第10話 わたくしが貞操を捧げるお方は沈澄瑜殿のみ

「……ん?」


 ——聡景帝そうけいてい


「父上だわ」


 ——性暴悪にして残忍。


 静蓮は思いっきり遠い目をした。優しくて穏やかな人だったのに。


 ——婦女を好み、皇后を顧みず、もっぱら後宮にて遊蕩に興ず。


「いやいやいや、皇后である母上とは仲が良かったし……後宮で遊んでませんって!」


 ——女史姫明凛きめいりんこれを諌めるも、死を賜る。


「……え」


 風が吹き抜けた。体が冷えていく。あの優しかった女史の明凛は父に殺されたというのか。

 涙が零れ、あふれていく。


「……うそ。う、うそばっかり。この歴史書、うそばっかり書いてる」


 華紹かしょうに殴られた時より心が痛い。


 伝統的に前の王朝の歴史書は今の王朝の皇帝に献上される。ということは。

 澄瑜がこの記述を書かせた可能性が高い。


「ひどい」


 ぽたり、ぽたりと床に涙の雫が落ちた。

 父を弑殺した逆臣を殺したのは感謝する。国号を改め、自ら皇帝についたのも仕方あるまい。

 だけれど。


「……あなただって、ち、父上のひととなりを見ていたじゃないの! あれだけ優しいお方をどうしてこう書けるの!!? どうして!」


 それとも——と、静蓮は恐ろしい可能性に思い至る。


 ——わたくしが見ていた父上は本当の父上のお姿ではなかった……?


 すると、さらさらと衣擦れの音を立てて女が現れた。五十過ぎくらいのふくよかな女だ。


「ほう。皇帝本紀を読んで『父上』と泣く下女がいるとはね」

「……あ」

「わけありだねえ。ほんとうにわけありだ。ああ、わけありも極まったね」

「あの」


 女はにっこりと笑う。静蓮は震えながらうつむいた。


「深くは聞かないが、とりあえずその『熔書ようしょ』を片付けてほしいわね」


 急いで片付ける。女はあたりを見回した。


「分類が少し違うわね。後で教えるわ。でも、そこそこきれいにしているわね。——わたくしが孫賀。女史として后妃妃嬪に教育をしたり、後宮の記録をとったりしている。あなたは確か静々だったわよね」

「は、はい。よろしくお願いいたします」


 ぺこりと頭をさげる。すると、孫賀が言った。


「まあ、歴史書の最後に書かれる皇帝は、どんな善業を行なっていようと悪人に書かれると相場が決まっている。特に王朝を奪った場合には。新しい皇帝の威信に関わるからね」


 そんなものなのだろうか。


「ただ、聡景帝はどうだろうね」

「……その」

「聡景帝の第二公主琴瑶きんよう殿下はそれはもう贅沢好きで。とんでもなかった。それを諌めたのが今の皇帝である沈澄瑜様を中心とした若手貴族たちであった。だが皇帝陛下は琴瑶殿下を寵愛するあまり、何も聞かないふりをされた。普通の父親なら叱るくらいはするだろう」

「き、琴瑶は父上のいうことも母上のいうことも聞かないわ……」

「あなたにしては嘘だらけかもしれないが、事実はある。姫明凛は聡景帝に死を賜ったよ。史書には書いていないが、第三公主紫葵しき殿下に勉学の遅れが目立つのを指摘したからだ」


 その瞬間、明凛からひどく裏切られた気分になった。


「し、紫葵は」

 

 小さい頃は言葉が出てこず、成長してもあまり賢いとは言えない子だった。でもとても純真ないい子で、音楽と猫が好き。琵琶が特に得意で、名手と讃えられた。宮中の迷い猫を拾っては保護していた。


「勉学がなんだと言うの。どれだけ勉学ができる名士だったとしても紫葵の純真さと愛らしさを見たら己を悔いるに違いないわ」


 鬼のような形相で静蓮は孫賀に迫った。 


「そ、そう……。あなた妹好きね。ま、わたくしも勘違いしていたことはあったわ。紫葵殿下は怠け者、琴瑶殿下は贅沢好き、静蓮殿下は好色と散々な評判だったから」

「好色?! わたくしが、こ、こ、好色ですって!?」


 その瞬間、静蓮は膝から崩れ落ちた。


「と、取り消して! いますぐ発言を取り消しなさい! わたくしが貞操を捧げるお方は沈澄瑜殿のみ!」

「なるほどとんでもなくわけありね。うふふ、下女にしては偉そうだけど」


 孫賀はくすりと笑った。静蓮はびくりと肩を震わせ、孫賀に平伏する。


「まあ、平伏なんかしなくてもいいわよ。公主様に平伏されるのはこちらも気が乗らない」

「……申し訳ございません」

「春蓉公主は好色で、沈澄瑜様を顧みず、男たちを次々引き入れては遊んでいた……と巷の噂よ」

「……」


 絶句する。


「わたくしは澄瑜殿のことしか考えたことがないわ……!」

「のろけるわねえ。学者を呼んで講義を受けてたそうじゃないか。それよ」

「……な!?」


 もし静蓮が公主ではなく皇子——になるだろうが——であったら、ありえない噂だ。むしろ褒め称えられるべきこと。


「言ったでしょう。歴史書の最後に書かれる宗室は、どんな善業を行なっていようと悪評まみれなんだと相場が決まっている。世の中が傾いたとき、人々には不満がたまる。その鬱憤の矛先は政治を取り仕切る皇帝に向かうからだ」


 静蓮はうつむいた。涙がまた溢れてきそうだった。

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