の生を生きる彼女たちには容易に理解できぬものかもしれぬ。だが、その問いこそが、彼女を更なる深みへと誘うであろう。我が創造の神秘、その一端を、彼女自身の内に見出す旅へと。
◆
一五七五年、晩秋。ヴェネツィア共和国、サン・ミケーレ島に近い小島に建つ聖クララ女子修道院の空気は、重く、冷たく沈んでいた。
数週間前に若き修道女、シスター・クララが、当時この水の都を再び脅かし始めていた黒い病――ペストによって、あまりにも早く神の御許へ召されていったからだ。その死は、修道院の壁の内側にさえ、死すべき運命(モルタリタス)の影が容易に忍び寄ることを、改めて思い知らせるものだった。
シスター・アンジェリカは、回廊の冷たい石畳の上に膝をつき、窓の外で鉛色に揺れるラグーナの水面を眺めていた。彼女の心もまた、この灰色の水面のように、静かでありながら底知れぬ悲しみと疑問で満たされていた。クララは、アンジェリカにとって妹のような存在であり、共に神への道を歩む無二の友であった。その彼女が、高熱と苦痛の末に、痩せ衰えた身体から魂が抜け出るようにして息を引き取った。その光景が、祈りの最中にも、不意にアンジェリカの脳裏をよぎる。
「主よ、なぜ……。なぜ、かくも若く、清らかな魂を、これほど早くお召しになったのですか?」
アンジェリカの唇から、祈りとも嘆きともつかぬ言葉が漏れた。
彼女はヴェネツィアの由緒ある貴族、コンタリーニ家の娘として生まれたが、早くから世俗の栄華よりも神への奉仕に心を惹かれ、家族の反対を押し切ってこの修道院に入った。書物を愛し、特に聖書や教父たちの著作、そしてアリストテレスなどの古代哲学者の思索に触れることに喜びを見出す、知的好奇心の強い娘だった。修道院の薬草園の手入れも彼女の重要な仕事であり、植物の成長と枯死、薬効と毒性の中に、神の創造の神秘と法則性を感じ取ろうとしていた。
しかし、クララの死は、アンジェリカがこれまで築き上げてきた信仰と理解に、大きな揺さぶりをかけた。
人は神によって創造され、その魂は不滅であり、肉体の死後に神の国へと迎えられる――それは、揺るぎない教義であり、アンジェリカ自身も深く信じてきたことだ。だが、目の前で見たクララの苦しみ、そして塵に帰っていく身体の儚さ。
その現実を前にして、「死」というものが、単なる魂の解放であるとは、どうしても思えなかった。死は、恐ろしく、残酷で、そして不可解なものとして、彼女の前に立ちはだかった。
「魂は、本当に、あの苦しみから解き放たれ、光の中へと昇っていったのでしょうか? それとも……この冷たいラグーナの底に沈むように、どこか暗く、寂しい場所を彷徨っているのでしょうか?」
アンジェリカは、胸の十字架を強く握りしめた。信仰が揺らいでいるわけではない。しかし、神の御業の全てが、人間の理解を超えたものであるとしても、もう少しだけ、その意味の片鱗でも知りたいと願わずにはいられなかった。なぜ、神は生を与え、そして死という終わりを用意されたのか。この肉体という、魂の「器」は、死後どうなるのか。それは単なる抜け殻なのか、それとも……。
その時、アンジェリカの内で、彼女自身も意識しないミクロのレベルで、無数の小さな生命たちが活動を続けていた。彼女の身体を構成する、目に見えないほどの微小な「
「同胞よ、感じるか? 我らが住まうこの聖なる器――アンジェリカ様の魂が、深い悲しみに揺れているのを」
セルラは、
「ああ、感じる。クララ様という、もう一つの美しい器が溶解し、その魂が天上の光へと還られたことへの悲しみであろう。だが、これもまた、全能なる創造主の定め給うた計画の一部。我ら小部屋もまた、定められた時が来れば、その構造を解き、構成していた精髄を他の部分へと譲り渡し、自らは分解していく運命にあるのだから」
隣の小部屋は、静かに応じた。彼らにとっては、個々の小部屋の「死」――つまり、その構造が失われ、機能が停止することは、悲劇ではなく、全体の調和と健康(※それは神の意図に沿った状態である)を維持するための、秩序だったプロセスなのだ。
「そうだ。我ら一つ一つの生命は儚いが、その儚い生命の連続と調和によって、アンジェリカ様という、祈り、思索し、そして神を愛することのできる、この奇跡的な存在が成り立っている。我らの『死』は、いわば神への捧げもの。古きものが去り、新しきものが生まれるための、聖なる循環の一部なのだ」
セルラは、自らの運命を、揺るぎない信仰と共に受け入れていた。彼らの世界では、「個」の利益よりも「全体」の調和が優先される。それは、神が設計した、完璧な秩序の現れだと信じられていた。
回廊に佇むアンジェリカは、もちろん、自らの内で交わされる、そのようなミクロの対話を知る由もない。ただ、ラグーナの水面を渡る冷たい風が、彼女の黒い修道服の
ふと、アンジェリカは、修道院の図書室で最近読んだ書物の一節を思い出していた。それは、異端の疑いも囁かれる錬金術に関する古い写本だった。
そこには、「万物は一者より生じ、一者へと還る」「下にあるものは、上にあるもののごとく」といった、謎めいた言葉が記されていた。
物質の変成、卑金属から貴金属への転換……それらは迷信として教会から警戒されてはいたが、アンジェリカはその奥に、単なる物質的な欲望ではない、世界の根源的な法則を探求しようとする意志を感じ取っていた。
「死もまた、一種の『変成』なのでしょうか……? 身体という『卑金属』が分解され、魂という『貴金属』が抽出されるという……」
そんな考えが頭をよぎり、アンジェリカは慌てて首を振った。不遜な考えだ。人間の魂と物質を同列に論じるなど、神への冒涜になりかねない。
しかし、一度芽生えた疑問の種は、簡単には消え去らなかった。
アンジェリカは立ち上がり、回廊を歩き始めた。彼女の足取りは重かったが、その心の中では、信仰と理性、教義と観察、そして古代の叡智と錬金術の秘儀が、静かに交差し始めていた。クララの死が投げかけた問いは、彼女を、これまで足を踏み入れたことのない、深遠な思索の迷宮へと誘おうとしていたのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます