凪の神
@hosi_645
第1話
まだ空が深い藍色に染まっている、明け方。一番鶏のとさかが、遠くでかすかに聞こえる。
土間の奥、かまどにくべられた薪が、ぱち、ぱち、と小さな音を立てて燃え始める。やがて、とんとん、と野菜を刻む小気味よい音が、静かな家の中に響きだした。朝餉の支度が始まる合図だ。
部屋の奥で、男の子は布団のぬくもりの中にいた。七つになったばかりの小さな体。かすかに聞こえる朝の物音、だんだんと漂ってくる味噌の香りに誘われて、ゆっくりと目を開く。障子の向こうが、ほんのりと明るくなり始めていた。起き抜けには眩しい光に顔を僅かにしかめながら、のそのそと布団から抜け出す。朝のひんやりとした板の間の感触が、足の裏に少しだけ心地いい。
「……おっかあ」
まだ眠たげな、小さな声。
すぐに台所から、母の優しい声が返ってくる。
「あら、凪、もう起きたのかい。おはようさん」
「ん……おはよう……」
凪と呼ばれた男の子は、とてとて、と小さな足音を立てて、母のそばへ向かう。
いつものように凪の頭を優しく撫でて朝餉の支度に母の背中を何と無しに見送る。湯気の向こうで、かいがいしく働く母のそばにいると、なんだかとても安心する。
「おっとおは?」
「もう畑を見に行ったよ。さ、凪も顔を洗っといで。水、汲んどいたからね」
「うん!」
元気よく返事をして、縁側へ出る。桶に張られた井戸水は、きんと冷たい。両手で水をすくって顔を洗うと、眠気はどこかへ飛んでいった。
やがて、畑から戻った父も加わり、家族三人、小さなちゃぶ台を囲んで朝餉が始まる。炊き立ての麦飯からは、ほかほかと湯気が立ちのぼる。味噌汁には、畑でとれた野菜がたっぷり入っていた。母が漬けた、きゅうりの香の物も並んでいる。みんなで一緒に食べるご飯は、いつもとても美味しかった。
父がぽつりぽつりと畑の話をし、母がうんうんと頷きながら聞いている。凪は、そんな二人の顔を交互に見上げながら、小さな口いっぱいにご飯を頬張った。口の周りに飯粒がついているのを、母が笑いながら指でそっと拭ってくれる。温かくて、当たり前で、きらきらした朝の時間。
食事が終わると、凪は母と一緒に部屋の隅にある小さな神棚の前に座った。使い込まれて少し黒ずんだ木の棚に、白い御札が大事そうに納められている。
この御札は山の神様の御札なのだと、この神棚の中から自分たち家族を見守ってくれているのだと母が言っていた。
「今日も一日、けがのないように、元気でいられますように見守っていてくださいって。ちゃんとお願いするんだよ」
凪は、教えられたとおりに、小さな手を一生懸命に合わせた。目を閉じて、心の中でお願いする。神さまがどんな顔をしているのか、見たことはないけれど、自分たちを守ってくれている。手を合わせていると、胸のあたりがほんわりと暖かくなるような、不思議な気持ちになるのだった。
今日は、空がどこまでも青く澄んで、気持ちのよい一日だった。父と母は、朝早くから畑に出て、土にまみれて働いた。凪も、そんな父と母にならって、畑の隅っこで一生懸命に草を抜いた。小さな手ではなかなかうまくできないけれど、二人の役に立ちたい気持ちでいっぱいだった。
疲れると、木陰に座って、畦道を駆けていくとかげを追いかけたり、空に浮かぶ雲の形を眺めたりして遊んだ。カッコウの声が、遠くの山から聞こえてくる。風が凪の頬を優しく撫でていく。汗をかいた体に涼しい風が心地よい。穏やかで、何も変わらない、いつもの一日。
陽が傾き、空が茜色に染まる頃、家族は囲炉裏のそばに集まって、夕餉を食べる。囲炉裏の火が、ぱちぱちと心地よい音を立てている。今日あったことを、三人でとりとめもなく話す。父が話す村の人の話、母が教えてくれる昔の話、そして少年が一生懸命に話す、今日の自分の発見。笑い声が、小さな家に響く。
明日も、きっとこんな一日が来るのだろう。
朝起きて、ご飯を食べて、畑に出て、夜になったらまた三人で笑って……。かけがえのない時間が、ただ静かに流れていた。
