第十二話『沈んだ記憶と、赤く染まる月』

 保健室でハルちゃんに弱音を吐いてしまった翌日。まだ体は少し重くだるかったけれど、学校を休むわけにもいかず、私はいつも通り家を出た。すると、門の前には見慣れた姿が。


「おはよ、雫ちゃん!」


 ハルちゃんが、少し心配そうな顔で立っていた。


「え、ハルちゃん? なんで…」


「だって、心配だったんだもん。一人で大丈夫かなって。一緒に行こ?」


 その過保護っぷりに、少しだけ頬が熱くなる。


「も、もう大丈夫だよ。昨日よりずっとマシだし」


「ほんとに? 無理しないでね。ちょっとでも辛くなったらすぐ言うんだよ!」


 念を押すように言うハルちゃんに、私は苦笑しながら頷いた。朝からこんな調子だと、一日が思いやられる。でも、心配してくれるその気持ちが、素直に嬉しかった。


 二人で歩く通学路。街の空気は、昨日と変わらずどんよりと重い。すれ違う人々の表情も硬く、街全体が息を潜めているかのようだ。私の視界の端でちらつくノイズも、まだ完全には消えていない。


 放課後、私たちは真っ直ぐに図書室へ向かった。昨日、ハルちゃんが言ってくれた「一緒に考える」という言葉を、私たちは実行に移すことにしたのだ。この街を覆う異変の原因、その手がかりを探るために。


「まずは、この街の歴史とか、古い言い伝えみたいなのを調べてみない?」


「うん。ニャンゴロ先生が言ってた『潮が満ちる夜』ってのが気になるし、海に関係する何かがあるのかも」


 私たちは、郷土史のコーナーで、港町の成り立ちや、過去の出来事が書かれた本を片っ端から手に取った。古い地図、漁業の記録、祭事に関する記述……。ページをめくるたびに、インクと古い紙の匂いがした。


「見て、雫ちゃん。昔、この辺りで大きな高潮があったみたいだよ」


 ハルちゃんが見つけた本には、数十年前に起こった水害の記録が載っていた。多くの家が浸水し、被害も大きかったらしい。


「こっちには、海の神様を祀る古いお祭りについての記述があるけど……今はもう廃れちゃったみたいだね」


 私が手に取った本には、海の豊穣と安全を祈願する、古くから伝わる祭事について書かれていたが、詳細は不明だった。人身御供のような、少し不気味な言い伝えも、断片的に残っているようだ。


「うーん、これだ!っていう決め手には欠けるね……」


 しばらく本を読み漁ったけれど、今の異変に直接結びつきそうな、決定的な情報はなかなか見つからない。司書の先生にも尋ねてみたが、「最近、町の古い歴史について調べる方が多いんですよ。何かあったんですかね?」と逆に質問されてしまう始末だった。


 調査が行き詰まり、私たちは図書室を後にして、美術室へ向かった。もしかしたら、あの不思議な菫先輩なら、何か知っているかもしれない、という淡い期待があったからだ。


 美術室の扉を開けると、菫先輩はいつものように、窓際で大きなキャンバスに向かっていた。イーゼルの上には、抽象的な、それでいてどこか不穏な色使いの絵が描かれ始めている。


「あら、水野さんに天野さん。今日は二人揃ってどうしたの?」


 先輩は、筆を止めずにこちらを見て微笑んだ。


「あの、先輩……。この街の古い伝承とかで、何か知っていることありませんか? 特に、海に関係することで……」


 私の問いかけに、菫先輩は少しだけ考える素振りを見せ、そしてふと、窓の外に広がる港の景色に目を向けた。


「この街の海には、昔から色々な『記憶』が沈んでいるって言うわね……」


 その声は、いつもの掴みどころのない響きとは少し違って、どこか真剣な色を帯びているように聞こえた。


「長い年月の中で、忘れられた想いとか、声にならない叫びとか……そういうものが、海の底にはたくさん眠っているのよ。特に……」


 先輩は、港の先端に見える、今はもう使われていない古い灯台を指差した。


「あの古い灯台の辺りとかはね。色々なものが流れ着いて、そして、忘れられていく場所だから」


 古い灯台……。その言葉を聞いた瞬間、私の頭の中に、ざらついたノイズと共に、錆びれた鉄の匂いと、打ち付ける波の音、そして、深い悲しみと、やり場のない怒りのような強い感情のナゴリが、奔流のように流れ込んできた。


「うっ……!」


 突然の感覚の奔流に、思わずよろめく。視界がぐらつき、息が詰まる。まただ。力が、制御できない……!


「雫ちゃん! 大丈夫!?」


 隣にいたハルちゃんが、即座に私の異変に気づき、素早く私の背中を支えてくれた。その温かい手に支えられ、私は何とか意識を保つ。


「しっかりして! 無理しないで!」


 ハルちゃんの必死な声が、耳元で響く。菫先輩は、何も言わず、ただ静かに私たちの様子を見つめていた。


「……だい、じょうぶ……。ちょっと、感じただけだから……」


 深呼吸を繰り返し、何とかナゴリの奔流を振り払う。けれど、体はまだ微かに震えていた。ハルちゃんは、心配でたまらないという顔で、私の顔を覗き込んでいる。その過保護っぷりに、こんな状況なのに少しだけ笑ってしまいそうになる。でも、その存在がどれだけ心強いか、私は痛いほど感じていた。


美術室を出て、夕暮れの帰り道。


「古い灯台か……何か関係あるのかな」


 私がぽつりと呟くと、ハルちゃんがすぐに「行ってみる?」と提案してくれた。けれど、私は静かに首を振った。


「ううん……今はまだ、やめておこう。もう少しちゃんと調べてからじゃないと……それに、私のこの状態じゃ、また何があるか分からないし」


「……そっか。そうだね。焦らなくていいよ。絶対、二人で原因見つけようね」


 ハルちゃんが、力強く私の手を取る。その温かさが、不安な心に勇気をくれた。


 空を見上げると、雲の切れ間から覗く月が、いつもよりも大きく、そして不気味なほど赤みを帯びて見えた。まるで、血を吸ったかのように。


 ニャンゴロ先生の言っていた「潮が満ちる夜」が、刻一刻と、近づいてきているのかもしれない。


 私たちは、言葉少なに、それぞれの家へと続く道を歩き始めた。胸の中に渦巻くのは、不安と、そして隣にいるハルちゃんへの確かな信頼と、これから立ち向かうであろう未知の脅威への、静かな決意だった。

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