C:バトル・オン・ウォーターフロント


 元弁財天ベティの口元に笑みが浮かぶ。

「私の相手をするなど、千年早いわね」


 二人を結んだ中間地点に、グレープグルーツほどの大きさの赤い球が出現した。みるみる膨らんで、ビーチボールぐらいの大きさになる。赤い球は小刻みに身震いをするや、轟音とともに破裂して、カノンに向かって熱波を放射してきた。


 カノンは素早く、身体の前方に、〈インディヴィデュエル・イージス〉を展開させた。いわゆる、超防御シールドである。強固な楯によって熱波を跳ね返し、四方八方に分散させて受け流した。


 数百度にも及ぶ熱波のせいで、渡り廊下のガラス窓は粉々に砕け散った。安全性を考慮して分厚い強化ガラスであるはずだが、神様の前では飴細工に等しい。

 まだ、戦いは始まったばかりだ。ベティはガラスを失った窓枠に足をかけて、カノンに誘うような一瞥いちべつをくれた。


 「広い空間で、存分にやり合いましょう」そう言って、ひらりと外へと身をひるがえした。

 カノンは後に続く。予備動作もなくポンと廊下を蹴ると、窓枠の間から弾丸のように飛び出した。


 コンマ数秒で15キロを移動し、港区台場の上空に達していた。眼前には、ウォーターフロントの高層ビル群が立ち並んでいる。その間隙を縫うように、カノンはフルスピードで飛翔する。


 上方から射抜くような視線を感じた。見上げると、雲ひとつない蒼穹そうきゅうに、ポツンと赤い点が浮かんでいる。

 ベティだ。余裕たっぷりに笑っている。彼女は空中をゆらゆらと漂いながら、カノンの到着を待っていたのだろう。


 カノンは、ベティの狙い撃ちを防ぐために、直進はさけて、蛇行と方向転換を繰り返しながら、ベティとの距離を詰めていく。カノンの位置から見ると、ベティの身体が太陽と重なり、彼女の姿が消えた。


 その瞬間、太陽がバラバラに砕けたように見えた。灼熱の火球が次々と、カノンめがけて降り注いでくるのだ。おびただしい火球の群れだが、難なくかわすことができた。しかし、それらはすぐに引き返してきて、カノンに再び襲いかかる。


 火球の群れは執拗に追ってきた。カノンはフルスピードで急降下して、逃れようとする。高層ビルの壁面スレスレに飛翔したり、四車線をまたいだ歩道橋の下をくぐりぬけたりして、火球の群れの追尾をかわそうとする。


 耳をつんざく轟音が上がった。火球がビルの壁面にぶつかったのだ。

 カノンは眉をひそめる。壁面や路上などに激突した火球は数個にすぎないが、現実世界への影響は免れないだろう。


 カノンが戦っている【DOG】は、人間たちの暮らしている通常空間と隣接している。二つの空間を分けているものは、うすっぺらな皮膜だけだ。現実世界がダイレクトに影響を受けることはなくても、ビルの壁面に黒い焦げ跡が現れたり、路上に大穴を穿ったりする程度のことはあるだろう。


 それを回避しようにも、ベティの攻撃を無効にするような技など、カノンは持ち合わせていない。今は自分の身を守ることで精一杯である。


 カノンは自分を中心にして、直径3メートルになる球形の〈インディヴィデュエル・イージス〉を展開させていたが、火球の攻撃を受け続けているうちに、あっけなく砕け散ってしまった。


 カノンとベティには、明白な違いがあった。平たくいえば、シビアな戦闘経験である。徹底的に叩き潰し、殺すことも辞さないという明確な決意があるかないか。無意識に手加減をしてしまうカノンに対して、〈はぐれ弁財天〉のベティは一切呵責のない攻撃を仕掛けている。


 火球の群れが、高速で飛翔するカノンに追いすがり、彼女の肩や背中に激突する。一つひとつの攻撃には耐えられるが、回数を増すごとに、カノンのダメージは積み重なっていく。


 カノンは完全に受け身に回っていた。ベティの姿を見失っているし、火球の群れから逃げのびないことには、反撃することもままならない。


 灼熱の火球といえども、水中では無力のはずだ。カノンは眼下に広がる東京湾に向かって、急降下を開始する。


 海面に迫ったカノンの眼前で突然、巨大な水柱が立ち上がった。それはベティが遠隔操作で、海中に発生させた火球爆発だった。膨大な水しぶきは直径十数メートルの真っ白なドームを作り出し、その中に取り込まれたカノンは反射的に動きを止めてしまう。


 百戦錬磨のベティが、その隙を見逃すはずがない。火球の群れが唸りをあげて、襲いかかってきた。四方八方から殺到してくるため、カノンに逃げ道はない。何ひとつ抵抗できずに攻撃を受け続けるしかなかった。


 頭の中に直接、ベティの哄笑が送り込まれてきた。

「えらそうな口をきいた割に、何もわかっていない。戦う時は相手を殺すつもりで来なさい。手加減をして私に勝てるなんて、見くびらないでもらいたいものね」


 今のカノンは、サンドバックのようだった。右肩の肉を削られたのはまだましな方で、左脚が妙な形にねじ曲がり、あばら骨を折られて呼吸が止まってしまう。


 首に強烈な一撃を受けた。頸椎がへし折られて、視界は闇に閉ざされた。かろうじて意識は保っていたが、もはやカノンに身動きすらとれない。ただ、宙に浮かんでいるだけだ。


 ビルの陰から姿をあらわしたベティが、ほくそ笑みながら、カノンに襲いかかる。両手で足首を掴まえて、両脇の下に抱え込むと、コマのように回転し始めた。


 いわゆる、ジャイアントスイングだ。高速回転で勢いをつけた上で両手を離し、高層マンションに向かって激突させた。


 カノンの身体は壁面にめりこんだ後、砕けたタイルとともに地上に落下する。アスファルトに叩きつけられた姿は、壊れた人形というより、ボロ布のようだった。


 地上に降り立ったベティは、非情にも、カノンを蹴り上げた。サッカーボールのように吹っ飛んだ身体は再度、ビルの壁面に激突する。高層ビルが揺らぐほどの容赦のなさだった。


 さらに、止めとして、ベティは右手の指先から、細長く青白い火炎を噴射した。カノンの身体が炎に包まれる。一瞬のうちに炭化を飛び越えて、真っ白な灰と化してしまう。


 ちょうどその時、海から熱気をはらんだ強風が吹きつけてきた。少し前までカノンだった灰は、瞬く間に一粒のこらず吹き飛ばされた。


 ベティの哄笑が高らかに、ウォーターフロントに響きわたる。

 もはやカノンの存在した痕跡は、どこにも見当たらなかった。


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