第四章 4-4. - 関ヶ原、霧の残像
戦の終結を告げる、遠い、祭囃子のような凱歌は、小早川軍の、名もなき足軽たちの、土埃にまみれた耳には、別の世界の音楽のように、ぼんやりとしか届かなかった。まるで、自分たちだけが取り残された、物語の外側にいるような気すらした。
彼らは確かに、勝利した、巨大な軍の一員として、形式的には扱われたはずだった。名を問われることはなかったが、数としては確かにそこにいた。けれど、勝ったという実感は、誰の顔にも浮かんではいなかった。
「なあ、俺たち……勝ったんだよな?」と、誰かがつぶやいた。
その言葉は、風に紛れて消えたが、彼の胸には、妙に重く響いた。
確かに勝った。だが、本当に“正しかった”のか?
彼の若い胸には、消えることのない火種のように、疑問の念が渦巻いていた。あのとき、槍を下ろすという選択肢は、本当になかったのか。戦のただ中では、命令に従うことが唯一の掟だった。けれど今、その結果だけが、重くのしかかっている。
街を行けば、見慣れない顔をした人々は、彼らに、好奇の視線と、隠しきれない警戒の視線を、値踏みするように投げかけた。誰も何も言わない。それでもわかるのだ。言葉よりも、視線のほうがずっと残酷に、心の柔らかい部分を切り裂くことを。
「裏切り者」――明確な、耳をつんざくような言葉こそなかったものの、その、無言の視線は、研ぎ澄まされた鋭い刃物のように、彼らの、まだ傷つきやすい心を、静かに、しかし深く傷つけた。
ふと、彼は思った。
――もし、この戦の最後に名前を呼ばれることがあるなら、それは賞賛か、それとも……呪いか。
高揚感はなかった。むしろ、鉛のように重く、そして冷たい沈黙だけが、内側から、彼の身体を満たしていった。
それは、熱ではなく、冷えだった。魂が、静かに凍えていくような。
故郷の、見慣れたはずの小さな村に戻っても、その、氷のような冷たい扱いは、空気のように変わらなかった。いや、正確に言えば、誰も彼をあからさまに責めたり、罵ったりはしなかった。ただ――「何か」が変わっていた。
見慣れたはずの、温かい土の匂いのする風景は、どこかよそよそしく、他人事のように遠く感じられ、温かいはずの家族の、心配そうな眼差しにも、言いようのない、薄いガラス板のような距離を感じた。母の手が、そっと味噌汁の椀を差し出してきたとき、彼はそれを受け取ったが、うまく「ありがとう」の言葉が出てこなかった。言えば、壊れてしまう気がしたのだ。何かが、もう元には戻らないような気がして。
(俺は……ただ命令に従っただけだ。なのに、なぜこんな顔をされる?)
心の奥で、言い訳のような声がした。けれど同時に、それを恥じる声もあった。
(違う。わかっていたはずだ。あれが、“正しさ”なんかじゃないって……)
あの、血と泥にまみれた戦場で、一体何があったのか。誰にも、一言も言葉にすることができなかった。語ればすべてが現実になるような気がして、喉の奥に、魚の骨のように張り付いた、棘のような感情が、言葉という形になるのを、頑なに拒んでいた。
夜、囲炉裏の灰がかすかに赤く灯る中で、彼は何度も父の背中を見た。かつてのように話しかければいい。ただ、「疲れた」と言えばいい。それだけで、何かがほどけるかもしれない。だが口は動かず、重たい沈黙だけが、家中に広がっていく。
何も語らぬ彼の姿に、妹がふと顔を曇らせた。ほんの一瞬だったが、その視線が、妙に痛かった。
――まるで、自分の兄が、もう戻ってこなかったことを悟ってしまったような、そんな顔。
かつての自分は、まだこの村にいた。土の匂いに包まれ、鍬を振るい、誰かと笑っていた。でも今、そこに立っているのは、戦場で生き残っただけの“誰か”だった。
名前もなく、ただ命を拾っただけの、自分のようで、自分でないもの。
風が軒先を鳴らし、ふと、あの関ヶ原の冷たい霧を思い出す。心の中に、まだあの湿り気が残っているような気がして、彼はそっと目を閉じた。
全ては、あの日の、燃え盛るような夕焼け空の下、彼が、本能の赴くままに、傾斜のきつい松尾山の斜面を、獣のように駆け下りた、あの瞬間に始まったのだ。
あのとき――ほんの一瞬でも、立ち止まることができていたら。
そんな「もし」が、今も胸の奥に、煤のようにこびりついている。
目の端に、敵兵と思しき、黒い影を捉えたとき、彼の足は迷わず踏み込んだ。迷ったら斬られる。そんな場面は、何度も訓練で叩き込まれてきた。
思考よりも先に、手に握りしめた槍が、獲物を突き刺す獣のように、無意識に突き出されていた。
だが、その、震える槍の先にいたのは、憎むべき、顔も知らない敵ではなかった。
それは、見覚えのある、あまりにも見慣れた顔だった。
昨日まで、同じ粗末な釜の飯を分け合い、くだらない冗談を言い合って、肩を並べて笑い合った、確かに、間違いなく、自分の――大切な仲間だったのだ。
(なんで、こんなことに……)
内心の声は、遠く、掠れた風のようで、自分でもはっきりとは聞き取れなかった。
目の前の男の瞳に浮かんだ、驚きと痛みと――裏切られたという静かな叫びが、何よりも強く彼の胸を貫いた。
(命令に従っただけだ……そうだろ?)
