第8話

 投稿から四十八時間。YOZORA〈Live Session〉の再生回数は五十万再生を超え、通知音は鳴り止まなかった。教室に入ると、いつもは俺たちに無関心だったクラスメイトが一斉に視線を向ける。


「音弥ってSORAだったんだな」


「すげえ、有名人じゃん」


「それで、リラも和人も突然仲良くなったんだな。いやあ、最初は驚いたぜ」


 そんな理由で俺たちはグループを組んだわけじゃない。


「いや、違うんだ」


「いいんだよ。もうそんなこと、どうだってね。音弥はわたしを救ってくれたんだからね」


 その言葉に呼応するように和人が、それでいて驚くことを言った。


「そうだぜ。俺は知ってたけどな」


「えっ!?」


「いや、なんでもない」


 和人は俺がSORAだと知っていた。じゃあ、あの時、驚いたのは演技だったと言うのか。


 俺は和人の後ろ姿を見つめながら、少し不信感を感じていた。


「行こうよ」


「ああ、リラ……」


 俺は和人の言葉が気にはなったが、それ以上聞く必要はない。言いたくなったら言ってくるはずだ。なんと言っても和人は恩人だ。


 放課後、ライブの当日券は昼休みに完売し、入口前には入場を待つ列が蛇のように伸びている。生徒会長の悠人は額に汗を浮かべ、受付で状況を捌きながら苦虫を噛み潰していた。


「……結局、君たちのステージ目当てで文化祭そのものがパンク寸前だ。責任、取ってもらうぞ」


 そう言いながらも、悠人は悔しさと羨望をごちゃ混ぜにした瞳で俺を見た。生徒会室でバンド申請を却下されかけた日と同じスーツ姿――だが今度は、彼の声が音響にかき消される。俺は軽く頭を下げ、ステージへ向かった。


 リハーサルは十分。照明スタッフが夜空色のブルーと紫のミックスを天井に走らせ、和人は手の甲で汗を拭いながらストラトの弦を張り替えている。リラはスタンドマイクを握りしめ、客席のざわめきに耳を澄ませていた。


 俺は和人の方をチラッと見た。大丈夫だ。和人は信用していい、はずだ。


「さあ、リハーサル通り、完璧にやろう!」


 俺がそう言うと、リラは胸の中央にそっと右手を当て、小さく頷いた。ステージ奥のLEDスクリーンには〈YOZORA – Reboot has begun〉の文字がゆっくりフェードインしている。深呼吸のリズムが同期するたび、胸骨の裏側で心臓が蹴り上げる。


 開演五分前。袖の暗がりで、ふと客席を見渡した。三列目――最前中央から少し左に、銀縁の眼鏡を指で押し上げる男がいた。世界的プロデューサー、そして俺の父親。高価そうな黒スーツの胸ポケットに真紅のチーフを挿し、周囲のざわめきとは別の空気を纏って座っている。喉がひときわ硬く鳴った。


 来てくれた……!


 期待と恐怖が爪を立てる。父親の前で失敗は許されない。だが今度こそ、俺の音で父親を振り向かせる。そのためにここまで来たんだ――。


 開演ブザー。客電が落ち、漆黒が講堂を支配する。背後のクリックが鳴り、和人が立ち位置を確認するサムアップを寄越す。俺は目を閉じ、四カウント後にキーを叩いた。緩やかなパッドが夜を溶かし、リフレインが静かに回り始める。


 リラが一歩前へ。スポットが細い光の柱で彼女を切り取り、マイクへ吐息が触れた瞬間――


♪ ――“優しさは 武器になる”――


 伸びやかで、熱い。映像では届かなかった声帯の震えが、満員の空気を震わせ、観客の表情を一斉に変えた。和人のクリーントーンが縫い目のように歌を支え、ハットが三小節目にアクセントを刻む。サビ直前、映像の〈YOZORA〉ロゴがスクリーンいっぱいに弾け、紫の光が会場を染める。


 ――跳んだ!


 ステージに立つ俺たちと客席が、同時に息を呑んで宙を飛ぶ。スマホライトが夜空の星座みたいに瞬き、歓声が波になって押し寄せる。リラの声に揺られながら、俺は客席を探す。父親の席は――あった。けれど、父親は腕を組んだまま、冷え切った視線で俺たちを見下ろしていた。眩しいステージ照明の中でさえ、父親の瞳は冬の夜空のように凍っている。


(見ろよ、俺たちを――!)


