第5話 文子という女について
僕は、どこから話し始めればいいかをしばらく考えていた。
文子という人間を言葉にするのは、今でも難しい。
彼女は、言葉にされることを拒んだまま死んでいった。
そんな気がする。
「彼女は、教師でした。ピアノの。子供たちに教えていて……」
唐突に始まった語りに、稲垣は微動だにしなかった。
目を閉じていたかもしれない。あるいは、聞いていないふりをしていたのかもしれない。
でも、それでよかった。
誰かに向けるようでいて、これはたぶん、自分に向けて語っていた。
「笑うと、口角がほんの少しだけ右に寄るんです。
本人は気にしてて、よく鏡の前で練習してました。笑顔の。
“ちょっと傾いてると、生徒に変な癖がうつるから”って。……そんなこと、あるんですかね」
くだらない話だった。
だが、文子という女は、そういう人だった。
几帳面で、正しくて、清潔で、強い。
「彼女は……強い人だったんです。
僕とは……ちがう。
何かを許すことに、理由が必要だと考える人でした。
正しさを……信じてる人だった」
自分で言っていて、だんだん腹が立ってきた。
強い人間を好きになると、どうしても、ついていけなくなるときがある。
そのことに、ずっと前から気づいていたはずなのに。
なぜか、僕は彼女と結婚した。
「でもね、稲垣さん。
彼女の“正しさ”って、優しさじゃなかったんですよ。
相手に何かを突きつけるような正しさでした。
“あなたが悪い”って、ただ一言で言って済むような。
正論を、手紙のように置いていく人だったんです。
それが……苦しかった。毎日が」
稲垣の目が、ゆっくりとこちらに戻ってきた。
そして、短く問いかけた。
「君は、どう思っていたんだ? 本当に、彼女のことを」
その問いは、やさしい口調だった。
だが、そのやさしさが、刃だった。
答えを引き出すのではなく、心の内側を裂くような。
僕は、しばらく黙っていた。
“どう思っていたか”。
言葉にできるものなら、苦労はしなかった。
結局、僕は質問に答えなかった。
かわりに、ただこう言った。
「彼女は……落ちたんです。自分で。僕じゃない」
言い切ったとき、自分の声が少しだけ震えていることに気づいた。
それは寒さのせいだったのか、あるいは――
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