第3章:紅き影、夜の伝説
丘の上に立つフードを被った彫像のように、アマデオは動かず、ただ地獄と化した村を見下ろしていた。
空気は肺に重くのしかかり、まるで石のようだった。
ユッビーの声が彼の頭の中に響く。低く、だがいつもの皮肉を忘れずに。
「下級の悪魔二十体…上級悪魔が一体…北には聖騎士が二人、まだ持ちこたえている。そして礼拝堂には民間人が閉じ込められている。優先順位を決めろ、ガーディアン。」
アマデオは深く息を吸い、手袋越しに拳を握りしめた。
「まずは民間人だ」
「賢明な判断だな。頭を砕くより、命を救う方が先だ。」
一歩踏み出すと、アマデオはゆっくりと丘を下った。
走らず、叫ばず――
彼は影のように炎と瓦礫の中をすり抜けた。
下級の悪魔たちは殺戮に夢中で、夜そのものが彼らに降りかかるまで気づかなかった。
最初の一体は、振り向く暇もなく青い光の槍に胸を貫かれた。
次の悪魔は鋸のような爪を振り上げようとしたが、アマデオは腕を一撃で折り、無言の放電で消し去った。
次々と、悪魔たちは倒れていった。
無駄のない動き。
手術のような正確さ。
戦いではない。掃除だった。
「ヌワの軍団との巡回任務を思い出すなぁ」
ユッビーはアマデオが回転しながら二体を切り伏せるのを見ながら言った。
「臭いは同じだが、相手は格下だな。」
「集中しろ、ユッビー」アマデオは低くつぶやいた。
残るはあと一体。
群れの中で起きた虐殺を目にした一体の悪魔が、きしむような動きで礼拝堂の廃墟へとふらつきながら逃げていった。
アマデオはすぐには追わなかった。
まず、半壊した構造物の中に微かな魔力と生命の鼓動を感じ取った。
「ユッビー!生存者の状態は?」
「ぎりぎりだ。今すぐにでも救出しないと、手遅れになる。」
躊躇することなく、アマデオは礼拝堂の扉へと突進した。
木材は焼け落ち、梁が軋み、全体が崩れる寸前だった。
アマデオは扉を蹴り開け、煙の中へと突入する。
「誰かいるか!?」と叫ぶ。
返ってきたのはかすかなうめき声だった。
壊れたベンチの間から、血まみれの男が現れた。
その腕には女性が抱えられ、さらに小さな女の子がその服にしがみついていた。
フード姿のアマデオを見ると、男の目は見開かれた。
「な、何者だ…?」と震える声で言う。
アマデオはしゃがみこみ、仮面をつけたまま手を差し出した。
「味方だ。時間がない。来い!」
彼は少女をやさしく抱き上げ、自分の赤いマフラーで煙から守るように包んだ。
そして迅速な動きで、家族を外へと導いた。
ちょうどそのとき、天井が崩れ始めた。
燃える梁が落ちてきたが、アマデオは青いエネルギーの一閃でそれを両断し、止まることなく突き進んだ。
まるで生命の奔流のように、彼らは炎の地獄から飛び出した。
背後では、礼拝堂が火の嵐の中で崩壊していった。
アマデオは家族を近くの建物の安全な場所にある壁の穴の中に避難させた。
「ここにいろ。音が止むまで絶対に動くな。」
マスク越しの声は、やさしくも強かった。
父親はまだ呆然としながらも、うなずいた。
アマデオは立ち上がり、瓦礫の影へと視線を向けた。
「狩りの時間だ」
そして、あの逃げた下級悪魔の気配を感じた――
瓦礫の中に隠れ、震えているのが分かった。
仮面の下で、アマデオは微笑んだ。
「ちょうどいい。情報が欲しかったところだ」
悪魔は甲高い叫び声を上げ、絶望的な勢いで飛び出した。
アマデオは崩れた壁に気だるそうにもたれかかりながら、指を二本立てて軽く合図をした。
「お前、プリンの顔かよ」
マスク越しの無感情な声がこだました。
悪魔はさらに高い声で叫び、怒った猫のようにアマデオに飛びかかった。
だがアマデオは一切よけなかった。
