第7話 水槽の中の沈黙
朝の光は、文子の好みに合わせたカーテンの青を通して、少しだけ湿っていた。
僕たちは向かい合って、パンとコーヒーの朝食をとっていた。
パンは食パンではなく、デニッシュ系のもの。ジャムが小さな瓶に入って、スプーンも陶器製の細いものだった。文子はそういう“選び方”を大事にする人だった。
「昨日ね、千尋ちゃんが、ついにブルグミュラー終わったのよ」
文子がそう言ったのは、二口目のコーヒーを飲んだあとだった。
千尋ちゃん、というのは彼女のピアノ教室の生徒だ。小学生だったか中学生だったか、僕はいつも忘れてしまう。
「へえ、すごいじゃん」
僕はパンをかじりながら答えた。ジャムの甘さが、やけに舌に重く残った。
「すごいでしょ。でもね、どうしても十番だけテンポが走るの。何度言っても、“これで大丈夫です”って顔するのよね。あの子、いつもそう。間違いを認めないっていうか……」
文子はナイフでジャムの瓶をなぞるようにして、パンにぬり広げた。
声には苛立ちはなかったが、言葉には明確な“点検”のにおいがあった。
人間を観察し、正しく評価し、少し鼻を鳴らす――文子の話し方は、いつもそういう構造だった。
「……まあ、子供だからね」
と僕は言ったが、それは防御の言葉だった。
本音でも、意見でもない。
とにかく話題の刃先から身を引きたかった。
「子供だから、って言えば済むの?」
文子は笑わずに言った。
その言い方は攻撃ではなかった。
でも、すべてを打ち消してしまうような平坦さがあった。
それは、僕の中で“肯定”の通路を断ち切る音にも聞こえた。
「いや、済むってわけじゃないけど……」
言いながら、僕は水槽の方を見た。
昨晩、グッピーは確かに泳いでいたはずだった。
でも今、一匹は底に沈んで動いていなかった。
水の中でじっとしている赤い魚。まるで、話を聞いていない誰かのように。
「それより……庭のトマト、また枯れかけてたけど、水やった?」
文子の声が僕を引き戻した。
「……やったと思うけど」
「思うって何?」
「昨日の朝、たぶん……」
「“たぶん”って何よ」
僕はジャムをぬっていないパンの端をかじり、咀嚼しながら考えた。
この人は、なぜそんなに明確さを求めるのだろう。
人は、すべての行動に明確な記憶を持てるものではない。
それを伝えるのが、いつも難しかった。
「覚えてないだけだよ。やったと思う。でも、忘れてたら……ごめん」
文子は黙った。
ただ、ふっと鼻で息をしたのが聞こえた。
それは“怒り”ではなかった。
だが、“軽蔑”に似た温度だった。
そのあとしばらく、二人とも何も言わなかった。
食器の触れる音と、水槽のポンプのくぐもった機械音だけが部屋を支配していた。
じっとしていた赤いグッピーが、ゆっくりと尾を動かした。
でも、その動きは生きているというより、沈むのを思いとどまっているようだった。
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