A:美女との再会


 大学生活において、先輩というのは厄介なものである。少し早く生まれただけで、後輩を好きなようにこき使い、時には理不尽なことまで要求してくるからだ。狗藤は身をもって、そのことを知っている。


 とりわけ、黒之原という先輩は関わりになりたくない。一緒に行動するということは、「下僕げぼく」扱いを覚悟しなければならないからだ。


 そもそも、黒之原はゼミ生や寮生からも敬遠されている。他人から借りたものは返さない。虫の居所が悪いと、殴る蹴るの暴行を働く。おまけに、カネには汚いし、盗癖まであるらしい。黒之原の黒い噂となると、枚挙まいきょいとまがないのだ。


 狗藤は憂鬱ゆううつだったが、教授の指示である以上どうしようもない。命をとられるわけじゃないので、これまで通りにんの一字を貫けば何とかなるだろう。そう考えて、割り切ることにした。


「くそったれ。何で、てめぇと組まなきゃならねぇんだ」

 北千住駅前の路上で〈路上・人間調査〉を始めたとたん、黒之原はムカついていた。こうした場合、先輩をたしなめるのも後輩の役目だ。

「教授が決めたことですし、仕方ないじゃありませんか」


 狗藤は先日と同じように路上に一円玉を落とし、それに対する通行人の反応を調査していた。両手にカウンターを持ち、右手で通行人を数え、左手で一円玉を認識した人数を数える。黒之原は一円玉を拾った人を追いかけて、その人となりを記録する。主なチェック項目は、服装、体型、態度、顔つきである。


 だが、集中力に欠ける黒之原は、一円玉を拾われたことを見逃すことがしばしばだった。狗藤が拾った人を指さして、黒之原に追いかけてもらうのだが、相手が若い女性だった場合、かなりの確率で痴漢と間違えられてしまう。


「キャー、やめて。こないで」と、悲鳴を上げながら逃げられるのだ。

「自意識過剰のクソ女、おまえなんか誰が襲うかっ!」と、黒之原は怒鳴り散らす。

 逃げられるのはまだましな方で、時には警察官を連れて引き返してくることもあった。その場合は誤解がとけるまで、狗藤はひたすら頭を下げる羽目になる。


 下僕の必要条件は何だろうか。おそらく、何があっても耐え忍ぶ強い決意だろう。


 狗藤は心を閉ざすことにした。当事者であることを棚上げにして、悲惨な現実を他人事と思い込む。鈍感さを最大にして、傷つきやすい心をガードする。長年の過酷な下僕生活で培ったテクニックの一つだ。


 何を言われても、どんな仕打ちを受けても、どこ吹く風と受け流す。大学を卒業して社会に出れば、もっと酷い目にあうかもしれない。その予行演習だと思えば、これぐらい大したことではなかった。


〈路上・人間調査〉は、ただでさえ手間のかかる作業なのに、わがままな先輩の面倒まで見ているのだ。こんなことなら、一人で調査をした方がよほど楽だった。


 そんな想いを察知したのか、それともただのサボり癖なのか、黒之原は堂々と自主休憩をとり始めた。休憩時間は15分、30分と次第に延びていく。結局、最後の一時間半は狗藤が一人で調査を行った。


 陽が暮れて帰り支度じたくを始めた時、黒之原が意外なことを口にした。

「これから飲みに行くぞ。おごってやるから、俺についてこい」

 黒之原と飲みに行くのは五回目ぐらいだが、良い思い出は一つもない。他の客に喧嘩をふっかけたり、店の備品を壊したりするので、狗藤が代わりに謝って後始末に追われることになるからだ。

 しかし、そのマイナス面を考慮しても、〈おごり〉というのは魅力的だった。


 東京メトロにゆられること十数分、二人が下車したのは上野駅だった。地上に出ると、歩道は人であふれていた。アメヤ横町商店街は、身動きがとれないほど混雑している。どこに行く気だろうと狗藤が思っていると、黒之原はフラリと裏路地に入った。狭い路地の両側には、一杯飲み屋や小料理屋が立ち並んでいる。


「ここはツケが利くんだ。貧乏人にとっちゃ、砂漠の中のオアシスよ」

 黒之原はそう言って、古びた居酒屋の暖簾のれんをくぐった。十人も入れば満員になるような狭い店である。店内は中年の会社員や作業員で混雑しており、壁の品書きを見ると、お酒も食べ物も驚くほど安かった。


 黒之原は生ビールの大ジョッキをあおると、大学の不平不満をぶちまけ始めた。例えば、大教室は広すぎて冷房が利かないとか、食堂のメシはまずすぎるとか、自動販売機は故障だらけだ、といった具合だ。


 狗藤は、そうは思わない。学費が安いのだから、それぐらい許容範囲内である。本当に不平不満があるのなら、自分で何とかすればいい。クールネックリングを使うなり、自分で弁当をつくるなり、安い缶ジュースを購入するなりすればいい。自己中心的な考え方にしばられて不平不満をもらしていても、何の解決にもならない。