その場で腕を伸ばし、飛んできた悪魔の頭を空中で掴んだ。乾いた音と共に動きを止める。
青い光がアマデオの腕を走り抜ける。
――そして、世界が止まった。
彼の体内から流れる始原のエネルギーが、悪魔の精神をこじ開ける。
まるで破れた本のページのように、悪魔の記憶が広がっていった。
襲撃、火、血、叫び。
骨の髄に響くような闇の言語で叫ばれる命令。
死体の山の上にたなびく、煤けた軍旗。
そして、そのすべての中心に――
『あの存在』がいた。
即席の壊れた武器でできた玉座の上に立つ存在。
その輪郭だけで、周囲の光を飲み込むような圧倒的な気配。
それはアマデオが夢の中で見たあの姿に酷似していた――魔王。
病んだ雷のような声が、終わることのない戦争の始まりを宣言していた。
そして、その足元には、無数の魔物たちが跪いていた。
無数の。
アマデオは突然、幻視から我に返った。
手を離すと、悪魔は膝をついて崩れ落ち、恐怖に震えていた。
アマデオはふらつきながら一歩下がり、額に手をあてた。
「神よ…」とつぶやき、こめかみを押さえる。
「これは…トリプルセラピーが必要かもな」
ユッビーはすかさず皮肉を返した。
(悪魔の脳を素手で見るなんて…精神衛生上よくないに決まってる)
アマデオは乾いた笑いを漏らした。
「黙れ、ユッビー…」
そう言って、体勢を立て直す。
悪魔は何かをうめきながら、もはや言葉にもならない声を出していた。
アマデオは静かにそれを見つめ、判断を下す。
もう、これ以上引き延ばす必要はない。
光の刃を呼び出し、心臓を一突きにした。
悪魔の体は黒い粒子となって消えた。
残されたのは、風に揺れる赤いマントだけ。
アマデオは深く息をついた。
知ってしまったことの重さが、胸にのしかかっていた。
「よし…民間人、無事。雑魚、片付け済み…」
見えないチェックリストを読み上げるように、つぶやく。
「次は…ボス戦か。」
赤いマフラーが風にたなびき、彼の姿は北東へと消えていく。
そこでは今も戦いが続いていた。
爪と氷のぶつかる音。
必死の叫び声。
自然に抗う、何か異形の咆哮――
アマデオの黒と赤の姿が、煙と瓦礫の中を進んでいく。
そして、彼が辿り着いた時――
そこには、決定的な戦場が広がっていた。
黒髪の聖騎士が、ボロボロの鎧をまとい、かろうじて氷の塔を召喚して防御していた。
だが、その氷も上級悪魔の猛攻の前に次々と砕け散る。
もう一人の騎士――炎のような金髪を持つ者は、少し後ろで倒れていた。
彼の槍は折れ、血が地面に広がっていた。
アマデオは迷わなかった。
一直線に跳び、稲妻のように悪魔と騎士たちの間に割って入った。
そして、何の前触れもなく、上段蹴りを食らわせた。
打撃音は、壊れた太鼓のように響いた。
悪魔は数メートル吹き飛ばされ、半壊した建物に激突し、土煙が舞い上がる。
聖騎士たちは、あっけにとられた表情で見つめていた。
アマデオは、フードをかぶったまま、彼らの方へ振り向いた。
「無事か?」
仮面越しに、落ち着いた声で尋ねた。
氷の騎士は、呼吸を荒げながら、半ば具現化しかけた槍に体を預けた。
「い…一体、お前は誰だ…?」
アマデオは一瞬だけ迷った。
「援軍だ」
そう言って、肩をすくめた。
地面に倒れている炎の騎士は、苦しそうに笑った。
「援軍だぁ?ふざけるな…」
脇腹を押さえながら呻く。
「援軍ってのは、部隊一個分のはずだろ…たった一人じゃねぇか。」
アマデオは、思わず口から出た適当な言い訳を放った。
「予算削減中らしい。節約モードだ。」
ユッビーが心の中で皮肉たっぷりにコメントする。
(素晴らしいな。これでお前は王国の財務官も兼任だ。次は大臣デビューか?)