その日の空はどんよりと低く垂れこめていた。
じっとりとした嫌な空気が肌に張り付くような不快感。
家の中も、心なしかいつもより薄暗く感じる。
それでも、朝餉の支度をする母の音や、畑に出る準備をする父の気配はいつもと同じだった。凪も、いつも通りに起きて顔を洗い、神棚に手を合わせ、家族の無事を心の中でお願いした。けれど、胸のあたりが少しざわざわするような、嫌な感じがしていた。気のせいだと、自分に言い聞かせた。
家族三人で食卓についても、父も母も口数が少なく、どこか落ち着かない様子だった。凪が「どうしたの?」と聞いても、「なんでもないよ」と笑うだけだったが、その笑顔は少し強張っているように見えた。昨日聞いた、遠くの村の不穏な噂が、二人の心を重くしているのかもしれない。
昼過ぎ、凪が家の前で一人で土いじりをしていると、村へ向かったはずの父と母が慌てた様子で駆け戻ってきた。
「凪! はやく家の中に入れ!」
父の切羽詰まった声に、凪は驚いて顔を上げた。父の額には汗が滲み、母は真っ青な顔をしている。
「どうしたの、おっとお……?」
「いいから、はやく!」
有無を言わさず家の中に押し込まれ、父はすぐに雨戸をぴしゃりと閉め、太い
「……村の方が、大変なことになってる……」
父が、低い声で言った。
「……たぶん、野盗だ」
その言葉に、母がひっと息をのんだ。凪も、意味はよく分からないながらも、とてつもなく恐ろしいことが起ころうとしているのを感じて、体が震えた。
外から、たくさんの人の叫び声や、馬のいななき、何かが壊れる音が聞こえ始めた。だんだんと、その音は家に近づいてくる。
「おっかあ……怖いよ……」
凪は母にしがみついた。母は凪を強く抱きしめ、小刻みに震えている。父は、戸口の方を睨みつけ、固唾をのんでいた。
ドン! ドン! ドン!
突然、家の戸が激しく打ち鳴らされた。
男たちの怒鳴り声。戸が、ミシミシと嫌な音を立てている。
「いいか、凪。絶対にここから出るんじゃないぞ。おっかあのそばを離れるな」
父は凪の肩を強く掴んで言った。その手は、少し震えているように見えた。
外からは、怒声や金属のぶつかるような音が聞こえ始めていた。地面が、たくさんの足音で揺れているような気さえする。
「いやだ……怖いよ……」
凪は、母の着物の裾をぎゅっと握りしめた。母もまた、青ざめた顔で凪を強く抱きしめる。
「大丈夫、大丈夫だよ、凪……。おっかあがついてるからね……」
母の声も震えていた。
ドン、ドン、と先程よりも重く、乱暴な音。そして、男たちの野太い声。
「開けろ! いねえのか!」
戸が、みしり、と嫌な音を立てる。
父は、納屋から持ち出した錆びた鍬を固く握りしめ、戸口の方を睨みつけていた。母は凪を抱きしめたまま、息を殺している。
次の瞬間、バリバリッという大きな音と共に、家の戸が蹴破られた。
土足のまま、汚れた着物を着た、見知らぬ男たちが何人も、わらわらとなだれ込んでくる。手には、ギラギラと光る刃物や、太い棒を持っている。
「ひぃっ!」
凪は思わず短い悲鳴を上げた。母が慌てて凪の口を塞ぐ。
男たちは、家の中を見回し、卑しい笑みを浮かべた。
「なんだ、いたじゃねえか」
「金目のもんはどこだ!」
一人が父に掴みかかろうとする。父は鍬を振り上げて応戦しようとするが、多勢に無勢だった。
「凪! こっちへ!」
母が、凪の手を強く引いて、家の奥へと走った。押し入れを開け、中に凪を無理やり押し込む。
「いいかい凪、いい子だから、絶対に、ここから出ちゃだめだよ! 声も出しちゃだめ! いいね!?」
母は涙でぐしゃぐしゃの顔で、しかし強い口調で凪に言い聞かせた。そして、押し入れの襖をピシャリと閉めた。
真っ暗な押し入れの中。凪は、ただ体を小さく丸めて震えていた。外からは、父の怒鳴り声、母の悲鳴、男たちの下品な笑い声、物が壊れる音、そして、生々しい打撃音が聞こえてくる。
(おっとお……! おっかあ……!)
