第一章 1-3. - 関ヶ原、裏切りの残照

その刹那は、静かに忍び寄る影のように、前兆もなく、あまりにも突然として訪れた。関ヶ原の、朝日に染まり始めた東の空を背景に、巨大な黒い鳥が翼を広げたかのような、異様な影が動きを開始した。


松尾山――昨日まで、鉄壁の要塞のように、同盟軍の西の側面を固く守っていたはずの、小早川秀秋の、多数の、巨大な波のような軍勢が、誰も予想だにしなかったことに、昨日まで、兄弟のように酒を酌み交わし、共に勝利を誓い合った友軍に向かって、恐ろしい、剥き出しの牙を、無慈悲に剥いたのだ。


三成は、瞬時に息を飲んだ。血の気が、足元から静かに抜け落ちていくのを感じた。


……まさか。

いや、そんなはずはない。だが――この光景が、現実だというのなら?


その瞬間、胸の奥に何かが音を立てて崩れ落ちた。昨日まで信じていた絆、託した信義、青年ゆえの未熟をも赦そうとした慈しみ――そのすべてが、地に伏した。


あれほど話を重ねた。

あれほど、未来を語ったではないか。

豊臣のためにと、共に歩もうと……。それすらも、偽りだったのか。


思考が断片的に飛び、脳裏には、秀秋がうつむきながら酒を傾けていた夜の姿が浮かぶ。あの時の目線の揺れ――あれは、迷いではなく、すでに決していた沈黙だったのか。


「……秀秋殿……!」


口から零れたその声は、怒号でも嘆きでもなく、どこか幼子が夢の終わりを拒むような、震える囁きだった。


兵の一人が、三成の隣で「あれは……裏切りですか」と震える声を絞り出した。問いというより、自分自身への確認のようだった。


三成は返さなかった。ただその言葉が、凍てついた心に杭を打ち込むように、痛かった。


私が見抜けなかったのではない。

信じたかっただけなのだ。

この戦に、正義が残っていると、そう思いたかっただけなのだ。


彼の中で、怒りと悲しみと空虚が、ゆっくりと溶け合い、やがて一つの静かな覚悟に変わっていく――これはもう、勝つか負けるかの戦ではない。

己が掲げた理と信念を、最後まで貫けるかどうかの、生き方そのものの決戦なのだ。


その、最初の、空から落ちてきた巨大な岩塊のような衝撃は、石田三成の、これまで固く信じてきた心の奥底に、深く、そして残酷に突き刺さった。


それは単なる、一将の、一つの部隊の、個人的な裏切りなどではなかった。それは、彼が人生の基盤として疑わずに信じてきた人間関係の、あまりにも脆く、触れるだけで砕け散るガラス細工のような本質――そして、命を懸けて追い求めてきた理想が、無残に、しかもあっけなく崩れ去っていく音そのものだった。


なぜだ……なぜ、ここまでして裏切られねばならぬ?

信じた私が浅はかだったのか。それとも、信じるという行為そのものが、愚かなのか。


答えは出ない。出せるわけがなかった。

けれど、それでも――信じたかったのだ。

あの若さに、あの目の奥に宿っていた一縷の光に。


彼の脳裏には、昨日、同じ酒杯を傾け、互いの勝利を、未来の確約のように誓い合った小早川秀秋の、若く、熱に浮かされたような瞳が、あまりにも鮮やかに蘇った。

あれは演技だったのか? それとも、あの時だけは、ほんの一瞬でも本気だったのか?


怒りとも悲しみともつかぬ感情が、胸の奥で音もなく泡立ち、やがてゆっくりと、一つの言葉を吐き出すように彼の喉へと昇ってきた。


「なぜだ……なぜ、貴様は、裏切るのだ……!」


その叫びは、喉の奥から絞り出された、魂の震えそのものだった。だが、それは、騒音の激しい、地獄絵図のような戦場に、一滴の水が灼熱の砂漠に吸い込まれるように、誰の耳にも届くことはなかった。


怒りが、裏切られたという事実に向けられるよりも先に、己の無力さ――人の心を繋ぎ止めることもできなかった己への悔しさに変わっていくのを、三成は否応なく悟っていた。


すべてが、風の中で崩れ落ちる塔のように、音もなく彼の中で積み上がり、そして壊れていく。


小早川秀秋の、悪夢のような予期せぬ攻撃に、呼応するように、同盟軍の、他の、重要な地位にある武将たちも、堰を切ったように、雪崩を打つように、次々と東の、勝利を目前にした陣営へと、何の躊躇もなく寝返った。