アマデオは顔を覆いたい衝動をぐっとこらえた。
何か言い返そうとしたその時――
地面が震えた。
瓦礫の中から、低く唸るような咆哮が響き渡った。
崩れた家の廃墟から、上級悪魔が這い出してきた。
捻じ曲がった骨でできた鎧がきしみ音を立てる。
その怒りの気配は、空気さえ震わせるほどだった。
アマデオは仮面の下で小さく悪態をついた。
(他の奴らみたいにおとなしく死んでりゃいいのに…)
もちろん、ユッビーはすかさず割り込んできた。
(理屈では死んでてもおかしくなかったがな。まあ…巨大ミミズにマナーを求める方が無理ってもんだ。)
アマデオは仮面の裏で乾いたため息を漏らす。
両手を拳にし、皮膚の下で青いエネルギーが脈打ち始める。
構えを取り、首をコキコキと鳴らす。
「さあ、チャンピオン…」
自分に言い聞かせるように呟く。
「ラウンド2、だ。」
悪魔が猛獣のように突進してきた。
今度は、アマデオも本気だった。
悪魔が突っ込んでくる。
アマデオは微動だにせず立ち、赤いマフラーを風にたなびかせた。
最初の一撃は空気を裂いた。
アマデオはギリギリで軸を回転させ、かわす。
二撃目の爪は顔をかすめ、風を切る鞭のような音を立てた。
アマデオは仮面の下で笑みを浮かべる。
(こういうの、久しぶりだな…)
瓦礫に隠れながら様子をうかがっていた聖騎士たちは、言葉を失って見守っていた。
「クソッ、早く来いよ!」
負傷した騎士が、氷の騎士に叫んだ。
「今行く!」
氷の騎士は応えながら駆け寄り、半ば溶けた槍を水に戻し、それを治療用に変化させた。
一方その頃、瓦礫の中心で――
アマデオは悪魔の爪の間を舞うように動いていた。
それは、ほとんど…治療のようだった。
一歩一歩、かわし、誘い、かわすたびに、
彼は何日も溜め込んできたストレスを吐き出していった。
入学、授業、規則、貴族たちの冷たい視線、
そして、正体がばれるかもしれないという絶え間ない恐怖――
ここでは、それらすべてが意味を失った。
ここには仮面もない。
地位もない。
ただ、「自分」がいるだけだった。
悪魔の拳がかすめ、アマデオのフードを吹き飛ばした。
だが彼はすぐに体勢を整え、素早く回転して腹に蹴りを叩き込んだ。
鈍い打撃音が響く。
悪魔は唸り声を上げながら後退した。
ユッビーが皮肉交じりに心の中で囁く。
(いいぞ、サーカス芸人さんよ。さっさとそいつを地獄の裏庭に蹴り飛ばしてくれ。)
アマデオは仮面の下で短く笑った。
誰にも聞こえない、ユッビーだけが知る笑いだった。
(その通りだな。もう十分だ。)
悪魔は怒り狂い、黒い唾を垂らしながら突進してきた。
アマデオは両足をしっかりと地に固定した。
時間が一瞬、止まったかのように感じた。
アマデオの右手に、淡い青い光が灯る。
拳をぎゅっと握り締める。
悪魔があと一メートルに迫った瞬間――
アマデオはサイドステップで華麗にかわし、
同時に上向きの拳を悪魔の顎へと叩き込んだ。
一撃。
鈍い衝撃音が響いた。
悪魔の体は、ボロ布のように宙を舞った。
一瞬、燃え盛る炎に照らされながら空中に静止し――
そして、石のように地面へと叩きつけられた。
大地が震えた。
アマデオは拳を突き上げたまま、ゆっくりと深呼吸を繰り返していた。
その背後で、半ば回復した炎の騎士が呟く。
「…こいつ、一体何者だ?」
氷の騎士は、生唾を飲み込み、言葉を失っていた。
アマデオはゆっくりと踵を返す。
赤いマフラーが、再び彼のシルエットを包み込む。
「援軍だ。」
静かに、だが絶対的な確信を持って、そう告げた。
騎士たちは、まるで伝説を目撃したかのような顔で、呆然と立ち尽くしていた。
アマデオは、悪魔の屍をじっと見つめる。
静かに呼吸を整え、拳を握ったまま、微かに揺れる赤いマフラーと共にその場に立ち続ける。
――その時、ふと異変に気づいた。
彼は南の空を見上げた。
遠く、まだ炎に染まる夜空の下、黄金色の光を放つ旗が地平線を裂いて進んでいた。
整然と隊列を組んだ聖騎士たち――馬に乗る者、徒歩の者――がこちらへと進軍してきている。
「おっと…」
アマデオは小声で呟き、拳を下ろした。
「そろそろ退散だな。」
ユッビーが心の中で皮肉たっぷりに応じる。
(名もなき赤フードの援軍さんよ。このまま居残って、黒い騎士が村を単独で救ったって堂々と説明してもいいんだぜ?)
