第2話 五月雨(偽)

 五月のある日、朝起きると雨が降っていた。今までだと憂鬱な気分になるところだったけれど、今回の雨は心待ちにしていた。自分のことながら単純だと思う。

 買ったばかりの新しい傘をさして家を出る。少し遠回りしてクラスメイトの雨の家の前を通る道を行く。前に雨と次の雨の日はと約束したから。

 歩きながら少し不安になる。僕は心待ちにしていたけれど雨はどうだろう。僕と約束したことなんて忘れてしまっていないだろうか。のこのこと出向いて玄関のチャイムを押してももういなかったりしないだろうか。

 そんなことを考えながら歩いていると雨の家が見えてくる。二階の雨の部屋、窓に人影が見えたような気がする。

 どんな顔をしてチャイムを押そうかなんて考えながら雨の家にたどり着くと、チャイムを押す前に雨が出てくる。

「約束通り。よく来たね。偉いよ、大地」

 と喜んでくれた後、

「傘、大きい」

 とクレームがつく。

「濡れちゃうよ」

 僕が言い訳すると、

「少しくらい濡れても大丈夫でしょ」

 と呆れたような言葉が返ってくる。雨はがっかりしたのかもしれない。

 通学用の鞄が濡れると大変だと思うから気を利かせたのに、叱られたみたいで少し気持ちが凹む。でも、傘には入ってくれたので、気を取り直して雨をエスコートする。

「よく気付いたね」

 多分、僕が歩いているのをずっと見ていたのだろうと思うけれど、思うだけで口には出さないようにする。

「大地を待ってた」

 雨はそう言って微笑む。

「僕も楽しみにしてたよ」

 雨につられてそんなことを口走る。

「正直でよろしい」

 尊大な口調で雨が言う。今日は少し強い雨。強気な雨。

「五月の雨だから、五月雨だね」

 話題がなければ黙って歩いていればいいのに、僕はつまらない話題を振る。

「大地、違うよ。五月雨は旧暦の五月の雨。梅雨の雨だよ」

 雨はそう言って僕のことを笑う。五月雨は梅雨の事。知らなかった。

「そうなんだ。雨は物知りだね」

 感心してそう雨のことを褒める。

「雨の事ならわかるよ。自分の事だもの」

 良く分からない根拠の答えが返ってくる。雨と雨。ごちゃごちゃになる。

「それなら今日の雨は間違いの五月雨だね」

 訳の分からなくなった僕は訳の分からないことを言っている。そんな自覚はあるけれど、いい加減な僕の言葉に対しても雨は面白がっている。

「間違いの五月雨。面白いね。今の暦だと確かに五月の雨だから今日の雨を五月雨っていう人もいると思う。本来の五月雨と元々は誤用の五月雨。別の物なのに同じ名前。大地、こんがらがってるんでしょ」

 そう言って雨は僕のことをからかう。

「今の時期の雨はなんて言うのか考えてる。春雨とかどうかなと思ったけれど、暦の上だともう立夏を過ぎてるね。初夏の雨か。初夏の雨の別名なんて思いつかないや」

 この混乱を僕は楽しんでいる。今日の雨の名前がわかったら、雨の事を一つ多く知ることができるような気がしたので雨に聞いてみる。

「よろしい。特別に教えてあげる。今の時期の雨はバクウというの。多分」

 自信ありげに言う割には最後に「多分」とつけて予防線を張ってくる。

「どんな字を書くのか教えて」

 分からないので素直に雨に尋ねる。

「麦の雨。麦の収穫の時期に降る雨ってことだよ」

 雨はそう教えてくれる。麦の収穫って今頃なのか。普段食べているものなのに、全く知らないものだななんて考える。身近なものでも興味を持たなければ知らないまま。雨みたいに興味を持っても分からないこともあるけれど。

「今頃は麦の収穫の時期なんだね。多分常識なんだろうけど、知らなかったよ」

 雨の知識に感心してそんな言葉が漏れる。

「このあたりで麦畑なんてないからね。私も本物の麦畑って見たことない」

 だから仕方ないよねと言う雰囲気で雨が言う。

「麦は麦雨の前に収穫するんだって言われてもピンとこないよね」

 そう雨は麦の話を続ける。

「収穫の前に雨が降ると何か困ることがあるんだろうね」

 うっかり口を滑らせる。雨が困ることがあるなんて言ってしまったことに気付いて焦る。

 雨は僕の方を見て少し笑う。何も言わないけれど、悪いこと言いちゃったって思った僕の内心を理解しているみたいだ。

「私はいいことばかりじゃないかもしれないからね」

 ふっと寂しげに雨がそう笑う。「そんなことないよ」って否定する言葉が咄嗟に出ない。降っている雨の事にしても隣にいる雨の事にしてもそれは嘘だと自分でも気づいたから。きっと嘘はすぐに雨にバレる。すぐには返事ができなかったけれど、

「それでも雨が必要だよ」

 と伝える。百点満点の答えではなかったかもしれない。だけど雨は何も言わない。 

 僕は勝手に雨が満足したみたいだ思うことにする。

 生き物たちは雨が降らないと生きていけない。でも雨が降ると困ることがある。脈絡もなく行き過ぎた薬は毒にもなるという話を思い出す。

 今日の雨は薬か毒かなんて馬鹿げたことを考える。どれだけ強く降っていても、降っているから雨とこうしていられるわけで。だったら僕にとって雨は薬だなと言うところまで思考が進んだところで、

「変なこと考えてるでしょ」

 と雨に言い当てられる。変なことを考えているときの僕に何か特徴があるのだろう。雨はそれを指摘するのが楽しそうだ。

「僕は雨を心待ちにしていたなって考えてた」

 ちょっとニュアンスを変えて言い訳する。別に雨は咎めたわけではなかったみたいで、僕のいい加減な答えを追及してこない。

 僕は雨を心待ちにしていた。雨もそうだったらいいななんて考える。

 雨が降ると困ることがあるなんて言ったけれど、傘があったら大丈夫。そんなことを考えてふと見ると、僕の制服の袖が結構濡れている。隣を見ると雨の方も。申し訳ない気持ちになって少し傘を雨の方に寄せる。やっぱり困ることがあるんだななんて当たり前のことを考えながら。

「傘を寄せるんじゃない。こうするの」

 そう言って雨は少し僕の方に体を寄せてくる。心臓に悪いので急に予測していないことをするのはやめて欲しい。

「嫌だったら離れるよ」

 僕の動揺を見て取った雨がそんなことを言う。僕のことをからかう口調だ。

「確かに結構恥ずかしいけど、嫌じゃない。急だったからびっくりしただけだよ」

 そんな弁解をする。恥ずかしいけど嬉しい気持ちと雨の機嫌を損ねたくない気持ちが半分半分。

 自転車通学の同級生が僕たちを追い越していく。今日は雨が強いから合羽姿だ。

 後で冷やかされたらなんて答えようかと迷う気持ちと、恥ずかしいけど、それもまたいいかという気持ちも半分半分。

 帰りも雨が止まなければいいななんて欲張りなことを考えながら、校門の中へ入っていった。

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