脇坂安治、赤座直保、朽木元綱、小川祐忠――彼らは皆、昨日まで、同盟軍の、四本の柱のような重要な一翼を、確かに担っていたはずだった。


いや、信じたくなかった。あれほど語り合った言葉が、ただの風だったなどと……

だが、こうして剥き出しになったのだ。仮面の下の、真の顔が。

同じ器に湯を注いでも、冷めていく温度は違う……彼らは、私の正義の熱に最後まで触れようとはしなかったのか。


彼らの、示し合わせたかのような予期せぬ寝返りは、同盟軍の、すでに病に冒され、虫食いだらけだった戦列に、心臓を貫くような、致命的な一撃を与えた。


それでもなお、心のどこかで、「何か理由があったのではないか」と思ってしまう自分がいた。

裏切られた怒りよりも先に、理解しようとする弱さが湧き上がる。

……いや、それは弱さなどではない。ただ、私は、最後まで人を信じていたかっただけなのだ。


横にいた兵の一人が、小さく、しかし確かに呻くように呟いた。「……やっぱり、だめだったのか」

その声に含まれていたのは、諦念か、悲しみか。それとも、最初から見抜いていた者の静かな怒りだったのか。

その声が、三成の胸に、突き刺さった。


信頼から疑念へ、疑念から怒りへ、そして、怒りが冷めていくと同時に滲み出してきたのは、静かな哀しみだった。

それは、共に理想を掲げたはずの者たちの手で、理想そのものが引き裂かれたという、あまりにも現実的な絶望の痛みだった。


――それでも、私は進まねばならぬ。

この裏切りを飲み込んでもなお、秀吉様の夢を、豊臣の世を守ると誓ったあの日の自分を、裏切るわけにはいかぬのだ。


戦場は、突然、底なしの沼のような、制御不能な混乱の黒い渦へと、見る間に変貌した。昨日まで、精密機械のように組織的な動きを見せていた同盟軍の、整然とした隊列は、砂の城が波にのまれるように急速に崩れ、指揮官の、必死の叫び声は、嵐の音にかき消されるように騒音の中に消え、多数の、群れを失った羊のような兵士たちは、戦う意味を失い、一人、また一人と、本能的に安全な場所を求め、無秩序に、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑い始めた。


……これが、現実か。

声が、届かぬ。命令が、波に呑まれる。

あれほど整えてきた戦陣が、まるで最初から砂で作られていたかのように崩れ落ちる。

私は、一体、何を信じてこの日を迎えたのだ?


埃が、生き物のように塊となって舞い上がり、折れた槍や刀剣、そして、主を失い、地に落ちた旗指物が、嘲笑うかのように、風に吹かれて無惨に転がっていく。空気には、鼻腔を刺激する火薬の匂いに混じって、重い鉛のような恐怖と、底なしの絶望の、生々しい、そして耐え難い匂いが立ち込めていた。


最初に胸を突いたのは、怒りだった。

なぜここまで崩れる。なぜ彼らは踏みとどまれぬ。

だが、怒りはすぐに虚しさへと変わる。

理想のために戦っていたはずの者たちが、命ではなく、生き延びることだけに縋る姿に、何よりも早く、私自身が絶望していた。


叫びたい。命じたい。だが喉は焼け、声はもう風にしかなれぬ。

逃げる彼らを責めることなど、できるのか。

私が信じてきた“理”の旗の下で、命を落とす価値が、果たして本当にあったのか。


遠く、退きゆく兵の一人がこちらを振り返った。

その瞳に宿っていたのは、恐れではなかった。

あれは……赦しを乞うような、あるいは、諦めに似た祈りの色だった。

「殿、申し訳ありませぬ――」そう声なき言葉が、唇の動きから読み取れた気がした。


その一瞬、心が揺れた。

だが、それでも私は、前に出る。

崩れる陣の中で、一歩でも前へと。

例え一人でも、この“旗”を掲げ続けねばならぬ。

それが、理に殉じる者の、最後の責務だからだ。


三成は、もはや風前の灯のような、わずかに残った、燃えるような熱い忠義の炎を、必死に燃やそうとする将たち――深い友情で結ばれた大谷吉継、孤高の武将島津義弘、そして、わずかの、しかし勇敢な部下たちと共に、重い鎖を引きずるように、打ち砕かれた、しかし決して諦めない心を抱えながら、必死の抵抗を試みた。


――まだだ。まだ終わってはならぬ。

たとえ勝機が潰えようとも、この場で背を見せることは、理への背信に等しい。

だが……本当にそれが正しいのか?

命を預けた部下たちの瞳が、ふと揺れるのを見た気がした。

彼らもまた、内心では気づいているのではないか。この戦が、すでに終わっていることを。


東の軍勢の包囲の輪は、残酷な時の流れと共に徐々にと狭まり、もはや、組織的な退却すら、針の穴を通すような、極めて困難な状況に陥っていた。


退くべきだという声が、心のどこかで囁いている。

だが、その囁きを掻き消すように、三成の口は命じる。「踏みとどまれ」と。

己の矛盾を知っていながら、それでも理の旗を下ろせなかった。

……いや、下ろしたくなかったのかもしれない。

敗れてもなお、信じ続けるということ。それだけが、三成に残された最後の“矜持”だった。


島津の軍勢が静かに頷く。吉継の指示は寸分の狂いもなく届いていた。

彼らの無言の背中が、語っていた。

――たとえ負け戦でも、貴殿と共にある、と。

その無言の忠誠が、かえって三成の胸を締め付けた。

(なぜ、私の理想のために、ここまで命を懸けさせてしまう……)