アマデオはため息をつく。
「…ごめん、パスだ。」
そして、迷うことなく踵を返した。
焦げた石の上を、彼の鎧はわずかに擦れる音を立てながら滑った。
アマデオは、倒壊した家々の瓦礫を俊敏に跳び越え、
その姿は、かき乱された水に滲む黒い墨のように消えていった。
彼の背後では、物語が動き始めていた。
彼が救った家族――
壁の隙間から、震えながら這い出してきた。
父親は娘を抱きかかえ、母親は傷だらけの手で必死に後を追う。
だが、全員、生きていた。
二人の聖騎士も、互いに支え合いながら、瓦礫の中からよろめき出た。
未だに、顔には信じられないという色が残っていた。
そして、その向こうから――
本来の援軍、聖騎士たちの部隊が、急ぎ足で壊滅した村へ突入してきた。
彼らは必死に命令を飛ばし、廃墟をスキャンしていた。
アマデオは、最も高い屋根の上からその光景を静かに見下ろした。
フードの陰から、一瞬だけ目が光る。
仮面の下で、ほんのわずかに口元がほころぶ。
「今日も…」
彼は小さく呟く。
(そして、拍手もなしだな)
ユッビーが芝居がかった調子で返した。
アマデオは疲れたように微笑み、そして背を向けた。
朝霧の中へと、その姿を溶かすように消えていった。
残されたのは――噂と、灰と――そして、伝説の誕生だった。
ルクスダラへと帰還する途中、空は徐々に薄い青に染まり始めていた。
一歩一歩が、混乱から遠ざかる道だった。
そして、同時に――
「エイダン・ルルー」として生きる危ういゲームへと戻る道でもあった。
紅の守護者――その存在は、今ここに生まれた。
だが、ルクスダラがそれを知るのは、まだ少し先の話だった。
彼が走り続ける間に、事態は静かに、しかし確実に動き出していた。
彼の行動は善意によるものだった。
だが、その余波は、想像以上に大きかった。
現場に到着した聖騎士たちは、最初に家族から話を聞いた。
――黒と赤の服をまとった男。
――百人の戦士のように戦うフードの男。
――名乗りもせず、栄光も求めなかった存在。
その後、二人の負傷した聖騎士たちも、家族の証言を裏付けた――
ただし、より困惑しながら。
「まるで、俺たちよりこの地形に詳しいみたいだった…」
「青いエネルギーを使ってた…でも、普通の魔法じゃなかった!」
破壊された礼拝堂、塵と化した悪魔たち、生き延びた家族――
すべてが、自然とひとつの物語へとまとまっていった。
そして数時間後、噂は消せない炎のように広まっていた。
新たな英雄が現れたのだ。
貴族の旗に仕えることなく、
影を纏い、光で戦う存在。
「紅い影(くれないのかげ)」
――それが、人々の間で彼につけられた呼び名だった。
***
ルクスダラの学園では、ちょうど夜明けを迎えていた。
アマデオは、疲労困憊の体で戻ってきた。
一晩中走り続け、眠ることすらできなかった。
最初の朝日が寮のステンドグラスを通り抜けた頃、
彼はこっそりと窓から自室へ戻った。
仮面を外し、赤いマフラーも取った。
そして、鏡の前に立った。
――そこに映っていたのは、見るも無惨な姿だった。
深く刻まれたクマ。
ぼさぼさの髪。
普段よりも丸まった背中。
全身に広がる、静かな筋肉痛。
アドレナリンは、すでに裏切っていた。
ユッビーはいつもの調子で、脳内に毒を吐いた。
(さあ、皆様お待たせしました。「ルクスダラ一、マシなゾンビ」、エイダン・ルルー様のご登場です。)