言い訳のように繰り返すが、その言葉すら、心の内側には届いてこない。
しばらくのあいだ、彼は何も聞こえなかった。ただ、槍の先から伝わる確かな重みと温かさだけが、身体の芯を焼いていた。
「敵兵」だったはずの仲間が、崩れ落ちた地面の向こうで、微かに手を伸ばしてきた気がした。
それを振り払ったのは、自分の震える指先だったのか、それとも、もう戻れない何かだったのか――彼には、もう、確かめようがなかった。
夕焼けの赤が、血の色と混ざり合い、空が、地上ごと焼け落ちていくような錯覚に陥った。
あれから、何度夢の中で、その光景を繰り返し見ただろう。
そのたびに、彼は思うのだ――あの一歩目を踏み出す前に、せめてほんの一拍でも、心が「考える」という行為を取り戻せていたら、と。
その、鮮明すぎる記憶は、夜になると、鮮やかな色彩を帯びた悪夢のように、彼の脳裏に蘇った。
深い暗闇の中で、彼の突き出した槍によって、苦悶に歪んだ仲間の、今も忘れられない顔。
血に濡れた、冷たく硬い地面の感触。そして、自分の体の一部であるかのように、生々しく彼の意識を締め付ける、血濡れた自分の手の感触。
(あれは……仕方のないことだったんだろう?)
誰にともなく問いかけても、答えは闇に吸い込まれるばかりだった。
目を閉じても、耳を塞いでも、あの瞬間の温度や匂いは、彼の内側から逃げようとはしなかった。
むしろ、夜が深まるほど、音もなく忍び寄り、彼の若い胸を、じりじりと焼くように蝕んでいく。
彼は何度も、心の中で繰り返した。
あれは生きるためだった。他に道はなかった。自分を責める理由なんてない。
けれど、その言葉はまるで水面に投げられた小石のように、表面を震わせるだけで、決して心の底には届かなかった。
(誰か……誰か、違うって言ってくれ)
心のどこかで、そんな甘えた声が生まれるたび、自分自身に嫌悪を覚えた。
だが、それでも――彼は願っていた。
あの日、自分がしたことは間違いじゃないと、誰かに、たった一人でいいから、心の底から言ってほしかった。
彼の犯した行為の正当性を認め、重くのしかかる心の呵責から、そっと解き放ってくれる、温かい言葉を。
それは、砂漠をさまよう旅人が、喉の渇きに耐えかねて求める、水のようなものだった。
届かないと知りながら、それでもなお、彼は渇き続けた。
暗闇の中、誰に届くでもない救いを求めるその心は、ただ静かに、しかし確実に、蝕まれていった。
しかし、故郷の村人たちは、見て見ぬふりをするように、何も語らなかった。
声をかけるでも、咎めるでもなく、ただ、無言で彼をすり抜けていく。
その、重く、そして深い沈黙は、じりじりと燃える炭火のように、彼の心を静かに、しかし確実に焦がしていった。
(何も言わないほうが、よけいに辛い……)
そんな考えが、一瞬、胸をよぎったが、すぐに彼は唇を噛みしめた。
責められる資格があるのは、むしろ自分のほうなのだと、誰よりもよくわかっていたから。
慰めの、温かい言葉も、激しい非難の言葉も、どちらもなかった。
ただ、沈黙――それは、彼らなりの答えだった。
遠い日の、全てを覆い隠すように立ち込めていた霧に包まれた、あの松尾山だけが、今も彼の心の中で、巨大な墓標のように、深く、そして静かに沈黙を続けていた。
あの山は、知っている。
自分が何をしたのか、どんな後悔を抱えて生きているのか、誰よりも、あの山だけが。
風が、冷たく吹き抜けるたび、霧が、過去の亡霊のように立ち込めるたびに、彼は、あの日の、あまりにも残酷な光景を、昨日のことのように鮮やかに思い出した。
(たった一突き、たった一度の決断だった……)
それでも、心に降り積もった後悔は、雪のように融けることなく、重みを増すばかりだった。
逃れたいと願えば願うほど、その鎖はきつく、冷たく、彼の足元を絡め取る。
彼の心は、あの、何もかもを覆い隠す霧のように深く、冷たく、そして、二度と抜け出すことのできない、出口のない迷路の中に、永遠に閉じ込められていた。
自分自身を赦す道など、最初から存在しないのだと、どこかで理解しながらも、それでもなお、彼は、見えない出口を探し続けていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます