境界線上の私たちと、透明な世界の欠片

猫森ぽろん

第一話『接触禁止のあの子と、太陽ガール』

 新しいクラスの名簿が張り出された掲示板の前は、春の陽気に似合わない熱気と喧噪に満ちていた。期待と不安がないまぜになった声、友人を見つけてはしゃぐ声、知らない名前に眉をひそめる声。私は少し離れた場所から、その喧騒をぼんやりと眺めていた。人混みは苦手だ。物理的にも、そうでない意味でも。


 人々の間を縫うように、ゆらゆらと漂う淡い光の粒子のようなものが見える。肩や頭の上に、小さな靄(もや)のようなものを乗せている人もいる。私、水野 雫(みずの しずく)には、昔からそういう、他の人には見えないらしい「何か」――私が内心「ナゴリ」と呼んでいるものが、見えてしまう。古い物や場所に残る想いの欠片、人の感情の微かな残り香。別に霊感少女とか、そういう大層なものじゃない。ただ、少しだけ世界の解像度が、他の人と違うだけ。そして、そのせいで時々、ちょっとだけ面倒なことになる。


自分の名前を探して視線を滑らせる。二年四組、水野 雫。まあ、どこでもいい。問題は、その隣。


「あ、あった! 二年四組、天野 晴(あまの はる)! えっ、誰と一緒かなー?」


 すぐ隣で、突き抜けるように明るい声が響いた。声のした方を見なくても分かる。彼女だ。クラスで、いや、学年でも一際目立つ、太陽みたいな女の子。運動神経抜群で、いつも友達に囲まれていて、キラキラしている。私とは対極の存在。


(よりによって、この人の隣か……)


 思わず、小さなため息が漏れた。別に彼女が嫌いなわけじゃない。ただ、眩しすぎるのだ。そして、距離感が妙に近い。ナゴリが見えることは絶対に秘密にしたい私にとって、ぐいぐい来るタイプの人間は、地雷原そのものなのだ。なるべく関わらないようにしよう。そう心に誓って、私は新しい教室へと足を向けた。


 教室の自分の席――窓際の後ろから二番目、まあまあ悪くない――に鞄を置くと、間髪入れずに隣の席に誰かが勢いよく座った。


「やっほー! 水野さん、だよね? 私、天野 晴! 同じクラス、よろしくね!」


 ニカッ、と効果音がつきそうな笑顔で、彼女――天野 晴が私の顔を覗き込んできた。近い、近いって。内心の警報が鳴り響く。


「……よろしく、お願いします。水野です」


「うん、知ってる! 名簿見たから! っていうか、雫ちゃんって呼んでいい? 私のことはハルって呼んでよ!」


「え……あ、はい」


 まだ自己紹介もそこそこなのに、すでに距離を詰められている。太陽光線を浴びすぎると、人はこうなるのだろうか。私は曖昧に頷くことしかできない。晴はそんな私の反応を気にする様子もなく、窓の外を指さした。


「見て見て、雫ちゃん! あの桜、めっちゃ綺麗じゃない?」


 窓の外には、校庭の隅に立つ一本の立派な桜の木があった。ちょうど満開で、風が吹くたびに薄紅色の花びらが舞っている。綺麗だ、とは思う。けれど、私の目にはそれだけじゃないものも映っていた。太い幹の周りに、ふんわりと漂う淡い緑色の光。それは長い年月、この場所でたくさんの春を見送ってきた桜の木の、穏やかで優しい「ナゴリ」だ。私はその穏やかな光景に、少しだけ心が和むのを感じて、つい、ぼうっと見入ってしまっていた。


「雫ちゃーん? おーい?」


「へっ!? あ、なに?」


 目の前に、晴の顔があった。いつの間にか、すぐそばまで身を乗り出して、私の視線の先を追うように桜の木を見ていたらしい。


「いや、すっごい真剣な顔して桜見てるからさー。なんか面白いものでも見つけたのかと思って」


「……別に。ただ、綺麗だなって」


「ふーん?」


 疑うような、それでいて楽しそうな目をしている。まずい、無意識にナゴリに集中しすぎていたかもしれない。この力は、気を抜くとすぐに表に出てしまう。


「私、桜好きなんだよね! なんか、パーッて咲いて、パーッて散る感じが潔いっていうか! ね、雫ちゃんは?」


「……私は、別に……」


「そっか! じゃあさ、今度一緒にお花見しない? あそこの公園の桜もすごいんだよ!」


 話題が次から次へと飛んでいく。まるで、目まぐるしく変わる春の天気みたいだ。私は彼女のペースについていくだけで精一杯だった。


 なんとか午前中の授業をやり過ごし、昼休み。教室で本でも読んでいようかと思っていたら、晴が私の机にやってきた。


「雫ちゃん、お昼どうする? 一緒に購買行かない?」


「え、あ、私は……」


「行こ行こ! 今日は焼きそばパンが食べたい気分なの!」


 断る間もなく、私の腕を掴んで(!)立ち上がらせる。抵抗する隙もない。こういう強引さが、彼女が「太陽」たる所以なのだろうか。いや、ただ単に物理的な力が強いだけかもしれない。陸上部だし。


「ちょっと待って、財布……」


「あ、私も!」


 晴が慌てて自分の鞄から財布を取り出そうとした、その時。ひらり、と彼女のポケットから水色のハンカチが床に落ちた。刺繍で小さな四つ葉のクローバーがあしらわれている、可愛らしいハンカチだ。


「あ、落としちゃった」


「……拾うよ」


 私がそう言って、ハンカチに手を伸ばし、指先が触れた瞬間――。




「うわっ……!」


 ビリッ、と軽い静電気のような衝撃と共に、強い「ナゴリ」が流れ込んできた。それは、色で言うなら、キラキラしたオレンジ色と、力強い緑色が混ざり合ったような奔流。誰かを一生懸命応援する声、走り抜ける風の感覚、達成感と喜び、そして、ほんの少しの悔しさ。持ち主であろう晴の、スポーツに対する真っ直ぐで強い感情が、そのまま流れ込んでくるようだった。あまりの奔流に、私は思わず声を上げ、ハンカチを取り落としそうになって、変な顔のまま硬直してしまった。


「え? どうしたの、雫ちゃん?」


 目の前で、晴が不思議そうに首を傾げている。その顔にも、きらきらした感情の「ナゴリ」が淡くまとわりついているのが見える。


「な、なんでもない! ちょっと……手が、滑っただけ!」


 慌ててハンカチを拾い上げ、晴に突き出す。心臓が妙にドキドキしていた。今のは、かなり強いナゴリだった。油断した。


 晴はきょとんとした顔でハンカチを受け取ると、じっと私の顔を見つめた。何か勘づかれただろうか。いや、まさか。ただ、ちょっと手が滑っただけ、そう思ってくれれば……。


 しばらくの沈黙の後、晴は、ぱあっと顔を輝かせた。


「ふーん? ま、いっか! それよりさ、雫ちゃんって、なんか面白いね!」


 太陽みたいな笑顔で、彼女はそう言った。 面白い、か。それは、私が一番言われたくない種類の感想だ。 これから始まるであろう、この太陽ガールとの騒がしい高校生活を思い、私は誰にも聞こえないように、深くて長いため息をついたのだった。焼きそばパンは、無事に買えるのだろうか。それすらも、今は少しだけ不安だった。

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