アマデオは、黙って痛む身体に制服をまとわせた。
ユッビーの機能で、布は自然に形作られる。
マフラーの結び目は明らかにズレていたが、直す気力もなかった。
「…一歩ずつ前に進め。生き残れ。」
そう自分に呟く。
階段を降りると、朝の冷気が頬を打ち、少しだけ意識が冴えた。
校舎前の広場には、リッサンドラが待っていた。
彼女は、相変わらず完璧だった。
きっちり整った制服。朝の光に映える髪。凛とした表情。
だが――アマデオの姿を見るなり、彼女の眉間にはすぐに小さな皺が寄った。
「アウレオンに誓って…」
リッサンドラは息を吐きながら近づいてきた。
「一体どうしたの?」
アマデオは笑おうとした。
見事に失敗した。
「俺? 別に…ただ…」
必死に言い訳を探しながら、言葉を絞り出す。
「…深い、すごく深い睡眠をしてただけだ。ほぼ…超越的なレベルで。」
リッサンドラは目を細め、
その言葉を一銅貨も信じていない顔をした。
「ベッドとでも戦ってたの?」
「まあ…そんなところかな。」
アマデオは肩をすくめた。
「なかなかの死闘だったよ。あやうく負けるところだった。」
ユッビーは心の中で吹き出した。
(その嘘、酔っ払い貴族が借金を否定するレベルだな。)
だがリッサンドラはただため息をつき、
今日のエイダンには多くを聞かない方がいいと悟ったようだった。
「行こう。」
そう言って、校舎の方へ歩き出す。
「『魔法構造理論』の授業に遅刻したら、ナルヴェル先生に嫌われるって噂だよ。」
アマデオはよろけないよう必死に歩調を合わせた。
校舎前の広場には、
学生たちが本を抱えたり、談笑したりしながら、
賑やかに行き交っていた。
まるで、昨夜、地獄がほんの数キロ先で燃えていたことなど、なかったかのように。
この瞬間には、まだ噂はなかった。
まだ。
アマデオは、重い足取りながらも、ほんの少しだけ呼吸を整えられた。
教室の建物に入る時、アマデオはちらりと横目でリッサンドラを見て、
小声でつぶやいた。
「もし授業中に寝そうになったら――髪引っ張ってくれ。」
リッサンドラは笑って、こう言った。
「心配しないで。ちゃんと起こしてあげる。」
今日だけは、なんとか持ちこたえなければならなかった。
クマだらけの顔でも。
心の底では世界が割れたままでも。
***
最初の授業――「魔法構造理論」の教室は、広々として優雅な空間だった。
重厚なグリモワール(魔導書)の本棚が壁一面に並び、
古びた羊皮紙のかすかな香りが漂っていた。
アマデオはリッサンドラと共に四列目に座り、
なんとか「まともな生徒」らしい姿勢を取ろうと努力していた。
教壇にはすでに、ナルヴェル教授が立っていた。
白髪に立派な口髭をたくわえた頑強な男で、
魔法の杖を手に、次々と浮かび上がるルーンを指し示していた。
「マナ保持構造は、『三重凝縮原理』に基づいて構築されている…」
彼の声は深く、堂々としていた。
言葉。
大量の言葉。
あまりにも、多すぎる。
アマデオは、ゆっくりと瞬きをした。
教室の光が、悪い夢のように歪み始めた。
浮かぶルーンたちが――
――彼に、笑いかけてきた。
(うわああああ…)
アマデオは小さく呻いた。
即座に、ユッビーが脳内で叫ぶ。
(まぶた上げろ、パクスター! 今は太陽の下でチーズみたいに溶ける時間じゃねえぞ!)