歯を食いしばり、三成は再び立ち上がった。

戦局は終わろうとしている。それでも、自分の戦いはまだ終わっていない。

理(ことわり)に殉じるとは、勝敗に身を委ねることではない。

最後まで、「筋」を通すことだ――そう、自らに言い聞かせるように。


同盟軍の兵士たちの士気は、高所から叩きつけられたガラスのように、粉々に砕け散り、地面に低く落ち、多くの者が、もはや、戦う意志を、抜け殻のように失い、力尽きて、朽ちた木のように倒れていった。


そんな、地獄絵図のような残酷な光景の中で、三成だけが、重い鎖に繋がれた、荒波に立ち向かう石の灯台のように、一人で、小高い指揮台の上に、動かない石像のように立ち続けていた。


――見よ、これが現実だ。これが、この理を信じてついてきてくれた者たちの、末路なのか。

だが、ここで私までも膝を折れば、それこそ、すべてが無に帰す。

だからせめて――最後まで立ち続けよう。嘲笑されようと、裏切られようと、それでも私は……。


打ち砕かれた、しかし彼の全てだった軍勢に、三成は、最後の、しかし虚しい命令を、涸れた井戸から水を汲み上げるように、必死に下し続けた。


「持ち場を守れ!敵を一人でも多く討ち取れ!後に退くなど、断じて、断じて許さん!」


その声には、かつての鋭さも覇気も、もはや残っていなかった。ただ、粘りつくような意地と、ほとんど祈りに近い切実さだけが、空気に滲んでいた。


――退くことが正解かもしれぬ、と、頭の片隅で理解している。

だが、それを口にした瞬間、私は私でなくなる。

あの日、秀吉様に命を拾われたあの時から、私はずっと、この旗の下にしか生き方を知らなかったではないか。

ならば、どれほど不合理でも、どれほど報われなくとも、この道を往くしかないのだ。


傍らにいた若き兵が、ちらりと三成を見上げ、静かに頷いた。

その目には、怯えと共に、言葉にできぬ尊敬の色が混じっていた。

――そうか、私はまだ、見られている。ならば、なおさら退けぬ。

この指揮台が、もはや墓標であっても構わぬ。せめて、「貫いた」と、記憶されるのならば。


彼の声は、空気に吸い込まれるように消え入りそうになっていたが、その奥の、深く窪んだ瞳の奥には、今も、燃え盛る炎のように、熱い光が宿っていた。


絶望が胸を満たしたのは確かだった。だが、それは静かに、諦めとは違う、ある種の覚悟へと変わっていった。

「勝ち」は遠のいたかもしれぬ。

けれど、「信じるもののために死ぬ」という意味において、私はまだ、負けてなどいない。

そう、己に言い聞かせるように、三成は、わずかに顎を上げた。


「信念を貫く」――それは、もはや、彼が人生を懸けて追い求めてきた、偉大な理想の実現などではなかった。


……理想は崩れ、信頼は砕けた。けれど、それでも私には、まだ果たすべき責がある。

それがたとえ、誰の目にも無意味に映ろうとも。


それは、裏切られ、打ち砕かれた、しかし彼にとって唯一の誇りの、最後の、痛ましい閃光であり、この、無力な自分自身の、存在の、最後の証だった。


あれほど冷静に、策を練り、道理で動くことを貫いてきたこの身が、今では、ただ信念という名の幻にすがっている――滑稽だと笑われようとも、それでも私は、立ち続けねばならぬ。


己の、もはや避けられない、予期された残酷な運命を深く悟りながらも、彼は、武将として、人としての、最後に残された、重い責務を、断固として放棄せず、一人で、血と埃に塗れた、悪夢のような戦場に、風化しない石の彫像のように立ち続けた。


絶望――それが心を覆ったのは確かだった。けれど、それはやがて、静かな怒りへと変わっていった。

裏切られた者としての怒りではない。自らの無力さに対する、そしてこの結末に甘んじようとする弱さに対する、己への怒りだった。

その怒りが、かすかに灯っていた忠義の火を、再び燃え上がらせていた。


彼の、疲弊しきった背には、西に沈みゆく夕日が、赤い、不吉な印章のように押し当てられ、その、高く、しかしどこか悲しげな姿は、偉大な戦いの、あまりにも不名誉な終焉を、ただ一人で、静かに、そして最後まで見守っているようだった。


遠くで、まだ逃げずに残っていた若い足軽が、肩を震わせながらも、その背を見つめていた。

「あの御方だけは、まだ、退いておられぬ……」

誰にともなく呟かれたその言葉は、静かに戦場に溶け、わずかに、だが確かに、三成の背を押していた。

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