叫びだしたいのを必死でこらえる。母との最後の約束。「絶対に声を出すな」。
やがて、家の奥まで土足で歩き回る、荒々しい足音が近づいてきた。押し入れのすぐ前で、その足音が止まる。
次の瞬間、襖が勢いよくガラリと開けられた。
突然差し込んだ光に、凪は思わず硬直してしまった。目の前には、着物をはだけさせ、息を荒げた、知らない男の顔があった。ギラギラと光る目が、凪の姿を捉える。
「……ちっ、ガキが隠れてやがったか!」
男は舌打ちすると、凪の細い腕を乱暴に掴み、押し入れから力ずくで引きずり出した。
「いやっ!」
思わず声が漏れる。体が畳の上に転がされた。見上げると、血走った目をした男が、汚れたわらじ履きの足で自分を見下ろしている。家のあちこちが荒らされ、父が血を流して倒れているのが見えた。
「やめて! この子には……!」
母が、着物を乱しながらも、必死の形相で駆け寄ってきた。凪の前に立ちはだかり、両手を広げてかばうように叫ぶ。
「お願いです……! この子だけは……!」
しかし、男はまるで嘲るように刀を振り上げた。
一閃、母の体がゆっくりと凪に覆い被さるように倒れ、動かなくなった。赤い、赤い血が、畳の上にじわじわと広がっていく。
「……おっ、かあ……?」
凪の喉から、か細い声が漏れた。目の前で起こったことが信じられない。理解できない。ただ、母の温もりが急速に失われていくのだけは分かった。
男は、血に濡れた刃を忌々しげに振るうと、今度は凪に向き直った。その目には、何の感情も浮かんでいないように見えた。
「……次は、てめえだ」
冷たい声と共に、刃がゆっくりと凪に向かって振り上げられる。
(……死ぬんだ)
凪は、恐怖で声も出せず、ただ大きく目を見開いて、迫り来る刃の切っ先を見つめていた。母の顔、父の顔、昨日までの穏やかな日々が、一瞬にして頭の中を駆け巡る。
(たすけて……だれか……かみさま……)
男の振り上げた刃が、鈍い光を放ちながら、凪の小さな体めがけて振り下ろされる―――!
(あ……)
もうだめだ。おっかあ、ごめんなさい。おっとう……。
凪は、迫り来る死の恐怖に、ぎゅっと強く目を瞑った。
しかし。
想像していた衝撃も、鋭い痛みも、何もなかった。
代わりに、耳元で男の「あっ!?」というどこか間の抜けたような声が聞こえた。何かが空を切るような、軽い風の音も。
(……え?)
何が起こったんだろう。恐る恐る、凪は閉じていたまぶたを、ほんの少しだけ開けてみた。
男は、まだすぐ目の前に立っている。その手には、血に濡れた刃が握られている。けれど、男は刃を振り下ろすのをやめ、きょろきょろと辺りを見回していた。その目は、凪がいるはずの場所を捉えられず、虚空をさまよっている。まるで、凪の体が突然透き通って、見えなくなってしまったかのようだった。
「な、なんだ……? どこ行きやがった、ガキ!」
男は、凪がいたはずの空間に向かって、戸惑いながら刃を何度か振るってみるが、もちろん手応えはない。完全に凪の姿を見失っているようだった。
他の野盗たちも、その異様な光景に気づいた。
「おい、どうした! ガキはどこだ!」
「い、いねえ! さっきまでそこにいたはずなのに、消えちまった!」
「目の前でか!? ば、ばかな……!」
突然、目の前で子供が掻き消えたという、理解不能な出来事。野盗たちの顔には、さっきまでの凶暴さとは違う、本物の恐怖の色が浮かんでいた。彼らは互いに顔を見合わせ、怯えたように後ずさる。
「……お、おい、ここはやべえ! 何かいるぞ!」
「もういい! ずらかれ!」
男たちは、家にあったわずかな物を慌てて掴むと、我先にと家から逃げ出していった。まるで、恐ろしい何かから逃げるように。
嵐のような喧騒が嘘のように消え去り、家の中には、しん、とした静寂だけが残された。
(……いっちゃった……?)
凪は、呆然と立ち尽くしていた。そして、はっとして、すぐそばに倒れている母の元へ駆け寄った。
「おっかあ! おっかあ!」
揺さぶっても、母はもう目を開けてくれない。温かかったはずの頬は、もう冷たくなり始めていた。父も、部屋の隅で動かない。
「う……うわあああああん!」
たまらなくなって、凪は母の亡骸にすがりついて、声を上げて泣きじゃくった。怖かったこと、悲しいこと、一人ぼっちになってしまったこと。全ての感情が、涙と一緒に溢れ出して止まらない。
どれくらい泣き続けたろうか。涙も枯れ果て、しゃくりあげるばかりになった時、ふと、凪はすぐそばに、温かい気配があるのを感じた。
それは、いつも家の神棚の奥に感じていた、あの静かで、大きな気配。
(……かみさま……?)