アマデオは無理やり体を起こそうとしたが、
体はまるで鉛のように重かった。
睡眠不足という疫病が、骨の隅々にまで広がっていた。
目は、すでに敗北を受け入れかけていた。
彼の視界には――
ナルヴェル教授が石の巨人となり、杖で地震を起こすような幻が見えた。
ルーンたちは、光るヒヨコに変わり、彼をつつき始めた。
リッサンドラは、隣でアマデオの頭が前に傾きかけたのを察し、
そっと肘で突っついた。
「ほら!」
唇をわずかに動かして、小声で囁く。
「集中して!」
アマデオは、かすれた声で小さく息を吐き、
なんとか垂直に姿勢を戻した。
「マナ…凝縮…構造…ヒヨコ…いや、ルーン…」
彼は口の中でブツブツ呟く。
「何それ?」
リッサンドラは眉をひそめた。
「いや、ただ…復習してただけ。」
アマデオは苦し紛れにごまかしながら、痛みに耐えて姿勢を正した。
ユッビーは脳内で毒づいた。
(集中力レベル:道端で蝶々を見送るタマル並み。)
アマデオは歯を食いしばった。
眠るわけにはいかなかった。
落ちるわけにはいかなかった。
自分の仮面を守らなければならなかった。
どうしても、生き延びなければならなかった。
教授が「エネルギー結晶の二重固定理論」の重要性について語り出す頃には、
アマデオの脳内にはすでに――
目を閉じたら即死するシナリオが五つも浮かんでいた。
爆発四散。
ランプに変えられる。
あるいは、毛のないグリフォンに転生。
そんなふうに。
永遠にも思える時間が過ぎた後――
ついに、教室に第一の鐘が鳴り響いた。
授業終了の合図だった。
アマデオは、岸にたどり着いた難破者のように、
長く震える息を吐いた。
リッサンドラは彼を横目で見て、少し笑った。
「本当にベッドと戦っただけだって言えるの?」
アマデオは、残ったわずかな威厳で笑った。
「うちのベッドは…手強いんだ。」
ユッビーは葬式の司会者のような口調で、心の中に追い打ちをかけた。
(合掌、パクスターの尊厳。死因:ベッドに敗北。)
こうして――
アマデオは、屈辱と眠気にふらつきながらも、
なんとか一限目を生き延びたのだった。
***
アマデオとリッサンドラは、カフェテリアへ向かった。
アマデオは、もはやただ休息を求めるだけだった。
頭はぐるぐる回り、朝食の賑やかな空気すら楽しめなかった。
リッサンドラは少し先を歩き、人気のないベンチを見つけた。
アマデオも足を引きずるようにそこへ向かい、
重く身体を沈めた。
彼の赤いマントは、疲労に押し潰されるように沈んだ。
目の前には、湯気を立てるシチューのボウルが浮かんでいたが、
彼の心は不穏すぎて、ひと口もすすれなかった。
隣のテーブルから、騒がしい声が聞こえた。
「聖騎士たちが見たって!」
赤いローブの少女が興奮して叫んだ。
「村がやられかけたとき、赤い影が現れたんだって!」
「昨夜、屋根から屋根へ飛び移ってたのを見たってさ!」
別の少年が目を輝かせて続けた。
「まるで飛んでるみたいだったって!」
「しかも、魔法が…青かったけど、普通じゃなかった!」
さらにもう一人が言った。
「呪文を唱えずに、ただ手を振っただけで――ドカン!って悪魔を倒したらしい!」
アマデオの心臓は激しく脈打った。
一言一言が、目に見えない刃となって胸に突き刺さる。
恐怖が、彼を凍りつかせた。
――どうして、こんなに早く噂が広まっているんだ?
脳内でユッビーが、皮肉まじりに囁く。
(ようこそ、自作自演の都市伝説へ、パクスター。
おめでとう、「紅い影」の誕生だ。)
アマデオは、テーブルの下で拳を握りしめた。
周囲の視線が痛い。
彼らにとって、自分はもうただの「エイダン・ルルー」ではない。
リッサンドラはスプーンを置き、心配そうに彼を見つめた。
「…大丈夫?」
アマデオは、震える笑みを無理やり作り、彼女を見返した。
「シチューがさ…ちょっと、懐かしくなっただけ。」
リッサンドラは一瞬アマデオをじっと見たが、
やがて小さくうなずいた。
アマデオは、震える手を必死で抑えながら、
ベンチの縁をぎゅっと掴んだ。
ユッビーは今度は、より真剣な口調で忠告を送った。
(悪くないさ、ヒーローになるのも。
たとえ、ここが本当の故郷じゃなくてもな。
でも忘れるな。
これからお前は、二つの嘘を同時に守らなきゃならない。
――臆病な農民エイダンと、皆が称える「紅の守護者」。)
アマデオはごくりと唾を飲み込んだ。
カフェテリアは、期待と憧れに満ちたざわめきの舞台と化していた。
ユッビーは、空気を軽くしようと冗談を投げる。
(まあ、少なくとも「授業中に頭をカックンする専門家」よりはマシだろ?)
