第11話
巨大な空の渦――
“空の牙(スカイファング)”が、目の前に迫っていた。
大気そのものが唸りを上げ、肉眼でもはっきりと見えるほど濃密な気流の帯が、空を引き裂き、島々を震わせていた。
ただの突風ではない。
あれは、空そのものが生み出した「牙」だ。
息を整えながら、トレインはハンドルを握り直した。
浮遊艇の操作は、ただ「走る」だけではない。
空を飛ぶには、
風圧、重力、浮力、推進力――
四つの力を同時に感じ取り、それらを絶妙に制御する技術が求められる。
ハンドルの微細な角度調整で舵を取り、足元の魔力調整板(フロウ・パネル)で浮力を変化させ、機体にかかる圧力を全身でバランスを取りながら分散させる。
一瞬の油断が、墜落を意味する。
しかもスカイファングのような超乱流では、すべての力が、瞬間瞬間で激しく揺れ動く。
読むだけでは、足りない。
空の呼吸と一体になるしかない。
(やるしかない……)
必死に自分に言い聞かせた。
アストリアでの日々。
じっちゃんに叩き込まれた、地味で、地道で、何百回と繰り返した基礎訓練。
あれがなかったら、ここには立てなかった。
ハンドルにかかる風の抵抗。
浮力が微かに落ちるタイミング。
推進力に押される重心のずれ。
すべてが、体に染みついている。
スカイファングの入り口に差しかかる。
艇がぐらりと傾ぐ。
通常の風脈では考えられない速度と方向の変化。
風が、牙を剥いた。
「っ、ぐ……!」
トレインは、ぐっと体を沈めた。
ハンドルを切る角度を、
ほんの一度だけ、外側にずらす。
それは、ダリオンに何度も叩き込まれた、“受け流し”の技術だった。
風に抗うな。
風を、受けろ。
艇が、傾きながらも、崩れずに滑った。
風に叩かれながら、押されながら、それでも軸を失わず、前へ前へと運ばれていく。
(よし……このまま……!)
トレインは、眼前に広がる渦の中心を見据えた。
スカイファングの核心部。
そこには、一筋だけ、細く安定した風の道が存在する。
だが、それを掴むのは至難の業だ。
渦の軌道、島の影、空気の密度、重力のぶれ。
すべてを一瞬で見極めなければ、届かない。
(行ける……!)
トレインは迷わなかった。
呼吸を合わせる。
風と一緒に、空と一緒に。
そして――
ハンドルを切った。
機体が、跳ねた。
空気を滑り、重力を蹴り、風の裂け目へ飛び込む。
スカイファングの咆哮を背に、
トレインは、核心部へと突き進んだ。
——ゴォッ
強烈な風が吹き荒ぶ中、エアライドの機体が跳ね上がる。
次の瞬間、トレインは、今まで味わったことのない感覚に襲われた。
体が、浮く。
いや、違う。
押し上げられ、引き裂かれ、ねじり潰されるような――
まるで、世界そのものがねじれているかのような感覚。
機体が、ぐらぐらと揺れた。
風が、暴れ狂っている。
まるで無数の手に引っ張られ、押し戻され、叩きつけられるようだった。
「っぐ、うおおおお……!!」
声が、風に千切れた。
ハンドルは両手で押さえ込んでいるのに、機体全体が意思を持ったかのように跳ね、暴れた。
シートベルトを締めていなければ、確実に振り落とされていた。
視界がぶれる。
漂流島の影が、上に、下に、めまぐるしく移動する。
(これが、スカイファング……!!)
知識では知っていた。
けれど、実際にその渦の中に入ると、文字通り“空そのものが生き物になった”かのような錯覚に陥る。
ただ速いだけではない。
ただ強いだけでもない。
風の畝りが、理屈を越えて絡みついてくる。
浮遊艇の魔力結晶が悲鳴を上げた。
過剰な風圧に耐えきれず、振動数が不安定になっている。
(落ち着け……落ち着け!)
トレインは、奥歯を噛み締めた。
艇が軋み、警告音が一瞬だけ鳴った。
——ボッ
世界が、傾いた。
風が押し寄せる。
空が、迫ってくる。
上も下も、右も左もない。
ただ、空そのものが生き物のように、喰らいついてこようとしていた。
無我夢中でハンドルを握った。
腕に、肩に、全身に、凄まじい負荷がかかる。
筋肉が軋み、関節がきしんだ。
艇が、横に煽られる。
風に引っ張られ、真横に押し倒されそうになる。
ぐらり、と世界が回転した。
(落ちる……!)
脳裏に赤い警告が閃く。
だが、トレインは手を離さなかった。
歯を食いしばり、舌を噛み、意識をつなぎとめる。
空に、呑まれるな。
押しつぶされる感覚を、両足で支えながら、
機体を微妙に傾ける。
重心をずらす。
風に、真正面から抗うのではなく、
受け流すように、身を滑らせる。
空気が鳴った。
雷のような音と共に、スカイファングの中心に引き込まれる力が強まった。
艇の振動が増す。
手が、しびれる。
ハンドルが、ぐらぐらと震える。
(ダメだ、力任せじゃ、負ける!)
頭の中に、ダリオンじっちゃんの声が響く。
――風は、押すな。
風に、身を投げろ。
トレインは、覚悟を決めた。
ほんの一瞬、
ハンドルを押さえ込む力を抜いた。
艇が、沈む。
空が、目の前に迫る。
恐怖が、喉元を絞める。
だが、次の瞬間。
風が、彼を支えた。
ただ抗うのではない。
ただ流されるのでもない。
受け入れ、任せ、
それでも、進む意志を持つ。
艇が、空気の裂け目に滑り込んだ。
ぐわん、と渦が唸った。
背中に、猛烈な風圧が叩きつけられる。
しかしトレインは、流されなかった。
艇の鼻先をわずかに上げ、
左肩を沈め、風の圧力を受け流す。
世界が、再び立ち上がる。
視界の向こう、細く光る抜け道が、かすかに見えた。
(行ける……まだ、行ける!)
トレインは、力を振り絞った。
風を読むこと。
空を掴むこと。
すべてを信じて、
彼は風を裂いた。
ドシュッ——
艇が、渦を抜けた。
重力が、一瞬だけ消えた。
光の筋の向こう側に広がる、真っ青な空。
「…うわ」
トレインは、息を吐いた。
生きている。
空が続いている。
握り締めた手には熱が残っていた。
ふわりと掠める緊張の糸が、真横から差し込む光に溶け込むように、サッと解けた。
艇の腹を少しだけ傾け、
浮力を一瞬だけ切り離す。
機体が、風を滑り始めた。
大地を歩くように、
水面を渡るように。
ただ、空の上を、走る。
眼前に、かすかな光の筋が見えた。
細い、細い、核心部を貫く風の道。
そこへ飛び込む。
全身を、空気に任せる。
目も、耳も、感覚も、すべて風に委ねた。
世界が、音もなく反転した。
ただひとつ、風鈴の音だけが、胸の奥で鳴った。
——カラン、と。
そして、トレインは、核心部を抜けた。
爆ぜるように、風の渦が後ろへ消え、視界いっぱいに、澄んだ空が広がった。
そこには、静寂があった。
空に、認められた者だけが知る、たったひとつの青。
トレインは、呻くように息を吐いた。
まだ、終わりじゃない。
でも、確かに今——
ほんの一瞬だが、空とひとつになった。
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