第81話:リベンジ
忙しさは俺の予想をはるかに上回っていた。1週間の労働が終わりを迎えても、残業が落ち着く気配はない。
原因は、大手IT企業の大規模な個人情報流出。その企業はSNSやマッチングアプリを運営していることもあり、サービスを利用している顧客からすればヒヤヒヤものだろう。
我が社は個人情報や情報セキュリティのセミナーを実施する教育系の会社だ。事業規模としては中小でありながら、業界ではそれなりに名が知られているらしい。こういった事件が報道されるたびに、問い合わせが急増するのだ。
企業からの問い合わせなら営業に回せるけど、大抵まずは個人からの連絡だ。電話にしろメールにしろ、対応するのは事務員、つまり俺だ。
残業時間は夏季休暇前と比べて平均1.5時間プラス。もうじき社外で行われる講演会の準備も始まるし、無事に秋を迎えられるか今から不安で仕方がない。
「売上が増えるのは営業としては喜ばしいですけどねー。一過性のものだとしたら、残業が増える割に四半期のインセンティブはあまり変わらないから、正直微妙ですよね」
隣に座る春は、ストゼロ片手に焼き鳥を頬張る。
「それに
「……スマン」
金曜日の本日、仕事が終わったのは夜の9時半。いつもの待ち合わせ場所のカフェに移動すると、予想通り春はぷりぷりウーマンだった。
春をなだめながら新宿の馴染みの居酒屋に向かうも、時間が時間だけに満席となっており入店できず。
そのためコンビニで酒とツマミを買い、公園のベンチで横並びに座り、駄弁っているというわけだ。ちなみにこの公園は、春に初めてファーストネームで呼ばれた場所でもある。
「別に、いつものお店は明日リベンジするからいいんですけどー」
明日、土曜日は俺だけ出勤のため、春とは夕方頃に新宿で待ち合わせの予定だ。そして当たり前のように2日連続で飲む約束をしている。
「それより、来週も忙しそうな感じですか? 土日の飲みもいいですけど、華金は特別なんですからね!」
なおも、ぷりぷりと怒りを露わにする春。アルコールがおいしいシチュエーションはいくつも存在するが、やはり1週間の労働を終えた後に飲む酒が格別なのは確かだ。
「任せろ。来週こそ、金曜日は意地でも定時で上がらせてもらうつもりだ」
「あ、言いましたね? 吐いた唾は飲めませんよ?」
春は3本目のストゼロをあおり、挑発するようにニヤリと笑う。
やってやろうじゃねえか。こちとら社会人経験倍以上の大先輩だぞ。
俺は淡麗グリーンレーベルを飲み干すと同時に、ポケットからスマホを取り出す。そしてブックマークしていたHPにアクセスし、電話をかけた。
「……もしもし。来週の金曜日、2名で予約をお願いします……はい、代表者の名前は
春の唇がわずかに開く。声には出さずとも、驚きが露わになっていた。
通話を切った瞬間、俺は春に渾身のドヤ顔を見せつける。
「……ずいぶん、大きく出ましたね」
「言われっぱなしは嫌だからな」
守りに入ってばかりでは消耗する一方だ。たまには攻めの姿勢に転じないと。
「それで、どこを予約したんですか?」
「ビアホール」
「あ……」
声も出せずに見つめ返してきた春の瞳に、嬉しさがゆっくりとにじんでいく。
「前回は行けなかったからさ、リベンジしようぜ」
ビアホールは先月、春の誕生日祝いで訪れる予定だったものの、春のおじいさんの体調悪化により延期となったのだ。
「……ずるいです」
ストゼロのロング缶を既に2本空けているからか、春の顔は夜の公園でもわかるほどに赤い。
「ずるくはないだろ」
俺だって楽しみにしてたんだ。ビアホールで飲まずして、今年の夏は終われない。
「予約したんだから、春こそ残業するなよ?」
「私はしごできなので全然余裕ですー!」
春は焼き鳥を豪快にフィニッシュし、ビニール袋に串を突っ込んだ。動きが乱暴なのは酔いが回っているからか、それとも単なる照れ隠しか。
「もうっ、そろそろ帰りますよ!」
自分から帰ると言い出すとは珍しい。やっぱり後者のようだ。
「ほら悠せんぱいも、早く立つ!」
「はいはい」
ゴミはコンビニのゴミ箱で処分し、それぞれの手がフリーになる。しかし空いたばかりの手は、互いの熱ですぐに埋まった。
☆ ☆ ☆
駅で春と別れた俺は、千葉方面の電車に揺られながら来週の業務のスケジュールを脳内シミュレートしていた。
「……本当に終わるかなあ」
正直、19時予約はカッコつけすぎたかもしれない。でもここらでメリハリつけないと、長時間の残業が慢性化しそうだし。
すべての元凶は某IT企業の個人情報流出だ。そういえば俺も大学時代、
約8年ぶりにログインすると、デザインも使い勝手も当時とは大きく変わっていた。あの頃はショート動画の投稿なんてできなかったはずだし、おすすめユーザーの表示機能もなかったような。
一覧で表示されるおすすめユーザーを確認していくと、いくつか見知った顔があった。おそらくスマホに登録されている個人情報と紐づいているのだろう。
地元の同級生で結婚した人もちらほらいるらしく、アカウントのアイコンが子どもの顔になっている者も少なくない。そりゃ27歳にもなれば、そういうヤツもいるか。
ふと、ひとつのアカウントが目に留まる。その人物も、家族写真をアイコンにしているようだ。
「……ん?」
その顔に、強烈な既視感があった。本名らしきユーザー名に記憶はないものの、ある女性が頭に浮かぶ。ただ、俺の知っている彼女とは雰囲気が異なるため、同一人物という保証はない。
「……」
俺は吸い寄せられるように、そのアカウントをタップしていた。
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