アマデオは小さく半笑いを浮かべ、
深呼吸し、
二重の運命を背負う覚悟を決めた。
隣では、リッサンドラがスプーンをボウルに戻し、
柔らかい眼差しでアマデオを見ていた。
非難でもなく、ただ純粋な興味と、わずかな共感をたたえた瞳で。
アマデオはその視線を受け止めた。
彼女は、今や世界そのものを象徴していた。
アマデオを見つめ、そして――そっと、守ろうとしている存在だった。
カフェテリアの奥では、噂の波がさらに大きくなっていった。
学生たちは手振りを交えながら、夜の伝説を語り合い、
聖騎士たちが話を盛っているのでは、と疑う者もいれば、
「紅の守護者」誕生の秘密を熱心に推測する者もいた。
アマデオは奥歯を噛み締め、
即席の名声のざわめきが耳を刺すのを感じた。
「次の授業、行けそう?」
リッサンドラが問いかけ、重苦しい空気を断ち切った。
アマデオは静かにうなずき、
テーブルに手をつきながら、現実にしがみつくように身を支えた。
ユッビーが、冗談めかしながらも優しい口調で囁く。
(よくやったな、ヒーロー。
さて、今度は――魔導工学をまったく知らないフリ、だ。)
アマデオは小さく息を吐き、そして決意を込めて背筋を伸ばした。
フードを整え、激しく脈打つ心臓を抑えながら、リッサンドラの後について歩き出す。
一歩一歩が、彼を「普通の生徒エイダン・ルルー」という仮面へと導いていった。
しかし、もうひとつの顔――「紅の影」は、
確かにルクスダラの地に根を下ろしていた。
そして、どちらの顔も、彼に安息を与えることはない。
***
遠く離れた場所――
ルクスダラ王国では、緊急会議が開かれていた。
王族、貴族、そして聖騎士団の総司令官が集められている。
太陽の間(サン・チャンバー)は、かつてない緊張感に包まれていた。
浮かぶ松明の炎さえ、不安げに揺れているようだった。
中央の大理石の玉座には、
エドミール・ヴァイロス王が沈黙のまま座っていた。
指先で玉座の肘掛けを軽く叩きながら、深い思索に沈んでいる。
その隣には、ルシアン王子。
少し離れたところには、セレーネ王女とアリアンヌ王女が座り、
互いに意味深な視線を交わしていた。
部屋の中央に立つのは、聖騎士団総司令官――
ガレス・フォン・ルクレールだった。
その鎧は完璧に整っていたが、
その直立不動の姿勢は、報告の重大さを物語っていた。
「陛下」
ガレスは厳粛な声で口を開いた。
「報告は、第五〇一軍団の生存者二名からのものです。」
「二人は共に、国境北方の無名の村にて、
フードをかぶった謎の存在が悪魔の襲撃に介入したと証言しております。」
「謎の存在…?」
セレーネ王女が、冷静な口調で問い返す。
「影のような存在です。」
ガレスは言葉を選びながら続けた。
「黒い衣、赤いマント。まるで幽霊のように動いたと。」
「さらに、その者の魔力は――青く輝いていた。
しかし、従来の魔法体系には当てはまらない。
詠唱もなく、術式もなく、ただ――純粋なエネルギーだけ。」
重苦しい沈黙が、太陽の間を支配した。
エアレンタール公、グラヴォスのエナリエル侯爵夫人、
そして他の有力貴族たちは、
表情を固くし、席に身を沈めた。
魔法体系を超越する存在――
それは、数世紀にわたる伝統への根本的な挑戦だった。
ルシアン王子は腕を組みながら、問うた。
「召喚獣の類ではないか?」
エナリエル侯爵夫人は、冷たく首を横に振った。
「陛下、
最後の聖戦――魔王との戦い以来、
召喚儀式は行われておりません。」
「千年以上も前のことです。
それ以降、召喚の儀式は禁じられております。」
エドミール王は、ゆっくりと頷いた。