 曲が終わる。拍手と喝采が雷のように轟き、幕間なく二曲目に突入する。汗が首筋を滑り落ちても、指は狂わない。リラの高音が天井を割り、和人のギターソロに歓声が割り込む。三曲目、四曲目――時間の感覚が薄れていく。俺は父親の方へ視線を投げた。立ち上がるだろう。驚きの色を浮かべるだろう。俺の名を呼んでくれるはずだ。


 エンディングのシンバルが伸び、残響が暗闇に溶ける。ライトが落ち、観客が一斉にスタンディングオベーションで叫んだ。リラは泣きながら深く頭を下げ、和人はギターを掲げて歓声に応える。俺も二人と肩を寄せ、手を振った。ステージ袖から悠人が目を見開き、呆れたように拍手しているのが見える。だが――父親の席は、空だった。


 嘘だろ! 声にならない声が喉奥で渦巻く。観客の壁を縫うようにホールを走り、ロビーへ飛び出す。高い天井に反響する拍手の余韻を背に、出口の自動ドアの向こう、夜の冷気に混じって父の背中が遠ざかっていく。


「父さん!」


 呼び止める声は人波に吸い込まれ、届かない。追いついて肩を掴む。振り向いた父は険のない表情で、白い吐息をひとつ漏らした。


「──子供の遊びに、何を必死になっている」


 それだけを言い、俺の手を振り払って歩き出す。歩幅は遅いのに、距離だけが大きく開いた。街路灯の下、黒いコートが闇に溶けるまで、俺は動けなかった。


 掌に残る感触が、ギター弦より鋭く皮膚を切り裂く。胸の奥で何かが崩れ、焦土に火が走る。それでも耳に残るのは、講堂に響いた歓声と、リラの震える声。俺たちは夜空へ射出した火球だ。届かなくても、燃え尽きるまで光り続ける。


 ステージ裏に戻ると、リラが目を腫らして駆け寄った。


「お父さん……?」


「いや……なんでもない」


 リラはそれ以上、俺には聞いて来なかった。代わりに俺の肩を強く叩いた。


「もっと遠くへ飛ぼう。YOZORAで、世界を照らすまで」


 その言葉を聞いた瞬間、俺の気持ちに炎が再び燃え上がった。父親がどれほど冷たい闇でも夜を照らすのは、俺たちの光だ。


 悠人が呆れ顔で近づき、苦笑いを浮かべた。


「……やられたよ。お前たちのバンドを部活として認めてやる。好きにしてくれ」


「ありがとう、会長」


 握手を交わす指先に、鼓動が伝わる。この演奏会は通過点だ。夜景の向こう、摩天楼の裾で瞬く無数の窓明かりが、まるで観客のスマホライトの続きのように見えた。


 父さん、見ていろ。俺は子供の遊びで世界を獲る。夜空に刻むその決意だけが、今の俺の鼓動を繋ぎ止めていた。




――――――

(父親の視点)




「最後までいてあげたら、良かったのでは?」


「あんなので、成功したと思われては私の名が廃る……」


 秘書の声につい強い口調で答えてしまった。音弥が俺を脅かす存在になるかもしれない。一瞬、そんなことが頭をよぎった。


「歌うこともできない出来損ないの元子役に口パクさせて何が音楽だ!」


「口パク……ですか?」


「ああ、和人からの報告ではそう上がってきている」


「そうなんですか!? それ、マスコミにリークすれば、凄いことになりますね」


「そんなことできるか!」


 俺はそう言いながらも、音弥がもし俺に楯突くことがあった時には、考え方を変えてやる必要がある。そのためには本気で叩き潰す必要がある、と思った。


「会長、今日夜空いてますよ」


「じゃあ、ホテル予約しといてくれ」


「はい……」


 俺は隣に座る秘書の肩を抱きしめた。


「音弥よ、お前は何も分かっていない。女と言うのはこう言う生き物なのだ。女は富と名声に群がる。お前だって、俺に反抗しなければ、良いものを……」

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