29話 勝敗

 

 ※


 世界が暗かった。

 それで、今の今まで自分が気絶していたことには気がついた。


(――ああ、負けたのか)


 すぐに現実を悟る。背中にガラスの感触があるから、どうやら展望デッキの端まで吹っ飛ばされたらしい。

 薄ら眼を開けると、霞む視界に、自らを打ち負かした勝者が立っていた。


「危なかったよ」


 勝者は、――ぬらりひょんは静かにそう語りかけてきた。


「ゴホ、ゴホッ、おかしいな……。俺の方がちょっと疾かったのに……」


 口から血を吐きながら誠が呟く。

 事実、誠の拳の方が若干ではあるが疾かった。誠が勝利するはずだった。なのに、拳が当たった感触はなく、結果は逆になっている。


「ていうか……、どうして俺は生きてるんですかね?」


 負けたということはつまり、ぬらりひょんの膨大な妖力の纏った一撃ををまともに浴びたということだ。ならば、人間としての原型を留めているのはおかしい。木っ端微塵になって然るべきだ。


 答えはすぐにあった。


「簡単だよ。こういうことだ」


 見せつけるように右手を前に出すと、徐ろにその手首から先が消えた。――それだけで、誠は全ての敗因を理解した。


「……そっか。気体化、できたんだ」


「ああ。……と言っても、拳一個分程度が限界だけれどね」

「ハハ、騙されちゃったなぁ」


 力なく誠が苦笑する。

 てっきり気体化は全身じゃないとできないのだと誠は思っていた。――否、厳密には思わされていた。ぬらりひょんが八回かけて、誠の意識に刷り込んでみせたのだ。


「じゃあ、あのブラックインパクトも……」

「勿論ブラフだよ。君の頭から気体化をなくさせる目眩しと言ってもいい」

「なるほど、頭いいですね……」


 つまりまとめると、ぬらりひょんには最初から誠と真正面から戦闘する気など毛頭なく、誠の『アルティメットインパクト』が当たる直前に、『ブラックインパクト』を解除して、代わりに肉体の一部を気体化させて誠の拳を回避したのだ。その後は、火炎か光線かそれ以外かは不明だが、何かしらの妖術を使って誠を吹っ飛ばしたのだろう。


「しかし、囮とはいえ、君を騙せないと意味がないのでね。『ブラックインパクト』には相応の妖力を乗せていたんだ。お陰で妖力がほぼ空っぽだ」


 やれやれとぬらりひょんは肩をすくめた。


「全く、とんだ賭けだったよ。気体化も僕の予測が外れて、君の拳の位置が数センチでもズレていたら死んでいたのは僕の方だった。……だから、悔しがる必要はまるでない。むしろ、真正面からの戦闘を避けた時点で、勝負自体は君の勝ちだったと言える。――ただ、ほんの少しだけ僕の方が生き汚かっただけの話さ」


 まるで慰めるような口調でぬらりひょんは言った。特段、ヘコんでもいなかったのだが、とりあえず「ありがとうございます」と誠は感謝を述べた。


「そうやって、敵に対しても、礼を言えるのは君の美点だな。……本当に殺すのが惜しいよ。別の形で出会っていれば、友達になれただろうに」

「でも殺すんでしょ?」

「当然だ。見逃すには、君は危険すぎる」


 躊躇なく言って、ぬらりひょんは手を誠に向けた。その手のひらに光が集まってくる。必殺の光線で、誠の頭を撃ち抜こうという算段だろう。しかし、妖力がないというのは本当なのか、少し手間が掛かっているようだった。

 その待ち時間で、誠は思考する。


(これが死か)


 誠はこれまでにも、死にかけたことは何度もあった。しかし、至極当たり前の話だが、本当に死ぬのはこれが初めてだ。

 誠は密かに思っていた。真実の死に直面した時、自分は初めて恐怖という感情を覚えるのではないかと。けれど、


(うん、全く分かんないや)


 蓋を開けてみたらいつも通り、心は凪のままで、誠は潔く死を受け入れた。


 人は死ぬ。いつか死ぬ。必ず死ぬ。これは絶対の不文律で、覆しようのない現実だ。それがたまたま今日だっただけの話。死んでみんなに会えなくなるのは悲しいけれど、特段怖くはない。というか、いちいち死を怖がっていたら、生きていられないじゃないか。誠はそんな風に考えた。


(みんな、どうやって生きているんだろう)


 ふと、そんなことが気になった。

 誠にはついぞ理解できなかったが、この世界は怖いことで溢れているらしい。それをどうやって乗り越えているか。


(ああ、そういえば、婆ちゃんがなんか言ってたけ?)






 あれはいつの頃だったか。いつもの通り祖母の家の縁側で茶をしばいていた時だ。


『いいかい、恐怖ってのは人間にとって必要な感情なんだよ』


 唐突にそんなことを言われた。


『未来が分からなくて怖いから今を一生懸命頑張るし、死ぬのが怖いから精一杯生きようと思えるんだ。つまりね、恐怖っていうのは前に進む力でもあるのさ』


 でもね、と祖母はどこまでも穏やかに言葉を紡いだ。


『同時に、行き過ぎた恐怖は時に、人の歩みを止めてしまう』


 あれ、矛盾してない? と誠が訊けば、そうだねぇと祖母は頷いた。


『お前には難しいかもしれないけど、何事にも塩梅っていうのがあるのさ』


 やっぱりよく分からなかったが、誠はとりあえず最後まで聞くことにした。


『だからね、人間には恐怖と同じぐらい必要なんだ。先が見えず、押しつぶされそうな状況でも、決して立ち止まらず前を向いて歩く――『勇気』って力が』

 





(そうそう。そうだったそうだった)


 懐かしいな、と物思いに耽る。


(勇気か……。それも結局分かんなかったな)


 光があるから影があるとよく言われるが、それならば、影なき世界で人は光の存在を正しく認識できるだろうか? 誠もまた、恐怖なき故に、勇気のあり方を知らなかった。そしてそれは誠だけでなく、逆に恐怖しか知らないぬらりひょんもまた同じだろう。


(婆ちゃんは『いつかアンタにも分かる日が来る』って言ってたけど、無理だったな。……まぁ、理解したところで死んじゃうんだから意味ないんだけど)


 元も子もないことを考えつつ、一つだけ心残りを思い出して、誠は視線をある方向へと向けた。


 そして、笑った。


「ああ、よかった」


 と。


「何を言っているんだ?」


 誠の言葉に反応したのはぬらりひょんだった。顔をしかめて、誠の視線の先に意識を傾ける。


 それで気が付く。


「バカな……」


 彼らの目線の先。――そこに、眠っていたはずの水蓮寺綾音がいた。

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