公主、下女に落とされるも泥中の蓮となりて返り咲く

もも@はりか

第1章 虐げられ下女

第1話 虐げられ下女

 その初夏の日の朝、後宮の一角にある桂葉宮けいようきゅうは、厳しい冬のような空気に包まれていた。


 下女である静蓮せいれんは、肩を縮こまらせながらうつむいている。彼女の主人である皇太后華紹かしょうの機嫌がこの上なく悪いからだ。


 当初、華紹は豪奢に飾り立てられた膳に最初は目を細めていたらしい。だが、箸に手をつけて一口食べるなり、顔色を変えたそうだ。


 そして、皇太后の寝室の掃除をしていた静蓮を呼びつけた。


 白い肌に青筋を立てて、華紹は静蓮を仇のようににらみすえた。


「……何ですか? この食事は」


 先ほどまで掃除をしていてまったく状況が頭に入っていない静蓮は、床に平伏して謝罪する。


「申し訳ございません、皇太后様」


 静蓮はいつも華紹からこのように呼びつけられては、訳のわからないことで謝らされていたので、今回も同じようにした。


(……まただ)


 華紹は、美しい牡丹の文様があしらわれた白磁の食器を手に取ると、その縁を長く美しい指で撫でた。直後、ぴしゃりと静蓮に投げつけた。食器は肩をかすめ、遠くの方で鋭い音を立てて割れた。


「冷めています。味も薄いわ。食べられたものではありません」


 静蓮は華紹に雇われている下女だから、もちろん後宮の料理に関わることはない。

 後宮の料理に関わるのは尚食局しょうしょくきょく。そちらに文句を言うのが筋のはずだが、華紹は静蓮に当たり散らすことで気分を落ち着けているのだ。


 皇太后である華紹は暇さえあれば静蓮をさいなみたいので、毎日何かあれば責め立ててくるのだ。


「静々、あなた、尚食局に私の味の好みを伝えたのでしょうね?」


 下女である自分がそのようなことをできるわけがない。


 華紹の紅色の唇がゆるやかに弧を描く。全てわかっていて、獅子が獲物を嬲るように言ってくる。


 謝らなければまたいびられることはわかっていたので、すぐに謝罪した。


「申し訳ありません」


「そう」、と甘い声が降りそそぐ。


「伝えなかったのね。なんって使えない子なんでしょう」


 華紹はすっと立ち上がり、平伏する静蓮の頬をその美しい足先で蹴飛ばした。


 静蓮は頬を抑えて痛みに耐えながら呻く。


 ただの下女の言葉など、士大夫の娘たちで構成されている尚食局の女官たちが信じるとは思えない。華紹のことだから女官を遣わして好みを伝えているはずだが、それでも手違いが起こったのだろう。


 そんなことなど華紹はわかっているだろう。だが、ただ静蓮を責めさいなみたいために騒いでいるだけなのだ。


 周囲の女官や他の下女たちは何事もないかのように黙っている。ことさら主人に憎まれている静蓮に関わりたくないのだ。


 二年前から仕えることになった主人だが、非常に気難しい。


 何がよくないのか、静蓮をことさら憎んでことあるごとに呼びつけて暴力を振るう。


 ただの下女ゆえに抗弁もできない。


 ただ、静蓮にできることは痛みに耐えること、何も考えないようにすること、こと、この三つだけだ。

 最近は腹を蹴られようと肩を蹴られようと、あまり痛みを感じなくなってきている。



 華紹が息を乱して静蓮から足を離すと同時に、着飾った女官が一礼して部屋に入ってきた。


「主上が、朝の挨拶にお越しです」


 すると、華紹は今までの鬼のような形相が嘘だったかのように、華やかな笑みを浮かべた。


「まあ! お通しして」


 華紹は息子である皇帝を溺愛している。どれだけ華紹の機嫌が悪かろうとも彼が来れば一瞬で治る。


 蹴られたせいで口から血を流している静蓮はなんとかその場に平伏していたが、非常に安心した。


 おそらくこれで、厄介払いされて華紹から解放されるだろう。


「静々」


 華紹の低い声が静蓮の耳に響く。


「はい」

「早く出ておゆき。邪魔です。ああ、廊下の掃除でもなさい。主上のお目に触れるなどあってはならないことです」


 静蓮は目を伏せる。華紹はそんな静蓮をひどく睨んだ。


「主上のお目に触れるなどあってはならないことです」


 同じことを二度言われた。その理由を静蓮は知っているが、あまり考えたくはなかった。


「……はい」


 救われた気持ちになって、静蓮はゆらりと立ち上がり、急いでその場を離れた。

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