神棚に手を合わせると感じていた、ほんわりと暖かくなるような、そんな優しい気配。その気配が、今、すぐ隣にいて、まるで悲しむ凪を慰めようとするかのように、そっと寄り添ってくれているのを感じた。いつもは遠くの神棚にいるはずなのに、今は、すぐ、ここに。
凪は、泣き腫らした顔を上げて、その気配の方を見た。
「……かみさま……?」
か細い声で、呼びかけてみる。
その瞬間。
凪の声に、まるで初めて名前を呼ばれたかのように、隣にあった温かい気配が、びくりと驚いたように揺らいだ。そして、その揺らぎと共に、気配は凪の目の前で、ゆっくりと形を結び始めたのだ。
そこに現れたのは、人の形をしていた。けれど、ただの人ではなかった。
すっと伸びた背には、夜の闇を思わせるような、大きな黒い翼が生えていた。薄い唇に通った鼻筋、おそらく平時であれば冷たさすら感じられるであろう切れ長な目元。しかし、今、凪を見つめるその瞳は信じられないほど優しく、佇まいには懐かしい温もりがある。神棚の奥にずっと感じていた、あの「何か」だ。
凪は言葉を失って、ただその姿を見上げていた。
怖い、とは思わなかった。ただ、あまりにも突然現れたその異様さと、それなのにどうしようもなく惹きつけられる懐かしさに、心が大きく揺さぶられる。
驚きと、目の前に母も父もいないという現実への悲しみと、けれど、この温かい存在がそばにいてくれるという、説明のつかない大きな安堵感とが、ぐちゃぐちゃに混ざり合って、また新しい涙がぽろぽろと溢れ出した。
泣き続ける凪に、その姿はわずかに身じろぎした。自分がそのような姿になったことに、そして凪もその姿が見えていることに、ひどく戸惑っているようだった。自身の大きな翼や、凪に向けた自分の表情を、まるで初めて認識するかのように。その大きな翼が、所在なさげに少しだけ動く。
それでも、凪から視線は逸らさなかった。驚きと、戸惑いの奥にある、深い愛情を湛えた瞳で、まっすぐに凪を見つめている。
「……かみさま……?」
凪はしゃくりあげながらも再び問いかけた。
『…………』
その存在は、声を出さなかった。あるいは、まだ声の出し方を知らないのかもしれない。ただ、その瞳が、凪の問いかけに静かに頷いたように見えた。
その肯定の気配に、凪の目から、こらえていた涙がまたぽろぽろと溢れ出した。
「おっかあが……! おっとうが……!」
目の前の惨状と、失われた温もりが、再び津波のように凪の心を襲う。嗚咽が漏れ、小さな体が震える。
神様は泣きじゃくる凪のそばにそっと膝をついた。そして、その大きな黒い翼で、まるで壊れやすい雛を包むかのように、凪の体を優しく、ふわりと覆った。
翼の内側は、不思議と温かくて、安心する匂いがした。それは、陽だまりの匂いにも似ていたし、大好きだった母の懐の匂いにも、少しだけ似ている気がした。
どれくらいそうしていただろうか。その翼に包まれているうちに、凪の激しい嗚咽は、少しずつしゃくりあげるような小さなそれに変わっていった。
『……もう、大丈夫だ』
不意に、低く、けれど穏やかで、不思議と心に沁みとおるような声が、すぐ近くで聞こえた。凪が顔を上げると、神様が、やはり戸惑いを隠せないながらも、確かに自分に語りかけてくれていた。それは、父の声でも母の声でもない、けれどどこか懐かしいような、初めて聞く声だった。
『……私が、いる。ずっと、そばにいる』
その言葉は、魔法のように凪の心にじんわりと広がっていった。
悲しみも、恐怖も、消えはしなかった。
でも、自分は一人ではないのだと、この温かくて不思議な存在が、これからはそばにいてくれるのだと、凪は確かに感じ取っていた。
凪は、しゃくりあげながらも、こくりと頷いた。そして、神様の翼の温もりに、小さな体をそっと預けた。
神様もまた、その小さな体をしっかりと受け止め、壊さないように、そっと力を込めて翼で包み込んだ。
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