その瞳は、重い歴史を抱えているかのように、深く沈んでいた。
「――目撃者たちは、他に何を報告しているのか?」
王は、低い声で問うた。
ガレスは一瞬、目を伏せた。
「――礼拝堂に取り残された民間人を救出し、
小悪魔たちを難なく撃破。
そして、
上級悪魔を――
単独で撃破。」
太陽の間に、
かすかな――だが確かな、息を呑む気配が走った。
エアレンタール公爵は、眉をひそめて問うた。
「たった一人でか?」
「はい、両名とも同じ証言をしております。」
ガレスは一切の迷いなく答えた。
グラヴォスのエナリエル侯爵夫人は、椅子に深くもたれ、
硬い表情を崩さぬまま、口を開いた。
「名乗りは…?」
ガレスは首を横に振った。
「名前は名乗らず。
ただ現れ、戦い、そして、援軍が到着する前に消えました。」
ルシアン王子は、王へと真剣な眼差しを向けた。
「召喚された者ではないなら――
魔王側でもないなら――
一体何者なのか。」
その問いに、貴族たちはざわめいた。
エドミール王は静かに立ち上がり、
その声は、太陽の間の隅々にまで響き渡った。
「どんな存在であろうと――」
「誰であろうと――」
「ルクスダラは、知る必要がある。」
そして、
王は重々しく、評議会を見渡した。
「調査を続けよ。
観察を怠るな。
だが、軽々しい断定も――油断も、許されない。」
「――この『紅の影』を、必ず見つけ出せ。」
王の冷徹な宣告と共に、
評議会は解散となった。
***
その頃、ルクスダラの空の下では――
噂が、芽吹き始めていた。
***
さらに南へ、
文明の最後の吐息を越えたその先。
夜が永遠に支配し、
大地が呻き、
空さえ傷ついた世界。
そこに、「黒き要塞」がそびえていた。
禁忌の中心に築かれたその砦には、
腐敗した魔力に蝕まれた骨の玉座があった。
そして、その玉座に――
彼は座していた。
人でもなく、
神でもない。
それよりも古い、
それよりも忘れ去られた存在。
腐敗した風が吹き、
囁きを運んできた。
恐怖の断片。
ルクスダラで震える人間たちの噂話。
――紅い影。
――悪魔でもなく、人でもない存在。
――闇を切り裂く青き稲妻。
最初、
それは取るに足らないものと無視された。
――永劫の征服の炎に比べれば、
小さな火花など、塵に過ぎない。
だが、囁きが増すにつれ、
闇そのものが――
かすかに、疑い始めた。
彼は、ゆっくりと目を開けた。
燃え盛る二つの煤けた光。
何世紀もの憎悪と飢えを宿した、
古の焔。
その噂は、まだ名を持たない。
姿も持たない。
だが確かに、そこにはあった。
――存在してはならぬもの。
――異物。
――遺残。
彼は、語らなかった。
唸りもしなかった。
動きもしなかった。
ただ――存在した。
それだけで、
玉座の間はその目覚めの重みに軋み、歪んだ。
壁に映る影たちは、ざわめき震えた。
命令が下されたわけではない。
それでも、
虚無の使徒たち――忌まわしき存在たちが動き出した。
情報屋。追跡者。暗殺者。
闇の中を静かに、北へ向かって広がっていく。
沈黙こそが、彼の命令だった。
恐怖こそが、彼の旗だった。
一言も発せずに、
彼は狩りの開始を告げた。
そして、黒い玉座の陰で――
囁き続ける噂を聴きながら――
彼の心に、わずかな「何か」が浮かび上がった。
まるで、水面下にきらめく刃のように、一瞬だけ。
――「またか。」
それは、怒りではなかった。
飢えでもなかった。
ただ、太古の本能そのもの。
――かすかな震えだった。
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