 黒之原はビールジョッキを空けるごとに、言葉が汚くなっていく。聞くに堪えない罵詈雑言ばりぞうごんの嵐である。三分に一回の割合で、放送禁止用語も混ざってくる。他の客の迷惑顔など、微塵みじんも気にもかけない。まことに傍迷惑はためいわくな存在である。


「てめぇ、将来どうするんだ」と、黒之原は言った。「啓杏大の卒業生に、ろくな就職口はねぇぞ。手に職をつける専門学校の方がまだましじゃねぇか」

「そうですね。未来真っ暗かもしれませんね。どうするかなぁ」


 狗藤はヘラヘラしながら、右から左へと聞き流していた。就職や卒業の前に、進級の心配の方が先だ。必須科目の単位だけは落とさないようにしないと、留年して余分な学費を払う羽目になる。


「狗藤よ、今のままじゃ、てめぇ、就職浪人だぞ。ちったぁ、社会の役に立ってみろよ。俺はな、てめぇのために言ってんだ! こう見えても、俺は後輩思いなんだぜ! てめぇを早く一人前にしてやりてぇんだよ! わかるよな、俺様の気持ちっ!」


 黒之原は大口を開けて、下品に笑いながら、

「思いやりのある先輩がいて、てめぇは幸せ者だなぁっ!」

 グローブのような手で、バシバシと頭をはたかれる。手加減なしなので、ひどく痛い。狗藤は苦笑しながら、「早く帰りたい」と心の中で呟いた。


「だったら、さっさと帰れ」

 どこからか声が聞こえた。不思議なことに、頭の中にダイレクトに響いてきたのだ。黒之原の声ではない。若い女性の声だった。なぜか、聞き覚えのある涼やかな声音こわね。周りを見渡してみたが、声の主は見当たらない。店員も客も全員男性なのだから当たり前である。


 黒之原の独演会は続いている。バシバシ背中を叩かれたり、つばを浴びせられたりしながら、狗藤は心を他のことに向けていた。はっきり言って、現実逃避である。この焼き鳥はうまいな。シシャモの香ばしさも、玉子焼きの控え目な甘さも最高。なのに、この激安ぶりは奇跡だな、といった具合だ。


「何を考えとんねん。おまえはアホか」

 また、頭の中で声が聞こえた。心底呆れたような声だった。断じて空耳ではない。その証拠に後ろを振り向くと、今度は声の主がいた。


 目の覚めるような美人だった。インド美女のように目鼻立ちがくっきりしていて、しなやかな肢体は抜群のプロポーションを誇っていた。彼女の強烈な視線によって、狗藤は全身を射ぬかれた。思わず視線を下げると、膝上20センチのミニスカートからスラリと伸びた美脚。視線を上げると、ミニドレスの広い襟ぐりから、腕組みのせいで強調された豊かなバストが目に入る。


 狗藤は無意識に、初対面の時と同じリアクションをしていた。贔屓目ひいきめなしに、テレビで見かける女優やモデルより、はるかに美人だ。全身から神々こうごうしいオーラを立ち上らせている。


「いやらしい眼でジロジロ見るんやない。このドアホがっ」

 頭の中で罵倒された。そんなバカな、と狗藤は思う。これはまさか、テレパシーというやつか? いや、それよりも、この状況の方が問題だ。男ばかりのむさくるしい店内で、ミニドレスの美女は明らかに場違いである。なのに、誰一人、気にする様子はない。


 まさか、自分にしか見えないのか? 目の前の美女は、幻覚なのか? 何なんだ、これは。よくわからないが、わからないなら、とりあえず、気にしないでおこう。

狗藤は美女に背を向けて、残っていた玉子焼きを口いっぱいに頬張った。うん、やっぱり最高にうまい。


「この野郎、シカトすんなっ」

 美女は激昂げっこうした。

「このドアホが! 死んでまえっ、××××野郎っ!」

 セクシーな唇から飛び出すには、あまりにもミスマッチな言葉と口調だった。


 やべ、怒らせた。狗藤が振り向くと、美女は腰を落として、スラリとした右脚を後ろに引いたところだった。渾身こんしんの蹴りを入れるつもりだろう。もちろん痛いだろうけど、相手は正真正銘の美女である。ある意味、ラッキーなのかもしれない。


 そんな不埒ふらちな想いを打ち砕くように、真っ白な脚が鋭い角度で跳ね上がった。狗藤は思わず、目をつぶる。しかし、衝撃はこなかった。狗藤が感じたのは、髪の毛をなぶっていった一陣の風だけである。おそるおそる目を開けると、美女の姿は消えていた。柑橘系を思わせるフルーティな残り香が漂っているだけだ。


 あれ、俺、酔ったのかな。狗藤の視界が、ぐにゃりと歪んだ。ナマ中からチューハイに切り替えたあたりから、頭の具合がおかしくなっていた。どうやら調子にのって、飲みすぎたらしい。店員さんに頼んで水をもらおう。


 しかし、そこで、狗藤の意識は途切れてしまった。


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